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熱い背中

季節は初夏。誰が言うことも無く、自然に夏服に切り替わる。

アキラは女子制服に切り替わってから初めての夏服だ。


教室の窓は全開で、校庭の砂の匂いを孕んだ生ぬるい風がカーテンを膨らませている。

今日から衣替え。

昨日までアキラを包んでいた厚手のカーディガンは消え、糊のきいた白い半袖ブラウスが、その身を包んでいた。


「……なんかさ、これ。腕とか、脇とか、落ち着かねーんだけど」


アキラは所在なげに自分の二の腕をさすった。

長袖で隠されていた、もともと色白+白くスラリとしたラインを宿した腕が、初夏の光にさらされている。


「……」


ノブは、さっきから言葉を失っていた。

隣に座るアキラから、いつもより「肌」の存在を近くに感じる。

ブラウスの袖口から覗く、細い手首。

扇風機の風に吹かれて揺れる、うなじの産毛。

去年までは同じ男子の夏服同士、何も気にならなかったはずなのに。


「おい、ノブ? さっきから何黙ってんだよ。……ってお前、何赤くなってんだ?」


アキラが覗き込んでくる。

無防備に。

距離が近い。

白い襟元から、わずかにのぞく鎖骨のくぼみに、ノブの視線が吸い寄せられる。


「……っ、別に。赤くなってねえよ」


ノブは慌てて視線を逸らし、首元を緩めた。

自分の体温が、教室の温度よりも数度高い気がする。


「うそつけ。耳まで真っ赤だぞ? お前、熱でもあんのか?」


そう言って、アキラが自分の額をノブの額に寄せようと身を乗り出した。

布一枚隔てただけの、女子の制服を着た幼馴染。


「……あ、アキラ、近い。……離れろ」


「はぁ? 心配してやってんだろ」


アキラは心底不思議そうに眉を寄せ、無自覚にその「露出した腕」でノブの肩を小突いた。


-----


カシャシャシャシャシャシャッ。


廊下の隅で、大森チサのカメラが火を噴く。


「~~~~っ!! はぁん……アキラくん……! その無自覚な肌、襟元から見える鎖骨(サンクチュアリ)。本能という暴力が、理性という檻をこじ開ける!!」


「チサ。あとでその写真送りなさい。命令よ」


「もちろんです!アヤさん!」


-----


ある日の放課後の教室。

西日が斜めに差し込み、舞い上がる埃を、金色の粒子みたいに浮かび上がらせていた。


静かなはずの空間が、やけに騒がしい。


アキラは、机に突っ伏していた。


今日は――最悪だ。


こめかみの奥で、ドク、ドク、と脈打つ音。

それがそのまま頭蓋の内側に反響して、逃げ場がない。


窓の外。

誰かの笑い声。

ボールを打つ乾いた音。


全部が、近い。


耳元で鳴っているみたいに、うるさい。


(……なんだよ、これ)


カーテンが揺れる。

風が、肌を撫でる。


それだけで、肩がびくりと跳ねた。


自分の体なのに、他人のものみたいに落ち着かない。

体温が高いのか、低いのかも分からない。


呼吸が浅い。


うまく吸えない。


「……大丈夫か? アキラ」


すぐ隣から、ノブの声。


いつもなら、安心するはずの低い声。


なのに今は――


やけに、遠い。


「山下から聞いたけど、お前最近、走りすぎなんじゃねーか?」


その名前に、胸の奥がチリッと焼ける。


(……チヒロちゃん、か)


ほんの一瞬。


ほんの一瞬なのに、妙に引っかかる。


「……別に」


短く返す。


声が、自分のものじゃないみたいに乾いていた。


「いや、心配してんだよ。顔色、悪いぞ」


優しい声。


優しい、はずなのに。


(……なんで)


その優しさが、やけにうるさい。


額に、汗が滲む。

呼吸の浅さが、余計に意識にのぼる。


----


西日が、教室の床に長く伸びている。

その光の中に、アキラの腕があった。


白い。


ただ白いだけじゃない。

光を弾くみたいに、柔らかく浮かび上がっている。


(……こんなだったかよ)


去年まで、同じ教室で、同じ距離にいたはずなのに。


見えていなかったものが、

今ははっきりと目に入る。


呼吸のたびに、わずかに上下する肩。

汗で貼りついた髪。

浅く、苦しそうな息。


(やべえだろ)


