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彼女の舞台

廊下。


ユズハは一人でノートを抱えている。

少し重そうにしていると――


「おい、ユズハ」


ノブが声をかける。


「それ、落とすぞ」


ひょいとノートを支える。


「あ……ありがとうございます」


少し驚いた顔。


「別に」


ノブは気にした様子もなく、


「教室まで運ぶか?」


「……いえ、大丈夫です」


一瞬、迷って――

でも、


「……お願いします」


小さく言う。

並んで歩く。

沈黙。


でも、悪くない空気。


教室の前。


「ほい」


ノブがノートを渡す。


「ありがとうございました」


少しだけ間を置いて、

ユズハが言う。


「ノブくんって、優しいですね」

「は?」

「昔から、変わってないなって」


ノブは少しだけ考えて、


「あー……まあ、昔はよく一緒にいたしな」


一拍。


「……お前も、変わんねえよな」

「――っ」


その一言。


ユズハの目が、わずかに揺れる。


何か言おうとして、言えない。


------------

昼休み。

廊下。


ユズハは、小さく息を吸う。

手の中の包みを、少しだけ握り直す。


――よし。


扉に手をかける。


ガラッ。


賑やかな教室。

笑い声。


視線が、自然と奥に向く。


―いた。


ノブくんとアキラくん。

並んで座っている。


机の上。

二つの弁当箱。

同じ包み。

中身も、同じ。


ノブくんのほうが、少し大きい。


向かい合って、何気なく笑ってる。


「これ、うまいな」

「だろ?」


何気ないやりとり。

当たり前みたいな距離。


ユズハの足が、止まる。


ほんの一瞬だけ。

何かを言おうとして、


でも、


言葉が出てこない。

ぎゅっと、包みを握る。

布が、わずかに歪む。


――トン。


静かに扉を閉める。

顔を伏せる。

そのまま、

何も言わずに歩き出す。


------------


ユズハの部屋。


整った本棚。


少女漫画。

ファッション雑誌。

料理本。お菓子の本。


どれも、ちゃんと読んできた。

ちゃんと、やってきた。


(わたし、頑張ってきたのに)


鏡の前。

ヘアアイロンを手に取る。


髪をすくう。

滑らせる。

きれいに整う。

いつもと同じ。


いつも通りのはずなのに、

腕が、重い。


(……なんで)


(ちゃんと、できてるのに)


手が、少しだけ止まる。


(ノブくんに似合うように)


思い出す。

小さい頃。

一緒に帰った帰り道。

名前を呼ばれて、笑った日。


(ちゃんと、順番にやれば)


(いつか、そうなるって思ってた)


