消えない絆と、不可逆のシルエット
「次ッ、和泉!」
担任の野太い声が教室に響く。
「はい!」
短く返事をして席を立つ。
教卓へ向かう足取りは、軽い。
受け取った答案用紙。
端に並んだ数字を見て、
小さく息を吐く。
(よし)
目標はクリア。
これなら、
ジオラマの新作パーツをねだる口実にもなる。
指先で答案の端を整えながら、席へ戻る。
——日常だ。
何も変わっていない。
……はずなのに。
ふと、
自分の胸に視線が落ちる。
小さく、息を吐く。
そのタイミングで、
「次、田中」
ノブが呼ばれる。
「おう……」
気のない返事。
前へ出て、
答案を受け取った、その瞬間。
わかりやすく、肩が落ちた。
(あーあ)
そのまま、
ゾンビみたいな足取りで戻ってきて、
机に突っ伏す。
「……終わった。アキラ、俺の夏は終わったよ……」
「大げさだな」
答案を軽く振りながら答える。
「赤点じゃなきゃセーフだろ? 部活の遠征もあったんだし」
「また、かーちゃんにどやされる……」
ノブは顔も上げない。
思わず、クスッと笑う。
さっきまで、
あんなに大きく見えていた背中が、
今は少しだけ小さく見える。
妙におかしくて、
でも少しだけ、安心する。
——けど。
オレは、
人のことを笑っていられる立場でもなかった。
-----------------------------
窓から差し込む日差しは、すでに本格的な夏の到来を告げていた。
衣替えで薄くなった半袖の制服シャツ。
今のオレにとって、それは——
剥き出しの戦場だ。
どれだけ猫背になっても、
胸の不自然な膨らみは隠しきれない。
視線が、刺さる気がする。
結局オレは、
放課後の人気のない渡り廊下で、
こっそりアヤを呼び出した。
「頼む、アヤ。これ……もう限界なんだ。このままだと更衣室どころか、普通に廊下を歩くのも怪しまれる」
必死の訴え。
アヤは、呆れたように腰に手を当てる。
「あのねぇ、アキラちゃん。あんまり締め付けたら形が崩れるわよ? せっかく綺麗に育ってきてるのに……」
「育てるつもりなんて一ミリもねーよ!」
思わず声が強くなる。
「オレは男だ。男なんだから——平らでいいんだ!」
その剣幕に、
アヤは「はいはい」と苦笑しながらスマホを取り出す。
「仕方ないわね。コスプレ用の『男装下着』ってやつ、探してあげる」
画面をスワイプする指。
「……ほら、これ。胸を潰して平らに見せられるし、スポーツブラよりは“偽装工作”向きでしょ」
映っているのは、
一見ただの黒いタンクトップ。
だが内側には、
強力なゴムが仕込まれているらしい。
数日後。
届いたそれを、初めて着けたとき——
「っ……!」
息が、詰まる。
肋骨が、
内側から軋む。
「これ……拷問かよ……」
思わず毒づく。
だが。
鏡を見て、言葉を失った。
あれだけ主張していた膨らみが、
嘘みたいに消えている。
(……なんだよ、これ)
完璧に、
“なかったこと”になっている。
(最初から知ってれば……)
あの更衣室で、
あんな思いをしなくて済んだのに。
久しぶりに、
胸を張って歩ける。
そんな気分で登校した朝。
アヤが、ひらひらと手を振りながら言った。
「あ、言い忘れてたけどアキラちゃん」
嫌な予感。
「それ、あくまでコスプレ用だからね?」
「は?」
「日常使いするような耐久性は保証されてないから。一応、注意ね?」
その一言で。
脳裏に―
最悪の光景が、浮かぶ。
――パンッ!!
