これまでと、これから
廊下。
放課後のざわめきが少し遠くに聞こえる。
「あの……」
「ん?」
振り向いたアキラの前に立っていたのは、見覚えのない学生だった。
姿勢のいい立ち方。
整った顔立ち。
まっすぐこちらを見る目。
「僕は三年A組の五十嵐トモヤと申します」
(なんだA組?よそのクラスか?)
「僕も三年です」
一歩、静かに距離を詰める。
「だからあなたにもわかるはずです」
まっすぐな視線。
逃げ場を塞ぐように。
「進路の話も、もう決めねばならない現実ですよね」
「……」
「それに――」
わずかに間を置く。
「あなたが今抱えている問題は、先延ばしにしても解決しない」
(……っ)
心臓が、わずかに跳ねる。
分かっていることを、
他人の口から言われる。
それだけで、こんなにも重い。
「最初から、最適な環境を選ぶべきです」
淡々としているのに、
やけに優しく聞こえる声。
「僕と同じ高校に来ませんか」
「麓恩八坂学園です」
一瞬だけ、息が詰まる。
(……その学校って)
パンフレットで見た、
あの白い校舎が脳裏に浮かぶ。
「ここなら、あなたの制服の問題も解決できます」
「……」
「学校側と調整も可能です」
さらりと言う。
まるで、それが当然のことのように。
(……なんだよ、それ)
現実的で、
正しくて、
――逃げ道みたいな言葉。
アキラの表情がわずかに揺れる。
五十嵐はそれを見逃さない。
「僕の家は五十嵐グループです。だから僕なら――」
間髪入れずに言葉が続く。
「将来的な制度の活用もできますし、養子という形で子供を迎えることも可能です」
「……は?」
「社会的な立場、環境、すべて整えられます」
一歩も引かない。
「田中くんでは、あなたを守れません」
「ですが、僕なら―」
「あなたが安心して生きられる未来を、提示できます」
――未来。
――条件。
――保証。
完璧な言葉。
隙がない。
だからこそ――
「ちょっと待て……」
アキラが手を上げる。
「その上で」
一拍、置く。
「僕と、お付き合いしていただけませんか」
「はああああああ!?」
廊下がざわつく。
「情報量多すぎて、頭追いつかねえ……」
ほんの少しだけ、空気が緩む。
トモヤは一度目を伏せる。
「……失礼しました」
そして、整え直す。
「今すぐ答えを求めるつもりはありません」
静かに一礼。
「お待ちしています。和泉さん」
そのまま、振り返り、去っていく。
人の波が、自然に道を開ける。
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少し後ろ。
「……っ」
アヤ、固まる。
「アヤ?」
ミカが覗き込む。
「ちょっと、大丈夫――」
「待って」
手で制す。
視線は、逸らさない。
「今……なに?」
震える声。
「イケメンが、アキラちゃんに……」
一拍。
「公開告白……?」
理解した瞬間――
「――っ!!」
つー……
鼻から赤いものが流れる。
「ちょっ!?アヤ!?」
「やば……」
口元を押さえる。止まらない。
「これ……神回じゃない……?」
ふらつく。
「無理……情報量が多すぎる……」
それでも目だけは離さない。
「公式が最大手……」
「ちょっとアヤ何言ってんの!?」
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畳の上。
「一本!」
声が響く。
でも――
(……遅え)
自分でもわかる。
踏み込みが、半拍遅れている。
「どうした田中!らしくねえぞ!」
顧問の声。
「……っす」
短く返す。
けど、集中が戻らない。
(なんなんだよ……)
頭に浮かぶのは――
アキラの顔。
それと、
『田中くんでは、あなたを守れません』
あの言葉。
「ちっ……!」
思わず舌打ち。
その隙を突かれて――
「一本!」
畳に叩きつけられる。
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ノブ帰宅。
玄関の戸を開けた瞬間、家の中の明るさがやけに眩しく感じた。
「ただいまー……」
靴を脱ぐ音も、どこか重い。
「なにー?最近元気ないじゃん!」
台所から顔を出したかーちゃんが、容赦なく背中をバシバシ叩く。
「失恋かー?青春だねえ!」
「ちげえよ!!」
反射的に返す声が、少しだけ荒い。
居間では、とーちゃんが風呂上がりのままビールをあおっている。
「ほーう」
ちらりと一瞥だけよこして、
「顔に出てんぞ」
ぼそっと一言。
「……うっせえ」
それ以上、何も言いたくなくて、逃げるみたいに風呂場へ向かった。
――ガラッ。
湯気が立ちこめる。
蛇口をひねる音。
ざああ、と勢いよく水が落ちる。
その音に紛れるように、ノブは小さく息を吐いた。
「……はあ」
額に手を当てる。
(くそっ)
脳裏に浮かぶのは、あの時の五十嵐の顔。
『僕の家は五十嵐グループです。だから僕なら――』
やけに落ち着いた声。
自信に満ちた目。
全部、正しいことを言っていた。
反論の余地なんて、どこにもなかった。
拳を、ぎゅっと握る。
(俺には何もねえ)
シャワーの水が、肩を叩く。
冷たいはずなのに、何も感じない。
俺が私立に行きたいなんて言ったら、どうなる?
