学芸員と恩師
「……暑いな」
午後一時。
窓の外は、今日もよく晴れていた。
公園では蝉が鳴いている。
夏休みということもあって、午前中は子供の姿がちらほら見えた。
ただ、博物館まで入ってくる子は少ない。
高宮は受付から離れ、展示室の整理をしていた。
そのとき、
「こんにちは」
入口から声がした。
「はい、いらっしゃいませ」
何気なく振り返る。
杖をついた老人が一人、入ってきた。
白髪。
少し丸くなった背中。
薄い色のシャツ。
特別珍しい来館者ではない。
近所の人だろう。
そう思って、また仕事に戻ろうとした。
「……」
けれど、何か引っかかった。
見覚えがある。
どこで見たのか分からない。
老人は受付で入館手続きを済ませると、ゆっくり展示室へ向かってきた。
そして、高宮の前で足を止めた。
「……君」
「はい?」
「もしかして……」
老人は目を細めた。
「高宮君か?」
高宮は固まった。
「……え?」
「やっぱりそうか」
その声を聞いて、ようやく思い出した。
「先生……?」
「そうだよ」
小学校の頃の担任だった。
何十年ぶりだろう。
最後に会ったのは、小学校の卒業式だった。
当時は、ずいぶん大きく見えた。
声も大きかった。
黒板の前に立つだけで、教室が静かになった。
宿題を忘れれば怒られたし、
悪さをすれば叱られた。
それでも、怖い先生というわけではなかった。
休み時間には子供たちと一緒に校庭で遊んでいた。
運動会では誰よりも大声を出していた。
そんな先生だった。
今、目の前にいる人は、
記憶の中にいる姿よりずっと小さく見えた。
「大きくなったなあ」
先生が言った。
「……もう大人ですよ」
「そうだな」
先生は笑った。
「いやあ……分からなかったよ」
「俺も最初、分かりませんでした」
「そうか」
先生は少し笑う。
「まあ、仕方ないな。何十年も経っている」
「先生も……」
高宮はそこで言葉を止めた。
「老けたでしょう」
先生が笑った。
「言っていいよ」
「いや……」
「子供の頃は、私がずいぶん年寄りに見えたんだろうな」
「まあ……」
「今はどうだ?」
高宮は少し考えた。
「思ったより普通です」
「なんだ、それは」
二人で笑った。
「ここで働いているのか?」
「はい」
「学芸員?」
「そうです」
先生は館内を見回した。
「そうか……」
少しだけ感慨深そうな顔をする。
「高宮君がなあ」
「何か変ですか?」
「いや」
先生は首を振った。
「なんとなく嬉しいよ」
その言葉が、少し意外だった。
「小学生の頃は、こんな仕事をするなんて思わなかったでしょう?」
「そりゃそうだ」
「何になりたかった?」
「覚えてないです」
「そうだろうな」
先生は笑った。
「小学生の夢なんて、そんなものだ」
先生は展示室をゆっくり歩いた。
昔の町の写真。
古い学校用品。
農具。
生活道具。
一つ一つ、時間をかけて見ている。
「この辺も、ずいぶん変わったな」
「先生、この辺に住んでるんですか?」
「昔からこの近くだよ」
「そうだったんですね」
「君たちが通っていた小学校も、まだある」
「へえ」
「校舎は建て替わったけどね」
「そうですか」
先生は古い学校の写真の前で立ち止まった。
そこには、昔の小学校が写っていた。
木造の校舎。
小さな校庭。
その前に並ぶ子供たち。
「……懐かしいな」
先生が呟く。
高宮も写真を見る。
自分が生まれるより前の写真だった。
「こういう写真を見ると、不思議な気持ちになるよ」
先生が言う。
「何がです?」
「私はこの学校で、何十年も子供たちを見てきた」
「はい」
「毎年、子供が入ってきて、卒業していく」
「……」
「当時は、一人一人のことを覚えているつもりだった」
先生は少し笑った。
「でも、今になると、思い出せない子もいる」
高宮は黙っていた。
「教師というのは、変な仕事だよ」
「変な仕事?」
「ああ」
先生は写真を見る。
「子供たちにとっては、人生のほんの数年間しか関わらない」
「……」
「でも教師にとっては、その数年間が何十年も積み重なっていく」
「なるほど」
「だから、私にとっては何百人もの教え子でも、君たちにとっては一人の先生なんだろうな」
その言葉が妙に印象に残った。
「先生」
「ん?」
「俺のこと、覚えてました?」
先生は少し考えた。
「もちろん」
「本当に?」
「顔を見てすぐには分からなかったがね」
「それじゃ覚えてないじゃないですか」
「いやいや」
先生は笑う。
「名前を聞いて思い出した」
「何を?」
「君は、授業中によく窓の外を見ていた」
「……」
「あと、作文を書くのが妙に早かった」
「それは覚えてないです」
「私は覚えているよ」
「そうですか」
「教師だからね」
先生はそう言って、少し得意そうに笑った。
午後三時。
先生が帰る時間になった。
「今日はありがとう」
「いえ」
「まさか、ここで会うとは思わなかった」
「俺もです」
「また来てもいいか?」
「もちろん」
「じゃあ、今度はゆっくり見に来よう」
「いつでもどうぞ」
先生は入口まで歩いていく。
そして、外に出る前に振り返った。
「高宮君」
「はい?」
「元気でな」
「先生も」
「うん」
それだけ言って、先生は外へ出ていった。
杖をつきながら、ゆっくり公園の中を歩いていく。
高宮はしばらくその姿を見ていた。
昔は、
先生が先に歩いていた。
自分たちは、その後ろをついていった。
今は違う。
先生の背中を見送る側になった。
いつの間にか、
立場が逆になっている。
そう考えると、少しだけ不思議だった。
高宮は展示室に戻る。
古い学校の写真が目に入る。
そこには、まだ若い頃の先生が写っていた。
子供たちに囲まれて笑っている。
今とは全然違う顔だ。
でも、確かに同じ人だった。
高宮は写真の前に立つ。
自分の記憶の中にいる先生。
写真の中にいる先生。
今日会った先生。
三人とも同じ人なのに、
少しずつ違って見える。
時間というものは、
人間を変えていく。
それでも、
昔の誰かに会えば、
一瞬だけその頃の自分に戻れる。
高宮はそんなことを考えながら、
静かな展示室を歩いていった。
午後四時。
窓の外では、
相変わらず蝉が鳴いていた。