具合が悪いのは、分かる。

それなのに――


違うところに、目がいく。


(……なんで今、それ見てんだよ俺)


ノブは、わずかに歯を食いしばる。


手を伸ばす。


いつもみたいに。

何も考えずに、軽く叩けばいい。


「おい、大丈夫か」って。


それだけでよかったはずなのに。


止まる。


あと少し。


触れられる距離。


その数センチが――


やけに重い。


(触ったら)


一瞬、頭をよぎる。


(これ、前と同じじゃいられねえだろ)


ただの「ダチ」みたいに叩くことも、

今までみたいに雑に扱うことも、


全部、できなくなる気がした。


(……なんだよ、それ)


そんなの、今さらだろ。


そう思うのに、体が動かない。


視線が、どうしても逸らせない。


その腕に。

その肌に。

その距離に。


(……触れろよ)


自分に言い聞かせる。


(こいつはアキラだろ)


でも――


その瞬間。


「触んなよ……」


弾かれるみたいな声。


ノブの手が、止まる。


完全に。


空中で。


動かない。


(……ああ)


一瞬だけ、思ってしまう。


(触りたく、なかったのか)


すぐに、打ち消す。


(違う)


(そんなわけ、ねえだろ)


でも――


さっき、止まった手。


触れなかった距離。


それが、頭から離れない。


----


「触んなよ……」


言っていた。


ほとんど反射だった。


顔も上げないまま、身体をよじる。

払いのけるみたいに。


空気が、止まる。


西日が、やけに濃くなる。


(……っ、違う)


遅れて、理解する。


違う。


そんなこと、言いたかったわけじゃない。


「……わりぃ」


言葉が、落ちる。


でも、軽い。


全然、足りない。


「……すまん。でも、無理すんなよ」


ノブの手が、引く。


今度は、迷わない。


完全に、距離を取る。


それ以上、触れてこない。


それが――


やけに、はっきり分かる。


(……なんでだよ)


さっきまであったはずの距離が、消えている。


近かったはずなのに。


今はもう、戻らない位置にあるみたいに。


胸の奥が、ざわつく。


呼吸が、さらに浅くなる。


「……っ」


何か言わなきゃいけない。


分かってる。


でも――


言葉が、浮かばない。


喉の奥で、全部止まる。


ここで何か言ったら、


決定的に何かが変わる気がした。


「……ごめん」


やっと出たのは、それだけ。


小さく。


かすれるみたいに。


「……いや」


ノブの声が、揺れる。


ほんの少しだけ。


でも、確かに。


その揺れが――


今度は、はっきりと届いてしまった。


--------


ノブは別クラスの友人、谷口マサハルを尋ねた。


そいつは最近、旅先で変な女と知り合ったと思ったら、

その女が「マサを追う」とか言い出して、本当に転校してきたという、意味のわからない経歴の持ち主だ。


「なに? お前の彼女の様子が変だと?」


マサハルは腕を組み、やたらと偉そうにうなずいた。


「そんなのはな――どーんと構えて、ここぞって時に抱きしめてやりゃいいのよ」


「……そういうものなのか?」


「そういうものだ」


間髪入れず、断言。


そのとき。


「マサ!」


背後から、勢いよく飛びつく影。


「何じゃこの男! 見知らぬ顔じゃ! 敵か!? ガルルルル……!」


マサハルの腕に絡みつき、ノブに向かって露骨に威嚇する少女。


「まてチハル。敵じゃない。コイツはオレの昔からの友人、ノブヒロだ」


「なに? マサが世話になっておるとな?」


ぴたりと威嚇を止める。


「そうであったか!」


ぱっと表情が変わる。


「妾はチハル。海の民、カイリュウ族の巫女、水波チハルじゃ! よろしく頼むぞ!」


「マサハル……何言ってるんだ、この女?」

「知らん」


即答。


「そういう設定だろ」


「そうか……」


「そうだ」


「そういうものだ」


マサハルは、何の迷いもなく言い切った。


その顔は、やけに真剣で――

否定する気を、根こそぎ削いでくる。


「……お前、よくそれで平気だな」


「慣れだな」


マサハルは腕を組んだまま難しそうな顔で言う。

チハルが満足そうにうなずく。


「愛とは受け入れることじゃ」

「お前が言うな」


「マサ、口元に食べかすが付いておるぞ!妾が取ってしんぜよう」


ぺろり。


「おいこら!チハル!人前だぞ!」

「だからなんだと申すのじゃ?」


チハルはきょとんと首を傾げる。


ノブは、そのやり取りを見たまま――

言葉が出なかった。


(……なんで、あんな簡単に)


