第九話 鬼の目にも涙
祝言を挙げてからというもの、玄蔵と緋乃の新婚生活は案外と、いや驚くほど穏やかに回っていた。
これまで「禍つを狩り、いつ死んでもいい」と身を削るように生きてきた緋乃にとって、「家事」や「料理」といった営みは無縁のものだった。
だが、玄蔵のために包丁を握り、巾着を縫ううちに、自分でも意外な発見があった。
(……私、こういうの……苦じゃないどころか、むしろ好きなのかもしれないわ)
もちろん、今まで叩き込んできたのは体術ばかりで包丁さばきなど習ったこともない。
大根を切れば賽の目どころか歪な石ころのようになり、汁物はたまに味が濃すぎたり薄すぎたりする。
だが、玄蔵は「うめぇ! 緋乃が作った飯なら何でも最高だ!」とバカみたいにデカい口で完食してみせるのだ。
歪な大根を箸でつつきながら、緋乃はふっと胸の奥が温かくなるのを感じていた。
――そんな平穏な日々に、その「異変」は訪れた。
八雲の郊外で、数体の異禍を討伐していたときのことだ。
鮮やかに一匹の喉笛を拳で穿ち抜いた緋乃だったが、着地した瞬間に急激な眩暈と吐き気に襲われ、その場に膝をついた。
「くっ……!?」
「緋乃!?」
異禍のトドメを刺した玄蔵が、顔色を変えて駆け寄ってくる。
大鉈の血を払っていた鉄も、目を見開いて素早く周囲を警戒した。
「どうした緋乃! どこかやられたか!? 毒か!?」
「ち、違うわ……怪異の攻撃は受けていない……ただ、なんだか急に胸がムカムカして……」
顔は蒼白で、冷や汗が浮かんでいる。
あの『鬼緋乃』が戦場で動けなくなるなど、これまで一度だってなかったことだ。
「おい玄蔵、大事をとって八雲衆の療治所に連れていくぞ! 俺が獲物の素材を回収しておくから、お前は鬼緋乃様を背負っていけ!」
「お、おう! 緋乃、しっかりしろ! 俺がすぐ連れていってやるからな!」
* * *
八雲衆の診療を担当する療治師の庵。
寝台に横たわる緋乃の手首に脈診の指を当て、療治師はうーむと深く首をひねっていた。
「おい! 緋乃はどうなんだ!? 悪い病気か!? どうなんだよ!?」
玄蔵が庵の床を踏み抜かんばかりの勢いで詰め寄る。後ろで見守る鉄も、珍しく固い表情で腕を組んでいた。
「静かにせんかバカ者。……ふむ、脈はいたって健やか、……これはのう」
療治師はふっと破顔し、ひげを擦った。
「めでたいお触れじゃ。身ごもっておるよ」
「……へ?」
玄蔵の口から、間抜けな声が漏れた。
寝台の上の緋乃も、目を見開いたまま完全に固まっている。
「み……身ごもっている……? 誰が……?」
「誰がってお前さんの嫁御じゃろ! 懐妊じゃ、お腹に新しい命が宿っておる」
静寂。
庵の中に、針が落ちるほどの沈黙が流れた。
幼い頃の重病。二度と子は産めぬ体だと告げられ、絶望し、自分の生すら諦めていた緋乃。
子供などいなくてもいい、ただお前と一緒にいたいと、泥臭く抱きしめてくれた玄蔵。
その二人の中に――奇跡が、宿っていた。
「へ……? へ……? 子供……? 緋乃と俺の……ガキ……!?」
ようやく状況を理解した玄蔵の顔が、一瞬で真っ赤に染まる。
「う、うおおおあああぁぁぁぁッッ!!!!」
次の瞬間、玄蔵は狂喜乱舞した。 庵の天井に頭をぶつけんばかりに跳び上がり、ガッツポーズを連発し、鉄の肩を揺さぶり倒す。
「鉄!! 聞こえたか!? 俺と緋乃のガキだぞ!! 俺が父親だ!! 緋乃が母親だ!! うおおお! 俺は世界一の果報者だぁぁぁッ!!」
「おい落ち着けバカ玄蔵! 妊婦の前で暴れるな! ……ってかマジかよ、おいおい、本当におめでてぇじゃねぇか……!」
鉄も凄まじい衝撃を受けつつ、心の底からの笑みを溢れさせていた。
狂喜乱舞する玄蔵の横で、緋乃はぽつんと寝台の上に座っていた。
――私の中に、命が? 二度と叶わないと捨て去っていた、あの温かな光が?
溢れ出してきたのは、驚きと、信じられないほどの愛おしさ。そして、これまで抱えてきたすべての孤独が洗い流されていくような感情だった。
「緋乃……? おい、どこか痛いのか!?」
騒いでいた玄蔵が、緋乃の異変に気づいて慌てて駆け寄る。 緋乃の目から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちていた。溢れて、溢れて、止まらない。
「っ……う、ふえっ……く……っ」
あの恐ろしい『鬼緋乃』が。
誰よりも強く、誰よりも苛烈だったあの女が、声を忍ばせ、子供のようにポロポロと涙を流して泣いているのだ。
「緋乃……!」
「ううっ……玄蔵……私……私……っ! 子を……産めるのね……っ! あんたの子を……生んでいいのね……っ!」
「当たり前だろバカ野郎!!」
玄蔵は緋乃を壊れ物を扱うように優しく、けれど強く抱きしめた。
「俺とお前のガキだ! 絶対、世界一幸せなガキにしてやる! 俺が、俺たちが守ってみせる!!」
「う、うん……! うん……っ!」
玄蔵の胸に顔をうずめ、号泣する緋乃。 鬼の目にも涙。だがその涙は、これまでの人生で流したどの涙よりも温かく、優しいものだった。
庵の入口で、大鉈を肩にした鉄がフッと柔らかく目を細めた。
「……たく、騒々しい夫婦だぜ。……おめでとう、悪玄太、鬼緋乃」
中天州・八雲に吹き抜ける風が、新しい命の誕生を祝福するように、優しく二人を包み込んでいた。
「緋乃……!」
「ううっ……玄蔵……私……私……っ! 子を……産めるのね……っ! あんたの子を……生んでいいのね……っ!」
「当たり前だろバカ野郎!!」
玄蔵は緋乃を壊れ物を扱うように優しく、けれど強く抱きしめた。
「俺とお前のガキだ! 絶対、世界一幸せなガキにしてやる! 俺が、俺たちが守ってみせる!!」
「う、うん……! うん……っ!」
玄蔵の胸に顔をうずめ、号泣する緋乃。 鬼の目にも涙。だがその涙は、これまでの人生で流したどの涙よりも温かく、優しいものだった。
庵の入口で、大鉈を肩にした鉄がフッと柔らかく目を細めた。
「……たく、騒々しい夫婦だぜ。……おめでとう、悪玄太、鬼緋乃」
中天州・八雲に吹き抜ける風が、新しい命の誕生を祝福するように、優しく二人を包み込んでいた。