乾いた破裂音。
弾け飛ぶシャツ。
空中で、
放物線を描くボタン。
次の瞬間、
クラス全員の視線が——
一直線に、
オレの胸元へ。
(終わった)
「……っ!」
反射的に胸を押さえる。
ぶんぶんと頭を振って、その妄想を振り払った。
(……笑えねえ)
------------------------------------
休み時間。
教室は、夏休みの計画に浮かれる声で満ちていた。
「ねぇ、アキラちゃん。夏休み、みんなで市民プール行かない? ミカたちも誘ってるんだけど」
アヤがニヤニヤしながら、
明らかに答えを知っている顔で言う。
想像した瞬間、
血の気が引いた。
プール。
ナベシャツも通用しない。
そこはもう、
オレにとっての——処刑場だ。
「……悪い。お母さんの実家に帰省する予定が入ってるからさ、しばらくこっちには居ないんだ」
「えー、残念。せっかくアキラちゃんの“水着姿”が見られると思ったのに」
(絶対わざとだろ……)
アヤはこの夏、
オレをからかうことを本気で楽しむつもりらしい。
断れてよかったと、心底、安堵の息を吐く。
そのとき。
「アキラ」
低い声。
振り向くと、ノブが立っていた。
さっきまでの教室の空気とは、少しだけ温度が違う。
「……今回の休み、俺は遠征と合宿でほとんど帰ってこれそうにない」
「ああ。レギュラーなんだから頑張れよ。期待してるぜ」
「違う、そうじゃない」
間髪入れず、否定される。
ノブの手が、肩にかかる。
少し、強い。
「この夏の間、お前はたった一人だ……」
「……は?」
「だが、俺はお前を守ってやることができない。本当にすまん」
(何言ってんだ、こいつ)
オレはもう子供じゃない。
それに——
ナベシャツっていう、“装甲”も手に入れた。
これで、男としての外装は守れる。
……守れる、はずだ。
言い返そうと顔を上げる。
でも。
ノブの目を見て、言葉が詰まった。
冗談じゃない。
本気だ。
まるで、目を離した隙にオレがどこかへ消えると、
本気で思っているみたいな顔。
(なんだよ、それ)
少しだけ、胸の奥がざわつく。
「……心配すんなって。オレは平気だから」
軽く笑う。
「だからお前は、自分のことに集中しろよ」
そう言い切る。
けど——
ふと、更衣室の光景がよぎる。
(……あのとき)
ほんの少しだけ。
ノブのその過保護が、
頼もしいと思ってしまった自分がいた。
-------------------------------------
ギラギラとアスファルトを焼く日差し。
耳を劈く蝉時雨。
カレンダーの赤い数字。
ついに——
夏休みという名の「長期遠征」が幕を開けた。
――ジリリリン。
静かなリビングに鳴り響く電話。
母方の実家、カナエおばさんからの入電だった。
明日の帰省に合わせ、
迎えの車を寄越すという業務連絡。
今回の作戦行動に参加するのは、
オレとお袋の二名のみ。
親父は、
「今仕事が山積みで……アキラとゆっくりしたかったなぁ」と、
情けない顔で肩を落としていた。
(一家の大黒柱も、組織の歯車には勝てないらしい)
大人ってやつは大変だ。
自室。
キャリーケースを広げる。
衣類、洗面用具、歯ブラシ、
そして夏休みの宿題。
テトリスみたいに、
隙間なく詰めていく。
「……兵站の準備は万端だ」
最後に、慎重に包んだジオラマ工具。
(田舎だしな。時間はいくらでもある)
翌朝。
最終確認。
指差し確認——ヨシ。
――キキーッ。
玄関先に響くブレーキ音。
現れたのは、
黒塗りのセダン。
光を吸い込むような、
重たい黒。
「ユキ様、坊っちゃん。お迎えに上がりました」
ドアを開け、
深く腰を折るシゲミチ。
無駄のない動きで、
荷物をトランクへ収めていく。
「アーちゃん、忘れ物は無いわね?」
「うん。大丈夫」
「では出発いたします。坊っちゃん、シートベルトを」
「あ、やべ」
車は、音もなく走り出す。
冷房の効いた車内。
外の熱気が、嘘みたいに遮断される。
けれど。
シゲミチさんの態度は、昔から変わらない。
距離がある。
「坊っちゃん」という呼び方。
一定以上、踏み込まない。
(……大げさなんだよな)
(もう中二だぞ)
(普通に“アキラくん”でいいのに)
(真面目すぎるんだよ、シゲミチさんは)
高速道路。
案の定の渋滞。
完全に止まった車列。
揺らめく陽炎。
「……動かないな」
スマホから目を離す。
ふと、隣の車線を見る。
ミニバン。後部座席。
小学生くらいの男の子が、
窓に張り付くようにして——
こっちを見ていた。
(……なんだ?)