でも。

アキラくんの顔が浮かぶ。

ぶっきらぼうで、雑で、


でも――


ノブくんの隣で、当たり前みたいに笑っている。


「……なに、それ」


ぽつり。


「そんなの、聞いてない」


唇を噛む。


「ちゃんとやってきたのに」


顔を上げる。


「ここ、現実なんだから」


「ちゃんとした人が、選ばれるべきでしょ」


言い切ってから、

ほんの一瞬だけ、言葉が止まる。


「……私が」


小さく、息を吸う。


「私が、隣に立たないと」


-------------


ある日、ノブは皆川ユズハに呼び出されていた。

放課後の、誰も居なくなった教室。


窓の外から、遠く運動部の掛け声がかすかに響いている。

それがかえって、誰もいなくなった教室の静まり返った空気を際立たせていた。


「ノブくん、私――ちゃんと好きです」


迷いのない声だった。

ユズハは、逃げ場を塞ぐように、その瞳を真っ向からノブに向ける。


「昔から、ずっと」


一度言葉を切って、彼女は深く、震えるほどに息を吸い込んだ。

その肺の奥に溜まった「年月」をすべて吐き出すように、言葉を繋ぐ。


「だから、ちゃんと考えてほしいんです。……誰といるのが、一番、正しいのか」


「皆川……いや。ユズハ、お前……」


不意に、ノブの喉が鳴った。

西日が差し込む教室の境界線で、彼は何かを言いかけ――、けれどその迷いを、静かな響きが上書きする。


「……わりい。ユズハ」


一歩も引かない、拒絶の響き。


「俺にはもう、アキラがいる」


静かだった。

けれど、それは岩のように硬く、動かしがたい事実としての重みを持って、ユズハの胸に落ちる。


「だから、そういうのは――」


「……っ!」


ユズハが、床を強く踏みしめた。

その鋭い音が、夕闇の迫る教室に激しく反響する。

詰め寄る彼女の瞳には、こぼれそうな涙ではなく、煮え滾るような意志が宿っていた。


「アキラくんは……! 男の子じゃないですか!!」


張り上げた声が、窓ガラスを微かに震わせた。

それは彼女がずっと自分自身に言い聞かせ、必死に握りしめてきた「現実」という名の最後の砦だった。


「はあ?」


ノブの眉が、険しく寄る。

けれどユズハは怯まない。指が白くなるほど、スカートの裾を握りしめる。


「私……それ、ずっと考えてました。ノブくんがどうして、あんなに危うい人にこだわるのか」


「……」


「でも、好きって、それだけでいいんですか?」


ユズハが一歩踏み込む。

その瞬間、窓の外から運動部の笛の音や、下校する生徒たちの笑い声が、やけに鮮明に教室へ流れ込んできた。

「普通」の時間が流れる世界の音が、ノブを包囲するように騒がしく響く。


「だって、この先どうするんですか? 将来とか、周りの目とか……。ノブくんは、あのアキラくんと、本当に『普通』に暮らしていけるんですか?」


「――」


その問いに、言葉が出なかったのは初めてではなかった。

逃げ場のない正論。

五十嵐との会話を思い出す。

ノブの視線が、わずかに泳いだ。

世界のノイズはさらにボリュームを増し、まるで「お前は間違っている」と合唱しているかのように耳を打つ。


「私なら、ちゃんとできます」


ユズハが、まっすぐにノブを見つめる。

その笑顔は、崩れない。

“正解をなぞるための”

完璧に整えられた“正しいヒロイン”の表情だった。


「普通に、あなたの隣に立てます。ノブくん」


「……」


その瞬間。

世界から、音が消えた。


あんなに騒がしかった外の喧騒が、嘘のように遠のく。

鼓動の音さえ聞こえないほどの、真っ白な静寂。

床に長く伸びた夕日の帯だけが、二人の境界線を残酷に際立たせていた。


ノブは、ゆっくりと目を伏せる。

深い、深い沈黙の底で、彼は何かを切り離すように息を吐いた。


「やめろ」


低く、押し殺した声。

氷が割れるようなその一言が、死に絶えた空気を切り裂く。


「……え?」


「それ以上、言うな」


言葉は短いのに、そこには明確な拒絶があった。

踏み込ませないための、線引き。


ユズハの表情が、わずかに揺れる。

髪がサラリと視界を塞ぐ。

震える手、垂れた髪を耳へかき上げる。


ノブは、ゆっくりと顔を上げる。

窓から差し込む光が、目にかかる。


「……わかんねえよ」


一瞬だけ、奥歯を噛み締める音がした。


ぽつりと落ちる声。

強さも、理屈も、そこにはない。


「そんな先のこと、考えたことねえ」


正直すぎるほどの、空白。


「でも」


一拍。


喉が、かすかに鳴る。


「オレは、アキラを――」


言葉が、止まる。


教室の静寂が、その沈黙を引き延ばす。


何かを言えば、何かを壊してしまう。

そんな躊躇いが、確かにそこにあった。


「……わかんねえけど」


結局、出てきたのは不完全な言葉だった。


「普通にできるかどうかで、“選んだ”んじゃねえ」


その一言だけが、どうしようもなく本音だった。


「……っ」


ユズハの指先が、わずかに震える。

ノブは、少しだけ考える。


言葉を探しているのか、

それとも――思い出しているのか。


長い、沈黙。


遠くで、ボールを打つ音がした。


「……気づいたら、隣にいた」


ゆっくりと、言う。


「それだけだ」


飾りも、理由もない。

ただ、それだけ。


――だから、強い。


沈黙が落ちる。

さっきまでの熱が、嘘みたいに引いていく。


「……なに、それ」


ユズハが、小さく笑う。

けれどその声は、どこか空虚だった。


「ちゃんと考えてって、言ったのに」


一歩、引く。

靴底が床を擦る音が、キュッと、やけに大きく響く。


「そんなの……」


言葉が続かない。

息だけが、少し漏れる。


(――最初から、舞台にすら登っていなかったんだ)


