表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/35

溶けきらない何か

市民プール。


エントランス。


自動ドアが開いた瞬間、重く湿った熱気がアキラの肌にまとわりついた。

独特の塩素の匂いが鼻腔を突き、高架下の反響音のような子供たちの歓声が、高い天井にぶつかっては降り注いでくる。


「……なんでオレ、ここにいんだ?」


アキラは更衣室の入り口で、金縛りにあったように足を止めていた。


「来るって言ったじゃん」


背後から、湿り気を帯びた空気よりも軽いアヤの声が降ってくる。


「言ってねえだろ!!」


「言ったことにしといた」


「意味わかんねえ!!」


隣でミカとナオが、顔を見合わせてはクスクスと喉を鳴らす。


「ほらほら、早く更衣室行こ」


「遅れるよー」


「お前らグルだろ!!」


アヤの手から放り投げられた袋が、アキラの腕に重みを持って収まった。


「はいこれ」


「なんだよこれ」


「水着」


「聞いてねえぞ」


「今言った」


「今じゃねえよ!!」


袋の中を覗き込む。


紺色のタンキニ。

短パンに、肌の露出を抑えたスポーティな上着。


アキラの思考が、白く濁ったプールの蒸気の中に溶けていく。


「……あれ買ってたのか」


アヤは悪びれもせずに目を向ける。


「うん。似合ってたし」


「はあ?」


「この前の試着、普通に良かったじゃん」


さらっと言う。


「いや、それとこれとは——」


言いかけて、アキラが止まる。


アヤは気にした様子もなく、袋を指でつつく。


「ていうかさ」


「ノブっちも普通に見てたじゃん」


「……は?」


脳裏に浮かぶ。

デパートの水着売り場。

試着室のカーテンから覗いた、固まったノブの顔。


「それで別に何も問題なかったし」


「……いや、それは」


言葉が詰まる。


アヤは軽く肩をすくめ、更衣室の入り口を指差した。


「ま、深く考えなくていいって。そういうの」


---


更衣室。


(……なんでオレがこんなの)


ロッカーの金属質な音が響く中、アキラは手の中の布地を見つめる。


(でも普通の水着よりはマシか?)


(いやいいのか?それで)


「アキラちゃーん、はやくー」


「和泉くんまだー?」


「うるせえ!!」


数分後。


「……着たぞ」


カーテン代わりの仕切りが、シャッという音を立てて開く。

一瞬、湿った更衣室の空気が氷結したように止まった。


ミカ「おお……」


ナオ「おお……」


アヤ「うん」


「その“うん”やめろ」


アキラは顔をしかめる。


逃げるように出口に向かう。

でも服を直す手が落ち着かない。


---


プールサイド。


「……アキラ」


背後からかけられた声に、アキラの肩が跳ねた。

振り返ると、そこには硬い表情のノブが立っていた。


アキラは固まる。


「ノブ!?なんでいる!!」


ノブの目も驚きに揺れている。

アヤが口角を上げ、その視線の交錯を愉しむように割り込んだ。


「ちょうどいいじゃん」


「は?」


「ノブっち、感想どう?」


「やめろ!!」


ノブの視線が、アキラに吸い寄せられるように固定された。

水滴が跳ねる青い景色の中で、アキラの白い肌と、紺色の水着がやけに鮮明に映る。


ノブは一瞬、息を呑むような仕草を見せ、

それから逃げるように視線を逸らした。


「……普通にいいぞ」


「……は?」


アキラは硬直した。

心臓の音が、プールの反響音をかき消すほどにうるさい。


「じゃあ軽く泳ごっか」


「おい、待てオレ泳げねえんだけど」


「知らない」


アヤ即答。


「鬼かお前」


そこへ―

大きな手が差し出された。


「アキラ。手貸せ」


見上げると、ノブがいた。

顔は不自然に真面目だが、その耳たぶは茹でたように真っ赤に染まっている。


(……ノブも逃げてねえんだな)


「おう……ありがと」


アキラはその手を、少しだけ強く握った。


---


売店前。


「……ふう」


バスタオルを巻き、アキラはベンチに腰を下ろした。


ノブが、売店で買ってきた飲み物を差し出してくる。


「ほら、アキラ」

「……おう、ありがとな」


容器の中には、透き通ったサイダーと、不規則な形をした氷。

ストローでかき混ぜると、シャリ、と音を立てる。

尖っていた氷の角が陽射しに照らされ、徐々に小さく丸くなっていく。


アキラは一口、その冷たい液体を喉に流し込んだ。

少しずつ何かが溶けていくような気がした。


「疲れたか?」


「別に」


「そうか」


ノブも隣で自分のコップを傾けている。


沈黙。


でもその沈黙が、なぜか妙に心地よかった。


水の音、遠くの監視員の笛の音。


プールの水面で乱反射した光が、天井をゆらゆらとなぞっている。


アキラはコップの中をもう一度見る。


「なあ」


「ん?」


「オレさ―」


一拍。


「変じゃないか?」


視線を足元に落とす。


「変じゃねえよ」


迷いのない、低い声。


一拍。


「……むしろ、すげえ可愛いぞ」


消えそうなほどの小声。


だが、それはアキラの鼓膜に届いた。

アキラが反射的に顔を上げる。


ノブもさっと顔を背ける。

その耳は、隠しようもなく赤かった。


「は?」


「……いまなんていった?」


「いや別に」


「……別にってなんだよ」


「別になんも言ってねえし」


ノブは無表情を装いながら視線を泳がせている。


けれど優しい声で。


「お前さ……」


少しだけ、困ったように、ノブが笑う。


「考えすぎ」



遠くから、アヤの視線が突き刺さる。


「ほらね」


「なにがだよ!!」


アヤがバスタオルを揺らしながら近づいてくる。


「ねえアキラちゃん」


「なんだよ……」


「あんたそのカッコ、どっからどう見ても女じゃん」


「は?」


「だからさ」


軽く笑うアヤ。


「そんな難しく考えなくていいって」


その言葉に、アキラは反論しようとして、止まった。


一拍。


(……違うだろ)


そう思う。


思うのに——

胸の奥に溜まっていた塊が溶けていくような、妙な軽さを感じていた。


(……なんで、ちょっと楽なんだよ)


「ま、気楽にしな」


アヤはそれだけ言って、背を向ける。


「じゃ、私は売店行ってくる」


ノブは何も言わない。


アキラは必死にアヤの言葉を反芻する。


(……は?)


(今の、何だよ)


(褒めてんのか?違うだろ?)


(でも、なんか)


(水の中より軽い)


ノブが、アキラの髪についた水滴を指で弾いた。


「お前さ」


「ん?」


「普通に似合ってるよ」


「……っ」


「だからそれやめろ!!」


そこに遠くからアヤ達三人の声。


「青春だねー」

「だよねー」

「いいよねー」


「うるせえ!!」


アキラの叫びは笛の音にかき消された。


夕方。


帰り道の空気は、少しだけ涼しさを孕んでいた。

アキラの髪はまだ湿っていて、歩くたびに微かな重みを感じる。


「なあノブ」


「ん?」


「今日さ」


「うん」


少し間。


「……別に悪くなかったな」


ノブが隣で短く笑った。


「だろ」


それだけ。


アキラは真っ直ぐに伸びる影を見つめる。


(……女とか男とかじゃねえのか?)


(いや、でも違う気もする)


(でも今は……)


「まあいっか」


ぽつりと溢れた独り言。


「なにがだよ」


「知らねえ」


夕日の道。

その歩調は、昨日までよりも、ほんの少し軽かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