――無理に決まってる。
この家で。
この現実で。
とーちゃんは公務員。
かーちゃんはパート。
普通の、どこにでもある家庭。
それで十分だって、分かってる。
(……でも)
喉の奥が、ひりつく。
(あいつは)
女子制服を着て、
あんな顔して、
それでも前を向いてた。
“戦ってた”。
(なのに、俺は――)
目を閉じる。
水音だけが響く。
柔道だってそうだ。
とーちゃんに言われて始めた。
気づいたら続けてただけだ。
強くなりたいとか、
誰かのためにとか、
そんな大層な理由じゃない。
(じゃあ、俺は――)
アキラに、何ができる?
何をしてやれる?
何を、言える?
答えは出ない。
ただ一つ、はっきりしているのは――
胸の奥に、どうしようもなく渦巻いている、この感情だけだった。
「……っ」
拳を壁に軽く打ちつける。
鈍い音。
痛みが、少しだけ現実を引き戻す。
「……くそ」
シャワーを止める。
静寂。
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放課後の帰り道。
アキラが告白されたことは、すでに学校でも話題になっていた。
「ノブ。なんか、すまん」
ぽつりとこぼす。
「……ああいうの」
「なんか、違うんだよな」
うまく言葉にできないまま、視線を逸らす。
「嫌とかじゃなくてさ」
「オレ、そういうので見られても、ピンとこねえんだよ」
一瞬だけ、ノブを見る。
「でも」
「お前は、違うだろ」
小さく息を吐く。
「だから――」
「オレはそれでも――ノブを選ぶよ」
「……」
ノブは少しだけ目を伏せる。
「アキラ。俺の気持ちは変わらないつもりだ」
ゆっくりと口を開く。
「アキラが男でも女でも関係ない。一生俺が守る」
一度、言い切る。
けれど――
「……そう思ってきた」
わずかに、声が揺れる。
「でもよ……」
拳が、ぎゅっと握られる。
「あいつの方が」
「頭もいいし、ちゃんとしてるし」
「将来のことも考えてる」
一瞬、言葉が詰まる。
「オレなんかより――」
一度、言葉が切れる。
喉の奥で、何かが引っかかる。
「……ずっとまともだ」
吐き出すように言う。
「ちゃんとした未来も、用意できる」
「守るって言葉に、ちゃんと中身がある」
拳が震える。
「俺は……お前にやれること、何も思いつかねえ」
小さく、でも確かに零れた本音。
――自分で、自分を切り捨てるように。
「……ノブ」
アキラが何か言いかけた、そのとき。
「ノブ先輩!!」
勢いよく駆け寄ってくる足音。
「……山下?」
「嫌です!」
間髪入れない否定。
空気が止まる。
チヒロは、まっすぐノブを見る。
「私、ノブ先輩が好きです」
「でも、アキラさんのことも好きです」
「私、二人が仲良くしているところが大好きなんです」
一歩、踏み出す。
「だから……」
ぐっと言葉を飲み込む。
アキラの顔を見る。
(……え?)
戸惑いの表情。
それでもチヒロは、顔を上げる。
「……アキラさんも、ノブ先輩のことが好きなんです」
一拍。
「いいえ――」
言い直す。
「愛しています!」
「んなっ!!?」
アキラの顔が一瞬で真っ赤になる。
「ちょ、おま……何言って……!!」
否定しようとして、言葉が詰まる。
視線が泳ぐ。
――否定、できない。
その様子を見て、チヒロは確信する。
「私、ずっと見てました。誰よりも近くで」
ぽつりと落とす。
「ノブ先輩が、どんな顔でアキラさんを見てるか」
ノブの肩が、びくっと揺れる。
「自分じゃ気づいてないかもしれないですけど」
一歩、踏み出す。
「先輩、ちゃんと“守って”ます」
言い切る。
「言葉じゃなくて、ずっと行動で」
「なのに今の先輩は!!」
声が震える。
でも、止まらない。
「何してるんですか!!!」
ピシャリと言いつける。
「アキラさんの気持ち、ちゃんと見てください!!」
「ちゃんと向き合ってください!!」
涙が、ぽろっと落ちる。
それでも拭わない。
「あんな人の言葉に、負けないでください!」
「ノブ先輩は――」
一歩、近づく。
距離が、ぐっと詰まる。
「もっと堂々としているべきです!!」
さらに一歩。
「じゃないと――」
声が、崩れる。
「嫌なんです……っ」
ぼろぼろと涙がこぼれる。
「山下……」
ノブが、言葉を失う。
そのとき。
「そうだぞノブ!!!」
アキラが踏み出す。
「チヒロちゃんを泣かせるようなこと言うな!!」
まっすぐ、ノブを見る。
「オレはノブを選ぶ」
一拍。
「そう決めた」
言い直す。
逃げない。
「だからさ、ノブ」
一歩、近づく。
「お前は――」
目を逸らさない。
「もっと堂々と構えてろよ」
------------
深呼吸。
足が、一瞬だけ止まる。
(……逃げるか?)
