不完全な平等
帰り道。
夕方の光が、校舎のガラス窓に反射していた。
部活帰りの足音が遠くに散っていく。
二人の間だけ、少し遅れて歩いているような空気。
「なあノブ」
アキラが、少し前を見たまま言う。
「なんだ?」
「またお前んち行っていいか?」
「は?」
ノブの足が、一瞬だけ止まりかける。
「……いや、別にいいけど」
「ちょっと考えたんだよ」
アキラは、言葉を選ぶみたいに一拍置く。
「お前言ったじゃん。わかんねえなら、わかるまでやろうって」
「いや、それは言ったけどよ」
ノブが苦笑いしかけて、途中で止める。
「やり方がわかんねえんだ」
アキラはそこで、少しだけ目を逸らす。
風が制服の裾を揺らした。
「……それ、お前ちょい無理してねえ?」
ノブはすぐには返さない。
アスファルトを見てから、頭をかく。
「俺が言ったのはさ」
「わかんねえなら、一緒にやってこうって話で」
「回数増やせって意味じゃねえよ」
一拍。
言葉を探すように、視線を横にずらす。
「今のお前、それさ」
「“逃げねえようにやらなきゃ”ってなってねえか?」
アキラの肩が、ほんの少しだけ揺れる。
「でもそれだと、お前だけ頑張る形になってねえ?」
その言葉に、アキラが即座に返す。
「それ、平等じゃねーじゃん!」
「だってお前は抑えてんだろ?」
ノブは一瞬だけ黙る。
風の音だけが入る。
「……いや」
首を振る。
「そういうのじゃねえって」
言いながら、目を逸らす。
「お前さ、今ちょっとさ」
「ちゃんとやろうってしすぎてる」
「俺のためっていうより、お前の中で“これが正解だろ”って形作ってる感じ」
「違う――」
アキラが言いかける。
でもノブは遮らない。
むしろ、ちゃんと聞いている顔で続ける。
「違うって言いてえのは分かる」
一拍。
「でもさ」
「それ、俺のことちゃんと見てなくねえか?」
アキラの呼吸が、ほんの一瞬止まる。
ノブは歩きながら続ける。
「俺は別にさ」
「ちゃんとした“正しい扱い方”してほしいわけじゃねえし」
「そんな偉いもんでもねえし」
少し間。
「……普通に人だし」
その言葉だけ、少しだけ軽く落ちる。
夕日が二人の影を長く伸ばしていた。
「抑えてるのはあるよ」
ノブは正直に言う。
「でもさ、それ全部しんどいって話でもねえし」
「嫌ってわけでもねえ」
アキラが、そこで完全に止まる。
足が一歩遅れる。
ノブは前を見たまま続ける。
「だからさ」
少しだけ笑ってしまうみたいに。
「お前が勝手に“俺は全部我慢してるやつ”みたいにすんなって」
「なんかそれ、むずがゆいわ」
一拍。
「……俺、そこまで出来た人間じゃねえし」
視線を戻す。
少しだけ真っ直ぐにアキラを見る。
「でさ」
間。
少しだけ声を落として、
「……適度なら、別に普通に嬉しいし」
その瞬間、風が一段強く吹く。
沈黙。
アキラの足が止まる。
「……は?」
ノブは肩をすくめる。
「だから極端なんだよお前」
「ゼロか百で決めんなって」
少しだけぶっきらぼうに。
「俺の気持ち、勝手に完成させんな」
沈黙。
アキラはなにかがすっと腑に落ちたように、
「……適度なら嬉しい、か」
言って、小さく笑う。
「そっか。オレと同じだったんだな」
「ち、ちげえ……!」
言いかけて止まる。
「いや……」
頭をかく。
その瞬間、アキラが少しだけ顔を上げる。
「……ちがうのか?」
一拍。
ノブはすぐに答えられない。
「……ちげえっていうか」
言葉を探す。
「そういう話じゃねえって」
途中で止まる。
ノブは頭をかきながら目を逸らす。
「いや、でもさ」
「そういう言い方されると、なんかムカつく」
「……あー、すまん」
アキラが少しだけ下を向く。
ノブも一拍遅れて視線を逸らす。