舌先で触れる、その距離。

躊躇いも、遠慮もない。


(……オレは)


一瞬、脳裏に浮かぶ。


白い腕。

あと数センチの距離。


触れなかった、自分の手。


「……」


指先に、感触が残っている気がする。


触れてもいないのに。


「……無理だろ」


小さく、吐き出す。


何に対してか、自分でも分からないまま。


風が吹く。


さっきの教室と同じ、

生ぬるい風だった。


-------------------------


教室。


アキラは相変わらず辛そうだ。


「うううううう」


ノブはそんなアキラを見ながらどうしたものかと悩む。

そしてさっきの友人の言葉を思い出す。


『そんなのはな――どーんと構えて、ここぞって時に抱きしめてやりゃいいのよ』


――ぺろり。


(……いや、意味分かんねえだろ)


思わず眉をしかめる。


けど。


完全には、消えない。


(抱きしめる、って)


視線が落ちる。


机に伏せたアキラ。

半袖の腕。

呼吸に合わせて、わずかに上下する肩。


(今か?)


一瞬、本気で思う。


ここで手を伸ばして、

そのまま引き寄せれば――


(……できるかよ)


喉の奥で、息が詰まる。

できるわけねえだろ、そんなの。

でも。


(じゃあ、何もしねえのかよ)


ぐっと、奥歯を噛む。

逃げるのも、違う。

だったら――


「おいアキラ」


声をかける。


「今日、俺が送ってやるから」


一番、できる形で。

一番、逃げてない距離で。


「……ううう。ありがと、ノブ」


かすれた声。


「おう。気にすんな」


そう言いながら、

ノブは一瞬だけ、


その肩に手を伸ばしかけて――

結局、ポケットに突っ込んだ。


---

「ほら、乗れ」

「……は?」

「いいから。歩けねえだろ」


しゃがむノブ。

少しの間。


「……重いぞ」

「お前くらい大したことねえよ」


小さく舌打ちして――

だよな。お前柔道部だしな、と。


アキラが、背中に体重を預ける。

その瞬間。


「……っ」


ノブの息が、わずかに止まった。

軽い。

想像してたより、ずっと。


でも――


(近い)


背中に当たる柔らかさ。


首筋にかかる、熱い息。

腕が、自然に首に回る。

逃げ場がない。


(……これ、やべえだろ)


「……ノブ」

「なんだよ」

「……ありがと」


かすれた声が、すぐ耳元で落ちる。

それだけで――


(……無理だろ、これ)


視線を逸らすこともできないまま、

俺はただ、前を見るしかなかった。


「おう…」

----

「ほら、乗れ」


しゃがみこんだノブの広い背中。

コイツ何言ってる?


(……顔が熱い)


今ここで身を委ねると、何かが振り切れそうだ。

言葉を探す。


「……重いぞ」


絞り出せたのは拒絶か、承諾の前の断りか?

自分でもわからない。


「お前くらい大したことねえよ」


(そうだよな。お前柔道部だし)


足がふらつく。視界がぐらぐらと揺れる。

心の何処かで、だめだ、と言っているのに。


体は――


その背中に、倒れ込んでいた。


一瞬。


ほんの一瞬だけ、


ノブの体が、固まる。


「……っ」


それでも、逃げなかった。


ぐっと力を込めて、俺の身体を引き上げる。


視界が揺れる。

密着した胸から、ノブの心臓の音がドクドクと伝わってくる。


(……速い)

(ノブも、これ――平気じゃねえのかよ)


ノブの首筋に回した自分の腕が、頼りなく見える。

必死に鍛えてきたはずなのに。

逞しい首に絡みついたそれは、どこからどう見ても、女の腕だった。


(……嫌だ)


自分が、何かに書き換えられていくのが分かる。

それなのに、耳元から伝わるノブの荒い呼吸が、頼もしく感じる。


「……ノブ」

「なんだよ」


答えるその声が、わずかに震えているのが分かった。


「……ありがと」


謝りたかったのは、感謝じゃない。

こんな体になってしまったこと。

ノブを、こんな風に戸惑わせてしまっていること。


でも、言葉にすれば、本当に何かが壊れてしまう気がして。

逃げるみたいに、オレはただ――

ノブの背中に、熱を持った顔を押し付けることしかできなかった。

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