第二話 異名 鬼緋乃
八雲の夜は、月光こそ冴え冴えと差すものの、どこか湿り気を帯びた薄暗い闇が路地裏に落ちている。
「おい緋乃、もう一杯いくか? ここの濁り酒、割と美味いぞ!」
「いらない。……それ以上飲むなら、後で背負って帰る羽目になる鉄の身にもなりなさい」
「けっ、誰が酒潰れの玄蔵なんか背負うかよ。路傍の溝にでもぶち込んで放置だ」
八雲衆が溜まり場にする居酒屋の喧噪の中、俺――玄蔵は碗を傾け、鉄は干し肉を齧り、緋乃は冷めたお茶を端正な唇につけていた。
この美貌、佇まい、そして圧倒的な体術のキレ。
いつ見ても『鬼緋乃』の異名は伊達じゃない。だが――。
(……相変わらず、自分の命を投げ捨てるような戦い方をしやがる)
八雲の夜は、月光こそ冴え冴えと差すものの、どこか湿り気を帯びた薄暗い闇が路地裏に落ちている。
「おい緋乃、もう一杯いくか? ここの濁り酒、割と美味いぞ!」
「いらない。……それ以上飲むなら、後で背負って帰る羽目になる鉄の身にもなりなさい」
「けっ、誰が酒潰れの玄蔵なんか背負うかよ。路傍の溝にでもぶち込んで放置だ」
八雲衆が溜まり場にする居酒屋の喧噪の中、俺――玄蔵は碗を傾け、鉄は干し肉を齧り、緋乃は冷めたお茶を端正な唇につけていた。
この美貌、佇まい、そして圧倒的な体術のキレ。
いつ見ても『鬼緋乃』の異名は伊達じゃない。だが――。
(……相変わらず、自分の命を投げ捨てるような戦い方をしやがる)
ふと、さっきの異禍との戦闘を思い出す。
異能の爪が迫る間一髪、普通なら身を引くか、刃で受ける場面だ。
だが緋乃は躊躇なく踏み込み、自らの皮膚が裂けるのも構わず肉迫して、怪異の喉笛を拳で穿ち抜いた。
強い。
無茶苦茶に強いが、そこには「生き残る」ための執着が薄い。
まるで、どこかで自分の命に見切りをつけているかのような冷ややかさがある。
――緋乃には、誰にも明かしていない秘密があった。
幼少期に冒された重い熱病。
命こそ取り留めたものの、その代償として、彼女の体は二度と「子を産めない」ものとなっていた。
この時代、女の生き方や価値が家柄と子子孫孫への血の連なりに強く縛られる世の中だ。
『子を成せぬ女に、いったい何の意味があるというのか』
親類どもの冷淡な視線、聞こえよがしの陰口。
いつしか緋乃の心は凍てつき、
「どうせ自分の一代で終わる生ならば、禍つの爪に倒れようと知ったことか」
と、自暴自棄に近い覚悟で祓い屋の道を選んだのだ。
痛みを恐れず、死をいとわず、ただ敵を粉砕する凄絶な戦いぶり。
それが皮肉にも彼女を『鬼緋乃』という恐れと畏怖の対象へと押し上げていた。
「……何よ、人の顔をじろじろ見て」
視線に気づいた緋乃が、切れ長の瞳で射るように睨みつけてくる。
「いや? やっぱり俺の嫁にするなら、お前以外あり得ねぇなって思ってたところだ」
「死ね」
間髪入れずに飛んでくる毒舌。だが、緋乃の胸の内は少しだけ複雑だった。
(……この男は、本当に底が知れない)
面と向かって「殺すぞ」と言われてもヘラヘラ笑い、まっすぐに好きだの正妻だのと抜かしてくる玄蔵。
鬱陶しい。本当に、頭が痛くなるほど鬱陶しい。
だが――強い。それも、ただの強さではない。
誰も使っていない「反り」のある妙な湾刀。
直刀が常識の世の中で、異端と蔑まれてもおかしくないその刃を自在に操り、どんな絶望的な状況でも「絶対に生き残って勝つ」という狂気的なまでの生への執着を見せる。
自分のように死を恐れない強さではなく、未来(城を建て、天下を取るというバカげた野望)を見据えた圧倒的な強さ。
祓い屋として、その腕前と生存能力だけは、緋乃も内心認めざるを得なかった。
「おい悪玄太。あんまり鬼緋乃様を口説いてると、今夜あたり夜道で背後から首を折られるぞ」
「ははは! 緋乃の愛の絞め技なら望むところだね!」
「……本当に、脳まで筋肉でできているのね。次は本気で首骨を抜いてあげるわ」
緋乃は小さく息を吐き、冷めた茶を飲み干した。
(私に『最高の女』なんて価値はないのよ、バカ玄蔵……)
自分の体に刻まれた冷たい現実を思い出し、胸の奥で寂しげな冷風が吹き抜ける。
誰かの正妻になることも、血を遺すこともできない自分。そんな自分に「最高の女」などと誇らしげに言い放つこの図太い男は、何も知らないからこそ無神経に口説いてくるのだ。
――そう、思っていた。
「……おい、緋乃」
酔っ払いのふりをして碗を転がしていた玄蔵が、ふと、いつになく低い声で呟いた。 いつもの軽い笑みが消え、鋭い眼光が緋乃の顔をまっすぐに見据えている。
「お前がどれだけ自分の命を安く見積もってようが、俺の知ったこっちゃねぇ」
「……え?」
「俺が欲しいのは『鬼緋乃』の強さであり、お前っていう女だ。天下を取る俺の隣に立つなら、途中で死ぬようなタフさじゃ困るんだよ。命、大事にしろよ」
一瞬、心臓が跳ねた。 まるで、自分の心の奥底にある死生観を見透かされたかのような言葉。
「……何を出鱈目を。私はいつだって全力で禍つを狩っているだけよ」
「ならいいさ。言っとくがな、俺が建てた城の天守閣には、お前を連れていくって決めてるからな!」
次の瞬間には、いつものアホみたいなドヤ顔に戻っている。
「……ハッ、相変わらずおめでたい頭ね。城が建つ前に、私がアンタをあの世に送ってあげるわ」
緋乃はフンと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。 胸の奥に、ほんの少しだけ温かい灯火が点ったような気がしたが――もちろん、それを口にするつもりは毛頭なかった。




