混迷の茶会
ユズハは待ち合わせのレストランへ、静かに足を踏み入れた。
窓際の席。
先にいたのは、山下チヒロだった。
(……どうしてこの子が?)
一瞬だけ目を細める。
だが入口を気にしていたチヒロと、視線が合う。
(なるほど)
小さく息を吐く。
(これは、あの人のやり方ね)
ユズハは迷いなく、向かいの席に座った。
「どうして私が?って顔ね」
「……いえ」
即答。
しかし、言葉の温度は揺れている。
「私もね、呼ばれたのよ。たぶん“舞台”に」
「舞台……?」
チヒロの眉がわずかに動く。
「私はノブ先輩が来ると聞いてました」
「ええ。私もよ」
沈黙が落ちる。
カトラリーの音だけが、やけに遠い。
チヒロは視線を落としたまま、小さく呟く。
「……じゃあ、間違いじゃないんですね」
ユズハは少しだけ目を細める。
「あなた、自分で決めるって言ってたわね」
「はい」
迷いはない返事。
だが、声はどこか硬い。
ユズハは静かに頷く。
「なら、いいわ」
一拍。
「私の話、聞いてちょうだい」
「まず一つ目」
「ノブくん、アキラくんやあなたのことを全部背負おうとしてる」
視線を逸らさない。
「二つ目」
「あなたはそれを止めない」
少しだけ間。
「それだけよ」
淡々と。
「でもね」
「一番の問題は……そこじゃないの」
チヒロの目を見る。
「あなた」
「もう気づいてるでしょう?」
一拍。
「この関係、あなたが一番“無理してる”って」
「今のままだと、あなたが一番しんどくなる」
少しだけ声が落ちる。
「……だから、言ってるの」
静かに。
「分かってるはずよね?」
「私が……ノブ先輩の重荷に……」
言い切れない。
喉の奥で、言葉が引っかかる。
「でも……」
息を吸う。
うまく吸えない。
「でも……だったらっ」
声が揺れる。
「私のこの気持ちは……」
視線が落ちる。
テーブルクロスの白が、にじんで見える。
「どこに……向けたらいいんですか……」
一拍。
「私だって……」
もう一度息を吸って、
「私だって……っ」
そこで、言葉が切れる。
ぽたり。
ぽたり。
テーブルクロスに、しみが広がっていく。
(……嘘でしょ)
なんで、泣くの。
私はただ、事実を言っただけなのに。
自分で決めるって、言ったじゃない。
覚悟があるなら――
泣いてる場合じゃ、ないでしょう。
(……違う)
胸の奥で、何かが引っかかる。
(私、今……)
ほんの一瞬。
言葉が止まる。
見誤っていた?
いや。
もっと正確に言うなら――
(……買いかぶっていた?)
チヒロの顔を見る。
崩れている。
それでも、立とうとしている顔だった。
「すみません、ご注文お決まりでしょうか……?」
一拍。
「もしよろしければ、ドリンクバーもございますので……」
ユズハは一瞬、その声の意味を掴み損ねる。
数秒遅れて、現実に戻るようにまばたきした。
「……わかりました。では、ドリンクバーを二つで」
言いかけて――
ふと、視線がずれる。
「……いえ」
小さく言い直す。
「三つでお願いします」
「かしこまりました」
店員が下がる。
その“間”の向こうで――
入口の扉が開いた。
-----
(アキラはどこだ?)
