第十一話 名前は蒼太
緋乃のお腹が月満ちるにつれて大きくなっていくにつれ、八雲の街にはひとつの『大異変』が起きていた。
「おいおい……見ろよ、あの鬼緋乃様を……」
「マジかよ、あれ本当にあの『鬼緋乃』か……!?」
八雲の小道を、買い出しの籠を抱えてゆっくりと歩く緋乃。
かつての殺気に満ちた鋭い眼光は影を潜め、その表情は陽だまりのように柔らかい。
すれ違う近所のおばあさんに「寒くなってきたから体を大事にしなさいね」と声をかけられれば、「ありがとうございます。おばあ様もお風邪を召されませんように」と、鈴を転がすような優しい声で微笑み返すのだ。
言葉遣い、立ち振る舞い、そして纏う雰囲気のすべてが、劇的な勢いで「女性らしく」……いや、「母」としての温かさに満ち溢れていた。
(……私自身、自分がこんな風に変わるなんて思いもしなかったわ)
身ごもった小さな命が、お腹の内側から可愛らしく蹴ってくるたび、胸の奥から愛おしさが泉のように湧き出てくる。 「鬱陶しい、殺すぞ」が口癖だった鋭い爪は、今や赤子のための小さな産着を丁寧に縫い上げるために使われていた。
「おい緋乃! 重いもの持つな言っただろ! 俺が持つ!」
「ふふ、大丈夫よ玄蔵。これくらいのお野菜なら重くもないわ。……いつも気遣ってくれて、ありがとうね」
駆け寄ってきた玄蔵に、緋乃は首を少し傾けてふわりと微笑んだ。
「っ……!!」
あまりの可憐さに、玄蔵は胸を射抜かれてその場に卒倒しそうになった。
(か、可愛すぎる……!! なんだこの破壊力は!? 元々天下最高の美女だったが、今の緋乃はもはや神々しいレベルだぞ……!!)
「……おい悪玄太、鼻の下伸びすぎて地べたに擦れてんぞ」
後ろから荷物持ちとしてついてきていた鉄が、呆れ顔で突っ込みを入れる。
だが、その鉄の表情もまた、穏やかな変化を遂げた緋乃を見てどこか誇らしげだった。
* * *
そして――運命の夜が訪れた。
八雲の街が静まり返る丑の刻。玄蔵たちの家から、破天荒な祓い屋の家には似つかわしくない、しとやかで、けれど壮絶な産声があがった。
『おぎゃあぁぁっ! おぎゃあぁぁっ!』
「生み落とされたぞ! 元気な男の子じゃ!!」
老療治師の声が響いた瞬間、部屋の外で生きた心地のしなかった玄蔵は、ドアを蹴破らんばかりの勢いで飛び込んだ。
「緋乃っ! 緋乃ぉぉっ!!」
「……玄蔵……見て……」
汗に濡れた前髪を額に貼りつかせ、疲れ切りながらも、この世の何よりも美しい笑みを浮かべた緋乃。
その腕の中には、真っ赤な顔をして元気いっぱいに泣き声をあげる、小さな小さな命が抱かれていた。
「う……うわああぁぁぁっ……!!」
玄蔵の目から、ボロボロと大粒の涙が溢れだした。
天下を取るとか、城を建てるとか、そんな野望が吹き飛ぶほどの、圧倒的な生命の尊さ。
「あ、会いたかったぞ……っ! 俺と緋乃の……俺たちのガキ……っ!」
「ふふ……本当に、元気な子……。玄蔵、この子の名前……決めてくれたかしら?」
緋乃が優しく問いかける。 玄蔵は泣きじゃくりながら、赤ん坊の小さな手を取り、そっと己の指を握らせた。
「……『蒼太』だ」
「蒼太……?」
「ああ! この八雲の空みたいに、どこまでも澄み渡った『蒼』。
そして、どんな試練も跳ね返す太く強い『太』だ! 俺たち『悪鬼一門』の血を引く、最高にカッコいい男になってほしいからな!」
玄蔵の言葉に、抱かれた赤ん坊――蒼太が、まるで言葉が分かったかのように『あうぅ』と小さく声をあげ、愛くるしく微笑んだ。
「……蒼太。ふふ、良い名前ね。今日からあなたが、私たちの『蒼太』よ……」
緋乃は愛おしさに胸を締め付けられながら、蒼太の額にそっと唇を寄せた。
(……蒼ちゃん……尊い……! 尊すぎるわ……っ!!)
心の中で絶叫する緋乃。かつて「鬼」と恐れられた体術使いの面影は微塵もなく、そこには我が子の可愛さに語彙力を失いかける、一人の親バカな母親の姿があった。
「おいおい、入ってもいいか……?」
おそるおそる部屋を覗き込んだのは、大鉈を担いだ鉄だった。
普段の厳つい顔をこれでもかと崩し、デレデレの目元で赤ん坊を見つめている。
「……へっ、良い面構えだ。親父似の図太いツラしてるぜ」
「誰が図太いだ! ……でも、可愛いだろ鉄!? 俺の息子だぞ!」
「ああ、最高のガキだ。……おめでとう、玄蔵、緋乃」
部屋の窓から、常春の八雲の空へ向けて朝日が昇り始める。
あたたかな光が、小さな蒼太と、それを囲む世界で一番幸せな家族を優しく照らしていた。