頭の中で、弱い声が囁く。
すぐに振り払う。
「……バカか」
小さく呟いて、
扉に手をかけた。
――ガラッ。
ざわついていた教室が、一瞬で静まる。
「五十嵐」
凛とした声。
入口に立つアキラの表情は、迷いがなかった。
「……和泉さん?」
五十嵐が立ち上がる。
わずかに、気圧されている。
「そうか……あの時の答えを――」
「五十嵐」
低く、遮る。
その一言だけで、空気が張り詰める。
「オレはノブを選ぶ」
言い切ったあと――
ほんの一瞬だけ、視線が揺れる。
(……ほんとは)
胸の奥が、少しだけ痛む。
五十嵐の言葉。
あれが“正しい”ことくらい、分かってる。
でも――
ぐっと拳を握る。
「それでもだ」
声に、力を込める。
「それでもオレは、ノブがいい」
教室が、ざわめく。
「――っ」
五十嵐の表情が揺れる。
「和泉さん……何を言っているんだ」
一歩、踏み出す。
「彼では、この先あなたを守れない」
「わかるだろう?」
声が、強くなる。
「僕なら――」
「黙れよ」
静かに。
でも、はっきりと。
空気が凍る。
「……っ」
「お前が」
一歩、踏み出す。
「ノブの何を知ってる」
まっすぐ睨む。
逃がさない視線。
「ノブはな」
言葉を選ばない。
そのまま、ぶつける。
「オレがどんな時でも、ずっと見ててくれた」
「逃げそうになった時も」
「悩んで、どうしようもなくなった時も」
拳を握る。
「隣で、支えてくれた」
「守ってくれた」
一歩、さらに近づく。
「それを」
低く、吐き出す。
「ぽっと出のお前が――」
そこで、止まる。
「……いや」
首を振る。
「違うな」
一度、自分の言葉を切る。
そして、まっすぐ見据える。
「お前は今まで、オレに何かしたか?」
「……っ」
五十嵐が言葉に詰まる。
「だ、だから!それをこれから――」
「ちがう」
即答。
迷いがない。
「“これから”じゃねえんだよ」
一拍。
「オレの今は、ノブと一緒にあった」
教室が、静まり返る。
「"だから"今のオレがいる」
アキラは天井を見上げ一瞬微笑む。
「それに―」
そして五十嵐をもう一度まっすぐ見る。
「オレの将来は、オレが決める」
一歩引く。
「ノブもな」
「オレたちの将来は――」
視線を逸らさない。
「オレたちで決める」
はっきりと言い切る。
「だから悪い」
少しだけ、声を落とす。
「この話は、なかったことにしてくれ」
沈黙。
数秒。
「……わかりました」
五十嵐が、静かに言う。
その表情は、完全には折れていない。
「ですが」
顔を上げる。
「僕は、まだあなたを諦めていません」
「そうか」
アキラは一瞬も迷わない。
「勝手にしろ」
踵を返す。
そのまま、教室を出ていく。
――ガラッ。トン。
ドアが閉まる。
残された教室に、ざわめきが戻る。
------------------------------
下校時間直前。
昇降口には、部活帰りの生徒たちのざわめきが残っている。
その中で――
「田中くん」
背後から、静かな声。
振り返る。
五十嵐だった。
人の流れが、わずかに避ける。
場の空気が、変わる。
「あなたと話す必要がある」
短い一言。
逃げ道は、最初から用意されていない。
(……アキラは、校門で待ってる)
頭をよぎる。
(……ここで逃げたら、終わりだ)
小さく息を吐く。
「……おう。聞こう」
覚悟を決める。
五十嵐は、じっとノブを見つめる。
揺れない視線。
その表情に、敗北感はない。
見下してもいない。
ただ――
静かな怒りだけが、そこにあった。
わずかに違和感。
けれど、理由までは分からない。
「単刀直入に言う」
間を置かずに、言葉が落ちる。
「あなたでは無理だ」
空気が、張り詰める。
「現実的に考えてください」
「あなたは彼女に何を与えられるんですか?」
逃げ場のない問い。
言葉は冷静なのに、
一つ一つが、鋭く刺さる。