目が合う。
その瞬間、
男の子が勢いよく母親の袖を引く。
指差す。
興奮した声。
母親がこちらを見る。
一瞬だけ、
視線がぶつかる。
——すぐ逸らされた。
困ったような顔で、子供をなだめている。
(……ああ)
(車か)
(こういうの、好きだよな)
黒い車体。
重厚なフォルム。
装甲車みたいな、
無骨なかっこよさ。
「この車カッコイイもんな。やっぱ男はこういうのに憧れるんだよな」
ぽつりと呟く。
バックミラー越しに、
一瞬だけ、シゲミチさんと目が合う。
「……坊っちゃんがお気に召しているのなら、何よりでございます」
それだけ言って、すぐに前を向く。
——視線は、一度も外さない。
隣の親子には、一切、関心を向けない。
(……相変わらずだな)
(真面目すぎるんだよ)
-------------
高速道路の渋滞を抜け、
車に揺られること二時間。
窓の外は、
灰色のコンクリートから、
深い緑へと塗り替えられていた。
「坊っちゃん、到着いたしました」
顔を上げる。
そこにあったのは、
巨大な長屋門。
時間から切り離されたような、
古い家。
——梢梠家。
「いらっしゃい、アキラくん」
カナエおばさんが笑う。
柔らかい笑み。
けれど。
その視線が、
首筋から胸元へ流れた瞬間——
わずかに、
止まった。
「……あら。ユキ、あの子……」
「ええ。そうなのよ、カナエ姉さん」
それだけ。
それ以上は、
何も言わない。
けれど。
“分かっている”者同士の、
沈黙。
(……なんだよ)
言葉にならない違和感を振り切るように、
オレは外へ出た。
敷地を巡る。
それが、
ここに来たときの“儀式”。
小さな社を回り、
水で埃を落とす。
風が、
笹を揺らす。
音が、
やけに遠い。
(……次は)
視線が、
北の山へ向く。
今まで行ったことのない場所。
原生林。
踏み入れられていない道。
(今年こそ)
足を踏み入れる。
空気が変わる。
ひんやりとした冷気。
肌をなぞる。
心地いい。
——はずなのに。
少しだけ、
胸の奥がざわついた。
そして。
それは、
立っていた。
二本の石柱。
門のように。
二つの柱を結ぶ縄。
いくつもの紙垂。
風に揺れる。
ぱさり。
音が、
やけに大きい。
(……なんだ、これ)
近づく。
石に刻まれた文字。
「……女人立入るべからず……?」
一瞬、
理解が遅れる。
(……は?)
風が吹く。
紙垂が揺れる。
まるで、
境界線を示すみたいに。
(……関係ないだろ)
オレは男だ。
問題ない。
——そのまま、越える。
空気が、
変わった。
一歩、踏み込んだ瞬間。
音が、
消える。
進む。
その先にあったのは、
立派な社。
整いすぎている。
山奥にしては、
不自然なほどに。
(……なんだここ)
石段に足をかける。
その瞬間。
「――そこの娘!! 何をしておるか!!!」
叩きつけるような怒声。
「っ……!?」
心臓が跳ねる。
振り返る。
神職。
竹箒。
そして——
明確な“拒絶”。
「ここは女が入って良い場所ではないッ! 立ち去れ!!」
その目。
まるで、
穢れを見るような。
一瞬で、
血が上る。
(……ふざけんな)
ナベシャツはない。
スポブラ一枚。
——分かってる。
今の自分が、
どう見えるかくらい。
それでも。
「オレは男だ! 決めつけるな!」
「嘘をつけ!! この……小娘がっ!!」
“小娘”。
その言葉で、
何かが切れる。
喉の奥が、
焼ける。
「オレは和泉アキラだ! 和泉ユキの息子だ!」
「ここはオレの祖母様の山だ!」
——名乗る。
その瞬間。
空気が、
凍った。
「……なに?」
男の顔から、
怒りが消える。
「ユキ様の……子……?」
沈黙。
そして。
「……なるほど」
ぽつり。
「ミサオ様と、同じか……」
その言葉を残して。
男は、
去った。
逃げるように。
何も説明せず。
何も謝らず。
残されたのは、
静けさと——
説明のつかない苛立ち。
(……ミサオ様?)
