第十七話 挨拶したから怒ってない
「蒼ちゃん、見てごらん! あれが今日から僕たちの住むお山だよー!」
「あぅー!(バシバシ)」
抱っこ紐から身を乗り出した蒼太が、テンション高めに玄蔵の鼻柱を素手で叩く。
激痛で涙目になりながらも、「あはは! 元気があって至高だなぁ蒼ちゃんは!」とデレデレの父親である。
八雲の街を旅立ってから数日。
夫婦で代わる代わる蒼太を抱っこしながら進む道中、当然のように『禍つ』どもが襲いかかってきたが――結果は察して知るべし。
野禍が出れば玄蔵が「蒼ちゃんの寝かしつけの邪魔だ!」と湾刀を一振りで一刀両断。
異禍が躍り出れば、緋乃が「我が子の前で汚い顔を見せないで」と片手抱っこのまま絶技のローキックで首を飛ばす。
怪異の巣窟と言われた街道は、玄蔵一家にとってはただの『家族旅行の散歩道』でしかなかった。
「ふう、そろそろ開拓地の集落が見えてくる頃ね。良い物件があるといいのだけれど」
「おう! 道場を構えて、蒼ちゃんがいくら暴れても大丈夫な特大の庭つき居宅を探すぞ!」
意気揚々と荒涼とした山道を突き進む二人。 その時――ふと、玄蔵の視界の端に『誰か』が映り込んだ。
街道の脇、枯れ木が立ち並ぶ木立の中に、一人の女性が佇んでいた。
(……ん?)
玄蔵は思わず足を止めた。 透き通るような肌、神秘的な佇まい。
いや、透明感どころか、光の加減によっては『向こう側の景色が透けて見えているのではないか』と錯覚するほど、この世の者離れした存在感を放っている。
だというのに、そこに“確実にいる”という圧倒的な圧が、その空気を支配していた。
普通なら警戒し、湾刀に手をかける場面だ。
だが、玄蔵の口から出たのは、あまりにも突飛で、それでいてあまりにも自然な言葉だった。
「あ、澪さんこんにちはー」
まるで、近所の八百屋の女将さんにでも声をかけるような気軽さで、玄蔵は手を振った。
女性――澪と呼ばれた存在は、静かにこちらへ視線を向けた。
その瞳は底知れぬ深く冷たい色をしていたが、玄蔵の脳天気な挨拶を聞くと、ほんのわずかに首を傾げ、佇まいを崩さずに一言だけ返した。
「……うむ、こんにちは」
それだけ言い残すと、澪はスーッと霞が消えるように、木立の奥へと去っていった。
「……ねぇ、玄蔵」
隣で蒼太を抱き直した緋乃が、どこか引きつったような、妙な顔をして問いかけてきた。
「あなた、今の女性……『澪さん』って言ったわね? 私も『あ、澪さんだ』って思ったの……」
「え? そうなのか?」
「……なんで名前が分かったのかしら……」
玄蔵自身も首をかしげている。 自分でもなぜ「澪」という名が口から突いて出たのかさっぱり分からない。
だが、夫婦の頭の中に共通して残ったのは――『あの人に敵対したら、間違いなくヤバい』という、理屈を超えた本能的な直感だった。
「まあ……でも、敵意はなさそうだったし、ちゃんと挨拶したから怒ってないでしょ!」
「そうね。挨拶は基本だものね。……まあ、気になるし、集落に着いたら後で住民の人に『澪さん』のこと、聞いてみましょうか」
「おう、そうしよう!」
そんな会話を交わしながら、二人は目的地の開拓集落へと足を踏み入れた。
* * *
「おーい! 新しく開拓地に入植したいんだが、村長はどこだー!?」
集落の中央で、巨大な荷物を背負った玄蔵が大声をあげる。
疲れ果てた表情の開拓民たちが「ひっ……また妙な奴らが来た」とおそるおそる集まってくる中、夫婦はさっそく入植の手続きや家探しに追われ始めた。
「よし! 家も決まったし、荷物も運んだぞ!」
「ええ、蒼ちゃんもお腹が空いたみたいだし、そろそろお夕飯にしましょうか」
「あうー!(お腹すいたのポーズ)」
賑やかに引っ越し作業を終え、囲炉裏の火を囲む玄蔵一家。
――だが。
道中で交わした『後で住民に澪さんの事を聞いてみよう』という約束は、二人の記憶から綺麗サッパリ消え去っていた。
「澪」という名の透明すぎる美女の存在も、彼女と交わした挨拶も、まるで最初からなかったことのように、二人の頭の中から自然に滑り落ちていたのだ。
それが怪異の仕業なのか、それともこの地に秘められた理なのか――知る由もないまま、玄蔵たちの開拓地での新生活が、静かにスタートしようとしていた。