「いや、あやまんなよ……」
小さく付け足すように言う。
夕日の中で、二人は並び直さないまま歩き出す。
少しだけ離れた距離のまま。
でも、さっきよりは——
どこか呼吸が合っていた。
----------------------
昼休み。
トイレ。
白いタイルと、均一な照明。
清潔なのに、どこか閉じた空気がある。
水の音が、やけに響いていた。
個室の中。
アキラは、腰を下ろしたまま動けずにいた。
外から声が入ってくる。
「マジで最悪。今日、重いんだけど――」
「わかるー、それマジ辛いよね――」
「今日まじで立ってるの無理――」
何気ない会話。
でも、その内容が、耳に引っかかる。
言葉が、妙に生々しく響く。
(……なに、それ)
理解はできる。
でも、実感として落ちてこない。
それなのに——
「……あ、ナプキン予備ある? 切らしちゃってさ」
「あるある、はい」
ビリ、と袋の音。
(……無理)
胸の奥がざわつく。
(これ以上は……無理)
息が詰まる。
アキラは勢いよく立ち上がった。
個室の鍵を開ける音が、やけに大きく響く。
顔を伏せたまま、逃げるようにトイレを飛び出した。
廊下。
足音が速くなる。
呼吸が浅い。
(なんだよそれ……)
整理がつかない。
向こうから、ノブが歩いてくるのが見える。
「お、アキラ。昼飯——」
言いかけて、止まる。
「……おい、どうした? 顔、真っ青だぞ」
「……なんでもねえ」
目を合わせないまま、横をすり抜ける。
「おい、待てよ——」
呼び止める声。
でも止まらない。
一人、廊下に残されたノブ。
「……なんだよ」
ぽつりと漏れる。
「……俺、なんか言ったか……?」
------
教職員棟。
多目的トイレ。
人の気配がない、静かな空間。
鏡の前。
アキラは、ゆっくりと顔を上げる。
映った自分は、少し青い。
「……」
さっきの会話が、頭の奥で繰り返される。
痛い、とか。
重い、とか。
当たり前みたいに交わされていた言葉。
(……知らねえ)
ぽつりと、心の中で落ちる。
鏡の中の自分を見る。
見た目だけ女になっても——
あの会話の中身は、どこにも引っかからない。
二年のときの保健の授業。
生理、妊娠、出産。
知識としては、知っている。
でも——
(……違う)
あれは、あいつらのものだ。
当たり前みたいに話していた、あの痛みも。
その先にあるものも。
自分には、来ない。
胸の奥が、わずかにざわつく。
(……)
言葉にならないまま、続かない。
(……受けるって、なんだよ)
ぽつりと浮かんで、消えない。
自分は——
(……できんのか)
すぐに首を振る。
「……ノブには、ぜってえ言えねえな」
小さく呟く。
これ以上考えても仕方ない、みたいに。
でも——
胸の奥の引っかかりだけは、消えなかった。
------------------
次の日。
雨。
傘が、二人の距離をわずかに引き離している。
同じ道。
同じ時間。
なのに、昨日よりも少しだけ遠い。
「……アキラ、お前昨日からおかしいぞ?」
声は、いつもより重かった。
アキラは一瞬だけノブを見る。
でも、すぐに視線を逸らす。
「アキラ、お前さ」
ノブが続ける。
「ちょっと待てよ」
足を止める。
そのまま、距離を詰める。
傘がわずかに傾く。
「聞けって」
言葉と同時に、肩を掴む。
「っ……」
アキラの身体が、反射的に跳ねた。
その拍子に、手から傘が落ちる。
一瞬、音だけが遅れて落ちる。
(……やべ)
ノブの手が止まる。
次の瞬間、すぐに離した。
「……わりぃ」
短い謝罪。
アキラは何も言えない。
濡れた肩を押さえたまま、落ちた傘に目を落とす。
ノブがそれを拾う。
一瞬、何も言わずに見てから、