アヤのメッセージを頼りに、ノブは店に入る。
一歩目で、空気が違うと気づいた。
奥。
見慣れた制服姿。
「……山下」
その顔が、崩れている。
「どうした?」
返事はすぐにはない。
代わりに、テーブルの空気が重く沈む。
(……なんだこれ)
視線がずれる。
もう一人。
長い髪の女。
ユズハ。
ノブの目が細くなる。
「……どういうことだ」
静かに言う。
ユズハは、まっすぐその視線を受けたまま動かない。
「どういうことも何もないわ」
「私は、呼ばれただけ」
ノブは手に握ったスマホを一瞬だけ見る。
「……アヤか」
舌打ちが、喉の奥で潰れた。
「ノブくん。あなたも何か言われて来たんでしょう?」
「……」
返事はない。
沈黙が肯定になる。
ユズハは視線を落とし、伝票に指先を置いた。
「でも、残念ね」
ゆっくりと顔を上げる。
「泣いているのはアキラくんじゃない」
その視線が、チヒロへ向く。
一瞬、空気が止まる。
「……皆川、お前」
「図星ね」
ユズハは静かに続ける。
「私はメッセージの内容なんて知らない。でも、顔を見れば分かるわ」
「……俺が言いてえのは、その話じゃねえ」
ノブが一歩踏み込む。
「山下を泣かせたのはお前か?」
空気が、すっと冷える。
ユズハは一瞬だけ間を置いて、
わずかに首を傾げる。
「……なぜ、あなたが怒るの?」
本気の疑問だった。
ノブの表情が、止まる。
理解が、一拍遅れる。
「……は?」
低く漏れる。
言葉が、噛み合っていない。
沈黙。
「ノブ先輩……違うんです」
チヒロが慌てて顔を上げる。
「私が勝手に……」
「……」
状況が掴めないまま、ノブは席に座る。
「……まずは説明してくれ」
ユズハは一瞬だけ言葉を選び――
(私が言うと、言い訳になる)
視線をチヒロへ送る。
小さく頷くチヒロ。
「皆川さんは……ノブ先輩のことを心配して、呼び出してくれたんです」
「……悪い、全然読めねえ」
ノブの眉が寄る。
ユズハが小さく息を吐く。
「あなた、抱え込みすぎなのよ」
「アキラくんも、山下さんも」
「全部一人で背負おうとしている」
「……それが問題だって言ってんのか?」
「そうよ」
間。
「だから、アキラくんとの関係も、一度――」
「やめろ」
即答だった。
「それは俺が決めたことだ」
空気が張る。
「だったら――」
「ノブ先輩」
チヒロが口を開く。
「私も……ノブ先輩は無理してると思います」
「……山下?」
チヒロは唇を噛む。
「さっき気づいたんです」
「私、この気持ちをどこに向けたらいいのか分からなくて」
「でも……このままだと、ノブ先輩が壊れちゃう気がして」
一拍。
「だから……ちゃんと決めてほしいんです」
「私のことも」
「アキラさんのことも」
「ちゃんと」
―――。
その言葉が落ちた直後。
扉が開く。
三人の視線は一斉に入口へ向いた。
外の空気が、一瞬だけ流れ込む。
光が、わずかに揺れる。
そこに立っていたのは――アキラだった。
一瞬、誰も動かない。
時間が、わずかに遅れる。
アキラの視線が、順番に動く。
ユズハ。
チヒロ。
そして――ノブ。
(……ああ)
理解は、一瞬だった。
説明なんていらない。
この配置。
この空気。
この沈黙。
全部が答えになっている。
胸の奥が、強く軋む。
一歩。
足音だけが、やけに響く。
テーブルの前で止まる。
誰も、言葉を出さない。
だから――
「……なに…これ」
その一言が、落ちる。
-----
アキラは、立ったまま動かない。
椅子に座るという選択肢すら、頭に浮かばない。
(皆川……チヒロちゃん……)
昨日の光景が、重なる。
ノブが呼び出されていたこと。
戻ってきたときの顔。
そして――“なんでもない”という言葉。
全部が、ここに繋がる。
「アキラ……」
誰かが呼ぶ。
でも、届かない。
「昨日、なんでもないって言ってただろ」
声が、一段低くなる。
「それがこれかよ」
視線は、ノブに固定されている。
逃がさない。
「なにがあったかは知らねえ」
一拍。
「でもノブ」
喉の奥が詰まる。
言葉が、うまく出てこない。
それでも――
「それ、オレには相談できないことだったのか?」
沈黙。
誰も動かない。
ノブの呼吸が、わずかに乱れる。
チヒロの指先が、震える。
ユズハだけが、静かに見ている。
「……昨日さ」
アキラの声が、少しだけ揺れる。
「なんでもねえって言ったよな」
一歩も動かない。
でも、距離は確実に詰まっている。
「それで、これ?」
視線が揺れる。
怒りか、悲しみか、分からない。
でも――
はっきりしている感情が一つだけある。
「オレ、いらなかったのかよ」
その言葉が、空気を切る。
軽くはない。
重くもない。
ただ、“真ん中”に落ちる。
逃げ場のない場所に。
ノブの表情が、初めて大きく揺れる。
でも――
言葉が、出ない。
間に合わない。
アキラは、短く息を吐く。
「……もういい」
そこで、初めて視線を外す。
切るみたいに。
椅子には触れない。
そのまま踵を返す。
「アキラ!」
声が飛ぶ。
でも――
止まらない。
扉が開く。
外の光が差し込む。
そして、閉じる。
音だけが、残る。