「今まで――」
一拍。
「あなたは確かに、彼女の心の支えだったかもしれない」
「でも……」
ほんのわずかに、声が低くなる。
「それだけです」
断定。
情け容赦がない。
「彼女の話を聞いていて、わかりました」
「今のあなたは、彼女に守られている状態だ」
図星。
逃げ場はない。
「これからあなたは」
「彼女に、何をしてあげられるんですか?」
視線を落とす。
足元が、やけに遠い。
「……っ」
喉が詰まる。
言葉が、出てこない。
言い返せない。
全部、正しい。
ぐうの音も出ない。
(……俺には、何もねえ)
守るなんて言っといて、
何一つ、用意できてねえ。
沈黙。
喉の奥が、ひりつく。
(……ああ)
(確かに俺は、あいつに守られてる)
五十嵐の言葉がよぎる。
“立派な未来”。
(俺が持ってるのは)
(あいつが男だった頃からの――)
(何も変わらねえ、地続きの毎日だけだ)
自嘲気味に、笑う。
(情けねえけどな)
一歩、踏み出す。
靴音が、やけに大きく響く。
一瞬だけ、目を伏せる。
「それ」
顔を上げる。
「分かってねえだろ」
五十嵐の眉が、わずかに動く。
「あいつは――」
(言葉を探すんじゃない)
(思い出す)
「ちょっとガサツで」
「弱虫で」
「すぐ泣くくせに」
「いつもキョロキョロしてて」
「見てらんねえくらいで」
一拍。
少しだけ、口元が緩む。
「でも」
空気が変わる。
「覚悟決めたら、負けねえ」
「絶対に立ち向かう」
まっすぐ、見据える。
「そういうやつだ」
沈黙。
「お前が見てんのは、“その後”だけだ」
一歩、詰める。
「そこに来るまで、何があったか――」
「知らねえだろ」
五十嵐がわずかにたじろぎ、視線をそらす。
ノブは自嘲気味に続ける。
「……ああ、そうだよ」
吐き出す。
「将来の保証もできねえ」
「お前の方が、全部上だ」
一拍。
「……分かってる」
でも、逃げない――。
「……でもよ!」
「それでも!」
一歩、近づく。
「隣にいるのは、俺だ」
空気が変わる。
「今も」
「これまでも」
「これからも」
視線を逸らさない。
「それは――譲らねえ」
「未来なんてな」
一拍。
「これから、いくらでも作れるだろ」
言い切ったその言葉に、
食いしばる五十嵐。
「……っ」
その眼差しは、真っすぐで―
直視することができなかった。
(……泥臭い)
最初に思ったのはそれだ。
理屈じゃない。
合理性も、将来設計も、
何一つとして整っていない。
ただ――
感情と、時間と、
積み重ねだけで立っている男。
(非効率だ)
そう、切り捨てることはできるはずなのに。
「……」
言葉が、出てこない。
喉の奥で止まる。
(このタイプは……苦手だ)
正しいはずの自分の論理が、
初めて通じない相手。
(だが――)
視線を上げる。
目の前の男は、揺れていない。
何も持っていないはずなのに、
一歩も退いていない。
(……そうか)
小さく、息を吐く。
(今の僕では)
認めるしかない。
(この男に――)
わずかに、唇を噛む。
(立ち向かえる言葉が、ない)
沈黙。
静かに、視線を落とした。
ほんのわずかに、目を細める。
言葉は、正しかったはずだ。
論理も、条件も、
一つとして間違っていない。
なのに――
(届かない)
初めての感覚だった。
(この男には)
自分の言葉が、
“通用しない”。
……
(これは――)
(……くやしいな)
夕日に照らされた校門。
ショートカットの少女がヒョイとこちらを伺う。
田中はそれに気づくと「じゃあな」と向かっていく。
彼女は嬉しそうに走ってきて寄り添う。
何も言わず、当たり前のように。
五十嵐の瞳に映ったそれは――
ひどく、眩しかった。
五十嵐は私にとって強敵すぎました。
何も持ってないノブがどうやったらコイツを言い負かせるのかと、悩んで悩み抜いた結果こうでした。




