溶けきらない何か
市民プール。
エントランス。
自動ドアが開いた瞬間、重く湿った熱気がアキラの肌にまとわりついた。
独特の塩素の匂いが鼻腔を突き、高架下の反響音のような子供たちの歓声が、高い天井にぶつかっては降り注いでくる。
「……なんでオレ、ここにいんだ?」
アキラは更衣室の入り口で、金縛りにあったように足を止めていた。
「来るって言ったじゃん」
背後から、湿り気を帯びた空気よりも軽いアヤの声が降ってくる。
「言ってねえだろ!!」
「言ったことにしといた」
「意味わかんねえ!!」
隣でミカとナオが、顔を見合わせてはクスクスと喉を鳴らす。
「ほらほら、早く更衣室行こ」
「遅れるよー」
「お前らグルだろ!!」
アヤの手から放り投げられた袋が、アキラの腕に重みを持って収まった。
「はいこれ」
「なんだよこれ」
「水着」
「聞いてねえぞ」
「今言った」
「今じゃねえよ!!」
袋の中を覗き込む。
紺色のタンキニ。
短パンに、肌の露出を抑えたスポーティな上着。
アキラの思考が、白く濁ったプールの蒸気の中に溶けていく。
「……あれ買ってたのか」
アヤは悪びれもせずに目を向ける。
「うん。似合ってたし」
「はあ?」
「この前の試着、普通に良かったじゃん」
さらっと言う。
「いや、それとこれとは——」
言いかけて、アキラが止まる。
アヤは気にした様子もなく、袋を指でつつく。
「ていうかさ」
「ノブっちも普通に見てたじゃん」
「……は?」
脳裏に浮かぶ。
デパートの水着売り場。
試着室のカーテンから覗いた、固まったノブの顔。
「それで別に何も問題なかったし」
「……いや、それは」
言葉が詰まる。
アヤは軽く肩をすくめ、更衣室の入り口を指差した。
「ま、深く考えなくていいって。そういうの」
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更衣室。
(……なんでオレがこんなの)
ロッカーの金属質な音が響く中、アキラは手の中の布地を見つめる。
(でも普通の水着よりはマシか?)
(いやいいのか?それで)
「アキラちゃーん、はやくー」
「和泉くんまだー?」
「うるせえ!!」
数分後。
「……着たぞ」
カーテン代わりの仕切りが、シャッという音を立てて開く。
一瞬、湿った更衣室の空気が氷結したように止まった。
ミカ「おお……」
ナオ「おお……」
アヤ「うん」
「その“うん”やめろ」
アキラは顔をしかめる。
逃げるように出口に向かう。
でも服を直す手が落ち着かない。
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プールサイド。
「……アキラ」
背後からかけられた声に、アキラの肩が跳ねた。
振り返ると、そこには硬い表情のノブが立っていた。
アキラは固まる。
「ノブ!?なんでいる!!」
ノブの目も驚きに揺れている。
アヤが口角を上げ、その視線の交錯を愉しむように割り込んだ。
「ちょうどいいじゃん」
「は?」
「ノブっち、感想どう?」
「やめろ!!」
ノブの視線が、アキラに吸い寄せられるように固定された。
水滴が跳ねる青い景色の中で、アキラの白い肌と、紺色の水着がやけに鮮明に映る。
ノブは一瞬、息を呑むような仕草を見せ、
それから逃げるように視線を逸らした。
「……普通にいいぞ」
「……は?」
アキラは硬直した。
心臓の音が、プールの反響音をかき消すほどにうるさい。
「じゃあ軽く泳ごっか」
「おい、待てオレ泳げねえんだけど」
「知らない」
アヤ即答。
「鬼かお前」
そこへ―
大きな手が差し出された。
「アキラ。手貸せ」
見上げると、ノブがいた。
顔は不自然に真面目だが、その耳たぶは茹でたように真っ赤に染まっている。
(……ノブも逃げてねえんだな)
「おう……ありがと」
アキラはその手を、少しだけ強く握った。
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売店前。
「……ふう」
バスタオルを巻き、アキラはベンチに腰を下ろした。
ノブが、売店で買ってきた飲み物を差し出してくる。
「ほら、アキラ」
「……おう、ありがとな」
容器の中には、透き通ったサイダーと、不規則な形をした氷。
ストローでかき混ぜると、シャリ、と音を立てる。
尖っていた氷の角が陽射しに照らされ、徐々に小さく丸くなっていく。
アキラは一口、その冷たい液体を喉に流し込んだ。
少しずつ何かが溶けていくような気がした。
「疲れたか?」
「別に」
「そうか」
ノブも隣で自分のコップを傾けている。
沈黙。
でもその沈黙が、なぜか妙に心地よかった。
水の音、遠くの監視員の笛の音。
プールの水面で乱反射した光が、天井をゆらゆらとなぞっている。
アキラはコップの中をもう一度見る。
「なあ」
「ん?」
「オレさ―」
一拍。
「変じゃないか?」
視線を足元に落とす。
「変じゃねえよ」
迷いのない、低い声。
一拍。
「……むしろ、すげえ可愛いぞ」
消えそうなほどの小声。
だが、それはアキラの鼓膜に届いた。
アキラが反射的に顔を上げる。
ノブもさっと顔を背ける。
その耳は、隠しようもなく赤かった。
「は?」
「……いまなんていった?」
「いや別に」
「……別にってなんだよ」
「別になんも言ってねえし」
ノブは無表情を装いながら視線を泳がせている。
けれど優しい声で。
「お前さ……」
少しだけ、困ったように、ノブが笑う。
「考えすぎ」
遠くから、アヤの視線が突き刺さる。
「ほらね」
「なにがだよ!!」
アヤがバスタオルを揺らしながら近づいてくる。
「ねえアキラちゃん」
「なんだよ……」
「あんたそのカッコ、どっからどう見ても女じゃん」
「は?」
「だからさ」
軽く笑うアヤ。
「そんな難しく考えなくていいって」
その言葉に、アキラは反論しようとして、止まった。
一拍。
(……違うだろ)
そう思う。
思うのに——
胸の奥に溜まっていた塊が溶けていくような、妙な軽さを感じていた。
(……なんで、ちょっと楽なんだよ)
「ま、気楽にしな」
アヤはそれだけ言って、背を向ける。
「じゃ、私は売店行ってくる」
ノブは何も言わない。
アキラは必死にアヤの言葉を反芻する。
(……は?)
(今の、何だよ)
(褒めてんのか?違うだろ?)
(でも、なんか)
(水の中より軽い)
ノブが、アキラの髪についた水滴を指で弾いた。
「お前さ」
「ん?」
「普通に似合ってるよ」
「……っ」
「だからそれやめろ!!」
そこに遠くからアヤ達三人の声。
「青春だねー」
「だよねー」
「いいよねー」
「うるせえ!!」
アキラの叫びは笛の音にかき消された。
夕方。
帰り道の空気は、少しだけ涼しさを孕んでいた。
アキラの髪はまだ湿っていて、歩くたびに微かな重みを感じる。
「なあノブ」
「ん?」
「今日さ」
「うん」
少し間。
「……別に悪くなかったな」
ノブが隣で短く笑った。
「だろ」
それだけ。
アキラは真っ直ぐに伸びる影を見つめる。
(……女とか男とかじゃねえのか?)
(いや、でも違う気もする)
(でも今は……)
「まあいっか」
ぽつりと溢れた独り言。
「なにがだよ」
「知らねえ」
夕日の道。
その歩調は、昨日までよりも、ほんの少し軽かった。