(誰だよ、それ)
----------
山を下る途中。
ポケットの中で、
スマホが震えた。
画面を開く。
都会——
日常からの通知。
===========================
ノブ:
今どこいる
アキラ:
今車で移動ちゅう
ノブ:
乗り物酔いにはきをつけろよ
アキラ:
そろそろ着きそう。こっちめっちゃすずしい
ノブ:
おう着いたらまずはゆっくりやすめ
ノブ:
ちゃんと飯くったか
ノブ:
まだ昼寝してんのか
ノブ:
既読ついてんのに無視すんなよ
===========================
「……ったく」
思わず、
小さく息を吐く。
(おまえは俺の保護者かよ)
吐き捨てるように、
呟く。
けど。
頬が、
勝手に緩む。
さっきまでの、
あの妙な感覚。
境界。
視線。
“娘”。
胸の奥に残っていた、
ざらつきが。
ノブのメッセージで、
少しずつほどけていく。
(……バカみたいに心配しやがって)
画面をスクロールする。
同じような内容。
何度も。
何度も。
(……そんなにかよ)
ほんの一瞬、
指が止まる。
——まるで、
何かから“引き離そう”としてるみたいだ。
(……考えすぎか)
小さく首を振る。
「もう着いてる散歩中。心配すんな」
短く打って、
送信。
画面を閉じる。
風が吹く。
山の空気。
さっきより、
少しだけ冷たい。
--------------------------------
屋敷に戻るなり、
オレは山での出来事を一気にぶちまけた。
「娘だの小娘だのって言われたんだよ」
母は話を聞き終えると、
困ったように眉を下げ、
小さく息を吐く。
「あらまあ、災難だったわね」
「その人はツカサさん。藤宮家の方よ」
「……役目とはいえ、少し礼を欠いているわね。祖母様には私から言っておくわ」
淡々とした対応。
だが。
「それにさ、“ミサオ様”って誰だよ。オレも知ってる人?」
その名前を出した瞬間。
母の表情から、
温度が消えた。
「……それは」
一拍。
「アーちゃんは、知らなくていいことよ」
ぴたりと、
空気が止まる。
柔らかさが、
一切ない。
拒絶。
(……え?)
言葉が出ない。
母はその沈黙に気づいたのか、
はっと目を伏せる。
そして、
無理やり笑みを作る。
「ほらほら、もうすぐ夕餉よ。先にお風呂入ってきなさい」
話は、
打ち切られた。
それ以上、
踏み込ませないように。
夜。
布団に潜る。
けれど、
眠気は来ない。
山。
社。
境界。
「娘」
「ミサオ様」
ぐるぐると、
頭の中を回り続ける。
――ピロン
スマホが光る。
=====================
ノブ:
いまなにしてる
ノブ:
きょうは練習つかれたわ
ノブ:
ちゃんと宿題やったか
アキラ:
まだ手もつけてね―わ
ノブ:
まあおれもまだだけどな
ノブ:
ちゃんとはみがきしろよ
アキラ:
おまえはお前のかーちゃんかよ!