胸の奥に、静かに沈んでいく理解。

否定も、反論もできない種類のもの。

ほんの少しだけ、困ったように笑って、


「……どうやって、勝てばいいんですか」


問いというより、独り言に近かった。

ノブは、その顔を見て、明らかに困惑する。


眉が寄る。


視線が揺れる。


「いや、勝つとか負けるとか……」


言葉が、噛み合わない。


「そういうんじゃ――」


うまく説明できない。

それでも、何か言わなきゃいけない気がして、


「……悪い」


結局、それしか出てこない。

短くて、どうしようもない言葉。


一拍。


ユズハは、小さく息を吸う。

その音が、やけに鮮明に響いた。


そして――


顔を上げる。

まっすぐに。

さっきまでと同じ、逃げない目で。


「……それでも」


一歩も引かない声。


「それでも、ノブくんが好きです」


夕日の中で、その言葉ははっきりと輪郭を持っていた。


「それは、やめません」


宣言だった。


敗北のあとに残った、意志だけの言葉。

ノブは、何も言えない。

ただ、立ち尽くす。

ユズハは、背を向ける。

スカートの裾が、わずかに揺れる。


歩き出す。


コツ、


コツ、


コツ――


足音が、静かな教室に規則的に響く。

その音が、扉の前で一度だけ止まり、


――ガラリ。


夕焼けの光が、細く途切れた。


-----


翌日。


教室。


朝のざわめきが、まだ完全に馴染みきっていない時間。


椅子の脚が床を擦る音。

誰かの笑い声。

開け放たれた窓から、春の風がゆるく流れ込んでくる。


その中で――


「アキラくん!」


鋭い声が、空気を切った。

何人かが、反射的に振り向く。


「なんだ皆川?」


アキラは、机に肘をついたまま、面倒くさそうに顔だけ向ける。


「座る時、足を広げないでください」


ぴしりと言い切る。


「は? なんだよ。そんなのオレの勝手だろ」


「その言葉遣いも!!」


間髪入れず、重ねる。

教室の空気が、わずかに張る。


「もっとちゃんと女の子らしくしてください!」


一歩、踏み込む。

その靴音が、やけに響いた。


「ノブくんの隣にいるんですから!」


――その一言。


空気が、変わる。

アキラの目が、わずかに見開かれる。


すぐに逸らす。


視線の逃げ場を探すように、机の上に落とす。


「……うっせーな」


低く、吐き捨てる。

けれど――


その声は、昨日までよりほんの少しだけ弱かった。


一瞬、間。


教室のざわめきが、遠くなる。


「……分かったよ」


ぽつり。

短く、それだけ言う。

ユズハは、小さく息を吐く。

勝ったわけじゃない。

でも、引かせた。

それだけの、わずかな手応え。


(もう。なんでこんなやつが……)


視線を落とす。


(……あの人の隣にいるのよ)


胸の奥に、まだ昨日の言葉が残っている。


――『気づいたら、隣にいた』


ぎゅっと、指先に力が入る。

ノブは、そのやり取りを見ている。

口を開きかけて、

止める。


何かを言えば、何かが壊れる気がした。

その沈黙の隙間に――


場違いに明るい声。


「ねえアキラちゃん」


ひょい、と。

アヤが、いつの間にか背後にいた。


机に軽く腰を預けて、身をかがめる。


「なんだよ」


「負けてないよ、皆川さん」


「……は?」


アキラが、眉を寄せる。


アヤは、くすっと笑う。


「ちゃんと“舞台に上がってきた顔”してた」


その言葉が、静かに刺さる。


「……」


アキラは、何も言わない。

指先が、ノートの端をなぞる。


「だからさ」


少しだけ声を落とす。


「ちょっと焦ってるでしょ」


口元だけが、楽しそうに歪む。


「うっせーな!!」


思わず、声が大きくなる。

近くの席の何人かが、また振り向く。

アキラは、舌打ちして視線を逸らす。


ノートの端を、爪でいじる。


カリ、カリ、と小さな音。


「……んなこと、言われなくても分かってるっつの」


ぼそりと、落とす。

その言葉は、

誰に向けたものでもなくて――


自分自身に、言い聞かせるみたいだった。

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