そのままアキラの手に傘を戻す。
「……ほら」
短く。
アキラは受け取る。
指先が少しだけ触れる。
それだけで、言葉より重いものが残る。
ノブはもう一度歩き出す。
隣には戻らない距離。
でも、完全に切れた距離でもない。
朝の雨は続いている。
二人の間に溜まるものだけが、少しずつ大きくなり始めていた。
-----
ひと気のない渡り廊下。
壁にもたれて、アキラは雨を見ていた。
ここ数日、ノブとはまともに話せていない。
(……くだらねえ)
そう思うのに、頭の中は同じところを回っている。
——受ける側。
——対等。
——将来の負荷。
(……女じゃねえオレには無理だろ)
そう思ったところで、答えは止まったままだった。
「やっと見つけた」
軽い声。
振り向く。
「……なんだよ」
「なんだよじゃないし」
アヤが隣に並ぶ。
距離は近いのに、妙に軽い。
「何日も話してないでしょ」
一拍。
「で、何で女子トイレ使わなくなったの?」
直球。
「……別に」
「ふーん」
興味なさそうに流してから、すぐ言う。
「あー、聞いたんでしょ。生理とかの話」
「……は?」
思考が止まる。
アヤは止まらない。
「重い子もいれば軽い子もいるし、来ない時もあるし」
「イライラもするし、普通にバラバラだよ」
肩をすくめる。
「で、それで“女じゃない”とかにはなんない」
さらっと言う。
本当に、雑に。
「……」
アキラは何も言えない。
違う。
そうじゃない。
でも——
(……なんでだよ)
胸の奥の塊が、少しだけ形を崩す。
「ま、そんなもん」
アヤは肩をすくめる。
「別に、合わせる必要なくない?」
アヤはもう興味を失ったように背を向ける。
「トイレくらいで悩んでるならアホらしーよ」
「ノブっちともちゃんと話しな。んじゃね」
そのまま去る。
静寂。
アキラは一人になる。
「……」
息を吐く。
(違う)
まだ、違う。
でも。
(……全部違うわけじゃねえのか)
そう思ったのに、はっきり楽になったわけでもない。
ただ、さっきまでみたいに一方向に詰まる感じは、少しだけ薄れた。
----------------------
朝
朝の光はまだ少し眠たくて、街全体がゆっくりしている。
アキラは家の前に出ると、すぐにノブを見つけた。
壁にもたれかかっているいつもの姿。
「おはよ」
「おう、アキラ」
ノブが軽く手を上げる。
それだけで、昨日までの空気が少しだけ戻ってくる。
アキラは歩き出す。
隣に並ぶと、自然と歩幅が揃う。
「なんか今日、普通だな」
ノブが言う。
「普通だろ」
アキラは即答して、少し笑う。
その笑い方が、いつもより軽い。
ノブは横目で見る。
「……なんか機嫌いい?」
「別に」
ノブがふとアキラの髪に目をやる。
「お前さ」
「ん?」
アキラが振り向く。
その瞬間、ノブが軽く手を伸ばす。
「寝癖ついてる」
指先で、髪をちょっと直すだけ。
ほんの一瞬。
それだけの動作なのに、距離が近い。
アキラは固まる。
「……っ」
ノブは普通の顔のまま。
「ほら、これでいい」
手を引く。
そのあと、何事もなかったみたいに歩き出す。
アキラは数歩遅れてついていく。
(……今の)
(いや、別に普通だろ)
そう思おうとするのに、うまくいかない。
横を見ると、ノブはもう前を見ている。
その横顔が、やけに落ち着いていて。
アキラは少しだけ視線を逸らす。
「……なあ」
「ん?」
ノブが振り向く。
アキラは一瞬言葉に詰まってから、
「別に」
とだけ言う。
でも声が少しだけ柔らかい。
ノブは一瞬だけ不思議そうな顔をして呟いた。
「へんなやつだな」
そう言いながら、口元は緩んでいた。
その横顔を眺めると、
(今はこれでいい)
アキラはそう思った。