ノブ:
じゃあなおやすみ
=====================
「……ぷっ、ははは!」
思わず、
吹き出す。
さっきまでの、
あの空気。
張り付くような、
冷たさ。
それが、
少しだけ剥がれる。
(はみがきしろ、って……)
(小学生かよ)
画面の光。
そこにある、
どうでもいいやり取り。
それだけで、
自分がちゃんと“日常の中にいる”って、
思える。
(……助かるわ)
小さく息を吐く。
虫の音。
蛙の声。
やけに大きい。
窓の外は、
底の見えない闇。
手の中の光だけが、
自分を現実に繋ぎ止めているみたいだった。
(……歯磨きくらい、言われなくてもやるっつーの)
スマホを枕元に置く。
目を閉じる。
……そのとき、襖の奥で、何かが軋んだ気がした。
--------------------
次の日、オレは外に出る気になれなかった。
あの山のことも、あの男の声も、頭のどこかに引っかかっていて、じわじわと離れない。
だから、気を紛らわせるつもりで、屋敷の中を歩き回ることにした。
梢梠家の屋敷は、異様に広い。
増築を繰り返したのか、構造にまとまりがなく、襖を開けるたびに別の時代へ迷い込むような錯覚に陥る。
廊下を渡り、また襖。
細長い和室を抜けて、さらに襖。
どこから来たのかも分からなくなった頃、ふと足が止まった。
縁側に面しているはずの、六畳ほどの和室。
なのに、妙に暗い。昼の光は薄く濁って、部屋の奥まで届いていない。
(……なんだ、ここ)
冷房もないのに、ひやりとする。
使われていないはずなのに、完全に放置されてもいない。
誰かがいた痕跡だけを残して、体温だけが抜け落ちたような、そんな気配。
部屋の隅の飾り棚に目をやる。
小さな手彫りの人形。精巧な木彫。
どれも出来が良すぎて、じっと見ていると、今にも瞬きしそうだった。
(……気味わりい)
視線を逸らすように、隣の本棚へ手を伸ばす。
指先にざらりとした埃。だが、積もりきってはいない。
最近、誰かが触った跡。
本を一冊、引き抜く。
古い小説や雑誌の間に、分厚い革表紙のアルバムが挟まっていた。
オレはそれを抱え、畳に腰を下ろす。
ぱらり、とページをめくる。
白黒写真。
ぎこちない笑顔の先祖たち。
ページを進めるごとに色が差し始め、やがて若い頃のお母さんや、カナエおばさんの姿が混じってくる。
(……こんなに、いたのか)
親戚一同の集合写真で、指が止まった。
ばばちゃまや、じじちゃまの周りに、大勢の人間。
けれど、知らない顔ばかりだ。
ページの端に、達筆な名前。
だが、うまく読めない。
オレは、ある一点を探した。
(……ミサオ)
あの山に入れるのは「男」だけ。
なら、ミサオは男のはずだ。
だが、どれだけページをめくっても、それらしい姿はない。
(……おかしいだろ)
見落としているのか。
焦りで、ページを繰る手が速くなる。
ぱら、ぱら、ぱら――
――カタン。
背後で、硬い音がした。
オレはぴたりと止まる。
誰もいないはずの部屋。
閉め切った襖。
それなのに――背中に、視線。
(……気のせい、だよな)
喉が張り付く。
ゆっくりと、視線を手元に落とす。
さっきまで見ていた写真。
その右端――
さっきまで、いなかったはずの場所に、
ひとり、立っている気がした。
影みたいな人影。
目を凝らす。
けれど、その顔だけが――
歪んだレンズ越しみたいに、ぼやけている。
輪郭が、合わない。
「……っ」
一気に寒気が走る。
アルバムを閉じようとした、その瞬間――
――ピロン。
無機質な電子音が、静寂を裂いた。
心臓が跳ね上がる。
オレは、息を詰めたまま、震える手でスマホを掴んだ。
=============================
アヤ:
ほらみてみて水着可愛いっしょ。
(写真)
アヤ:
アキラちゃんも着てみたくなった?
アキラ:
なわけねーだろ! オレは男だぞ!
アヤ:
(写真)
みんなでプールにきてるよ!
