十六節:クレバス
盛り上がった雪壁で圧迫感のある狭い道を進み、一つの疑問がバスティンの小隊を率いる指揮官に浮かび上がった。
「この壁、人為的に作られたものではないか?」
「ラシード様、人入りの滅多にない霊峰です。このような壁を、誰が何のために並べる必要がありましょうか?」
ファイサルが素直な疑問をぶつける。
なるほど、自然に考えれば人も獣も通らない死の大地に道を作る必要性はない。
だが、前提が間違っていたら?
<この先の道からルベンカ帝国の部隊が行軍してくるのではなく、我々を「待ち構えていた」としたら?>
ラシードの体に悪寒が走った。
「全軍!退け!早くするのだ!」
怒号を合図とするかのように道が、壁が轟音を立て崩れ落ちる。
突如顔を出したクレバスが大口を開けて、バスティンのアサシン部隊を捕食する。
彼らは等しく体術に優れ、身軽な装備ではあるが、どれほど洗練された戦士も空中で身動きを取れるはずがない。
ふるいに落とされた粉のように、ただ自らの行く末を委ねるのみだ。
「ラシード様!お助け――兄様!」
ファイサルが上げる命がけの一声が雪とともに虚しく消えていく。
アサシン達の絶望した声が次第に消えていく。
バスティン朝の野望が消えていく。
平和への願いが消えていく。
なにもかも消えていく。
――そして、まっさらになった虚空には微かな風の音だけが残った。
ラシードは目を覚ました。
仰向けの状態で捕縛されていたことから、死に損なったのだと実感する。
見慣れた顔が見下ろしていた。ルベンカ皇太子、ミハイルだ。
大陸国が集まる「世界会議」で、この純真そうな青年が雄弁に平和を説いていたのを思い出した。
傍らには死んだと聞かされていた鬼神。
(鬼神、生きていたのか……)
手足の堅牢な枷で身動きが取れない。この程度の捕縛はアサシンのマジックスキルで抜けられるはず。
魔法を念じようとすると、魔力だけが吸い取られる気分がする。
「そいつはマジックジャマー付きの特別製でな。魔法を使おうとすれば、それだけMPだけが消費されるんだ」
ユーマがラシードの表情を察して説明する。
「これからお持ち帰りして拷問か。ここでMPを使い果たして死を選ぶのと、どちらが最良の末路だろうな」
自嘲気味に、あえてラシードはおどけてみせる。
「拷問など、誓ってそのような非人道的なことは致しません」
ラシードの言葉に対して、ミハイルが食い気味に反論する。
「知っている。散々アンタの平和論を聞かされたからな」
「世界会議のこと、覚えていたんですね」
照れくさそうに、ミハイルは苦笑した。
「進む道は違えど、平和を目指す同志をこの目で垣間見た。忘れるはずがなかろう」
眼前のアサシンは血の通った同じ人間だと心から感じ、ミハイルは安堵した。
それから表情に緊張が戻り、ラシードに処遇を伝える。軍人としての職務は全うしなければならない。
「……まずは私達の軍規通り、あなたは捕虜になっていただきます。いいですね?」
「逃げることも、死ぬことも毛頭考えていない。ただ一つだけ――」
「何でしょうか?」
「ファイサルを、弟だけでも弔いたい。祈りを捧げる時間をくれないか」
物心ついた頃から二人は一緒だった。
軍に入って上官と部下という関係になるまで、ずっとファイサルは兄に頼りきりの日々が続いていた。
悪い気はしなかった。いずれ自立して、頼らなくなる日が来る。
きっと寂しくなるだろうか、それとも誇れる弟だと自慢できるか。
そんな事を日頃考えていた。だがそんな日は訪れなくなったのだ。
いつしか一筋の涙が兄の頬を伝っていた。
声を上げて泣くことはしなかった。
弟が未練を残し、この寒い山にとどまってしまうから。