=============================
画面いっぱいに広がる、眩しい青空。
水しぶきと、はしゃぐ笑い声がそのまま飛び出してきそうな写真。
さっきまでの空気が、嘘みたいに遠のく。
部屋の静けさと、画面の向こうの喧騒。
その落差に、現実が引き戻される。
「……なんだよ」
小さく息が漏れる。
知らないうちに強張っていた肩の力が、少しだけ抜けた。
オレは、もう一度だけアルバムに目をやる。
――さっきの写真。
そこに“何か”があった気がした場所。
でも今は、ただの古い集合写真にしか見えない。
(……気のせい、か)
そう思い込むように、アルバムを閉じる。
棚に戻す手が、わずかに速い。
そのまま、ほとんど逃げるみたいに立ち上がって、
息を整えながら、部屋を後にした。
襖を閉める直前――
なんとなく、もう一度だけ中を見た。
暗いままの部屋。
何も、動いていない。
……はずなのに。
オレは、すぐに目を逸らして、襖を閉めた。
-------------------------
今日はお盆だ。
梢梠家のお盆は、どこかおかしい。
日が落ちる頃になると、家紋の入った提灯が配られ、
誰に言われるでもなく、人が列を作る。
笛と太鼓。
一定の調子で、ゆっくりと。
――どこへ向かうのか、誰も口にしない。
(……なんだよ、この感じ)
オレも流れに混じる。
足音が揃う。
誰も喋らない。
ただ、音だけが続く。
やがて墓地に着く。
祝詞が上がる。
意味は分からないのに、どこか聞いたことがあるような響き。
盃が置かれ、酒が注がれる。
地面に染み込んでいく。
――まるで、“誰かに飲ませている”みたいに。
背筋が冷える。
屋敷に戻ると、広間にはすでに人が集まっていた。
遅れて、祖母様が現れる。
空気が、変わる。
ざわめきが、すっと引く。
祖母様は一人ひとりを見渡し――
母に何かを耳打ちする。
そのまま、視線が動く。
ギロリ、と。
止まった。
ツカサさん。
「こなたへ来んはれ」
低い声。
それだけ。
ツカサさんの肩が、びくりと震える。
周りは、誰も何も言わない。
見て見ぬふりみたいに、盃に手を伸ばす。
ツカサさんは、俯いたまま立ち上がって――
祖母様の後を追い、奥へ消えた。
襖が、静かに閉まる。
――その音だけが、妙に重かった。
オレは未成年だから、宴には加われない。
布団に潜る。
遠くで、笑い声。
でもどこか、空洞みたいに軽い。
(……なんなんだよ、ここ)
目を閉じても、太鼓の音が耳に残る。
夜明け。
何事もなかったみたいに、皆でまた墓地へ向かう。
今度は、榊を持って。
見送りの儀式らしい。
墓は、手前から奥へと古くなる。
奥へ行くほど、形が崩れていく。
石ころみたいなものもある。
名前も読めない。
(……こんな昔から、続いてんのかよ)
ひとつずつ、手を合わせる。
意味も分からないまま。
ただ、流れに従って。
――その時。
ふと、目が止まった。
新しい墓石。
場違いなくらい、綺麗で。
浮いて見える。
刻まれた名前。
――「梢梠ミサオ」
「昔々、あるところに」
背後から、声。
振り返る。
カナエおばさん。
いつの間に、こんな近くに。
「とても可愛い男の子が生まれました」
(……は?)
「その子はね、よく笑う子で」
声は、昔話みたいに柔らかい。
でも、目が笑っていない。
オレじゃない、どこか遠くを見ている。
「やがて、年頃になると……」
「やがて?」
思わず口を挟む。
カナエおばさんは、ゆっくりとオレを見る。
――いや。
見ているのは、“オレじゃない”。
一瞬、そう感じた。
「あの子は……笑わなくなってね」
顔が歪む。
「……誰の話だよ」
「それから、一切の感情を捨てたように生きて」
声が、少しずつ崩れる。
「……」
「そして」
一拍。
息を吸う。
「生きることを、諦めてしまったの」
涙が、頬を伝う。
でも拭わない。
ただ、落ちるままにしている。
「――ね」
少しだけ、首を傾ける。
「聞かないほうが、良かったでしょう?」
その瞬間。
ぞわ、とした。
オレは、ほとんど逃げるみたいに走り出す。
足がもつれる。
息が上がる。
屋敷へ。
廊下を抜ける。
襖を、乱暴に開ける。
あの部屋。
飾り棚。
人形。
木彫り。
どれも、やけに精巧で――
(……これ)
喉が鳴る。
(……もしかして)
震える手で、アルバムを開く。
ページをめくる。
止まる。
小さい頃の写真。
笑っている男の子。
どこか、似ている。
――オレに。
ページを進める。
集合写真。
その子は、いる。
でも。
――笑っていない。
目に、何もない。
感情が、ない。
そして。
(……違う)
気づく。
輪郭。
立ち方。
髪。
(これ……)
「女、だろ……」
声が、うまく出なかった。
-----------------------------------
その夜、夢を見る。
断片的な映像。
繋がらないはずなのに、なぜか“流れ”だけはある。
山道。
足元が見える。
自分の足じゃない。
でも、感覚はある。
社。
鳥居。
くぐる。
――瞬間。
『ここは女の来るところではない! 今すぐ立ち去れ!』
怒声。
耳元で、叩きつけられる。
(ちが――)
声が出ない。
映像が、歪む。
『お前、最近女のようだな。近づくな』
ざわ、と空気が引く。
距離を取られる。
視線だけが刺さる。
(……やめろ)
誰の声か分からない。
また、切り替わる。
暗い部屋。
誰かが、こちらを見ている。
『誰じゃお前は……』
その言葉で、
足元が崩れる。
――違う。
これは。
“オレじゃない”。
なのに。
胸の奥が、ぎゅっと潰れる。
苦しい。
息が、浅い。
何度も。
何度も。
同じ言葉が、繰り返される。
拒絶。
拒絶。
拒絶。
――お前は違う。
――お前はここにいるな。
「――っ!」
息が詰まる。
「うわああああああああ!!」
跳ね起きる。
パジャマが、肌に張り付く。
汗。
呼吸が荒い。
心臓の音が、やけに大きい。
静まり返った部屋の中で、
自分の中だけが壊れているみたいに響く。
(……なんだよ、今の)
額に手を当てる。
冷えているはずなのに、
内側だけが熱い。
その時。
――重なる。
『お前最近なんか女みてーじゃね?』
桜庭の声。
さっきの声と、
区別がつかない。
(……やめろ)
目を閉じる。
浮かぶ。
笑っていた顔。
無表情になった顔。
――あの写真。
(……違う)
強く、否定する。
でも。
どこかで、
理解してしまっている。
“同じ道”だと。
ぎゅっと、自分の腕を抱く。
逃げ場みたいに。
――ピロン。
小さな電子音。
現実が、割り込む。
スマホに手を伸ばす。
================================
ノブ:
いまなにしてる
ノブ:
きょうは練習つかれたわ
ノブ:
ちゃんと宿題やったか
================================
「……は?」
思わず声が出る。
こっちは山奥の謎イベントで精神削られてるってのに、こいつはこいつで通常営業か。
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アキラ:
まだ手もつけてねーわ
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即レスすると、秒で返ってくる。
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ノブ:
まあおれもまだだけどな
ノブ:
ちゃんとはみがきしろよ
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「……はみがきってなんだよ」
呆れ半分、脱力半分。
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アキラ:
おまえはお前のかーちゃんかよ!
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送信した瞬間、少しだけ笑ってしまう。
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ノブ:
じゃあなおやすみ
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短い一行。
それだけで、部屋の空気が少し軽くなる。
「……ほんと、なんなんだよあいつ」
枕元にスマホを置いて、目を閉じる。
虫の声が遠くで鳴いている。
田舎特有の、静かすぎる夜。
(まあいいか……)
考えるのをやめかけた、そのとき。
――ギィ。
襖の向こうで、何かが軋んだ気がした。
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帰り道。高速道路はひどく渋滞していた。
沈黙を破るようにユキはアキラに話しかける。
「アーちゃん。ミサオさんのことカナエ姉さんから聞いたんですって?」
「……うん」
ユキは、しばらくアキラの顔を見つめていた。
その瞳が、何を見ているのかは分からない。
「ごめんね。お母さん、どうしても言い出せなくって」
「どうして? 別にオレとは違う人のことだろ?」
あっさりとした声。
作っている様子は、ない。
ユキは小さく息を吐く。
「……ちょっと、似てるところ、ある気がして」
それ以上は言わなかった。
――ピロン。
アキラのスマホが鳴る。
少しだけ慌てたように操作して、
「……はぁ」
小さく息を吐く。
一瞬だけ視線を落としてから、顔を上げる。
「……たぶんさ」
少しだけ間。
「オレ、ノブがいて、アヤもいて」
「他にも、いっぱい友達がいて」
「だから――大丈夫だよ」
ユキは、何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を細める。
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アヤ:
(写真)
みんなでバイキング!
アキラ:
飯テロすんな!!!
アヤ:
みて、花火きれー!
(写真)
アキラ:
おれもノブにあいてーかも
(削除済み)
アヤ:
!!!!!!
アキラ:
ごばくした
アヤ:
(スクリーンショット)
ノブっちに送って良い?
アキラ:
おいばかやめろ!
アキラ:
マジでやめろって!!
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(やべ)
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夏休み明け、久々に足を踏み入れた教室。
そこは独特の熱気に包まれていた。
休み中の武勇伝を語り合う声。
ひと回り大きくなったようなクラスメイトたちの背中。
「よお、アキラ! 久しぶりだな!」
背後から聞き慣れた快活な声がして、ドサリと前の席に誰かが座った。
振り返った瞬間、オレは言葉を失った。
「……ノブ?」
「おう、合宿地獄だったぜ。見てくれよこれ、皮剥けまくって痛てーんだわ」
こんがりと黒く逞しく焼き上がった肌を見せつけるノブ。
柔道着の形に白く残った首元。
それ以外のチョコレート色の肌のコントラスト。
どれだけ過酷な太陽の下で戦ってきたかを物語っている。
まぶしい。
溢れ出る、直視できないほど漢のエネルギー。
「あ、アキラちゃーん! おっ帰りー!」
追い打ちをかけるように、アヤが駆け寄ってくる。
ノブほどではないが、健康的で艶やかな小麦色の肌に変わっていた。
真っ白なブラウスが、その陽に焼けた肌をいっそう引き立てて、いつもより大人びて見える。
「……二人とも、真っ黒だな」
「でしょ? プール三昧だったからね!」
ニヒッとドヤ顔。
「……っていうか、アキラちゃん」
そういうと、オレの顔をのぞき込み、
指先でオレの頬をツンと突いた。
「あんた、逆に白くなってない? 気のせいかしら?」
「……え?」
オレは思わず、自分の腕を見る。
細い。白い。
――軽い。
隣に見えるノブの節くれ立った、黒く逞しい腕。
……絶句した。
言葉が、出てこない。
それと比較して、オレの腕は――。
不健康なほどに白く、透き通るような肌を維持してしまっていた。
これではまるで、夏の太陽を知らない深窓の令嬢ではないか。
「……っ、こ、これは、実家が山の中で、日当たりが悪かっただけで……!」
必死にごまかす。
「でもさ、アキラ。お前、なんか……さらに柔らかそうになったな」
ノブが当然のようにオレの二の腕をムギュッと掴む。
日焼けして熱を持ったノブの大きな手。
ひんやりとしたオレの肌に触れる。
(……っ)
心臓が、跳ねた。
「触んな! くすぐったいだろ!」
必死に虚勢を張るが、ふと目に写った窓ガラス。
そこに映るノブとオレの姿。
戦慄する。
そのコントラストは、どれだけナベシャツで偽装していても、
「屈強な騎士と護られる姫」
――そんな構図にしか、見えなかった。
(……くそっ)
(オレは、男だ)
(……なのに、なんでだよ)
「……尊い。この色彩の対比、国宝級ね」
アヤが呟きながらスマホを構えていることにも気づかず、
オレはただただ、自分の白すぎる腕を隠すように袖を引っ張るのだった。
短編にあった、アキラが病院で病名を聞くシーンがカットされたので、理由付けが足りなくなりました。
そのため代わりにちょっと重めのミステリー仕立てにしてみました。いかがでしたしょうか。




