表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/40

学芸員と哲学

「君は、博物館というものをどう思うかい?」


昼過ぎ。


誰もいない展示室で、彼女――神田は唐突にそう言った。


「……急だな」


高宮は資料から顔を上げた。


「そうかい?」


「普通、友人に会って最初にする質問じゃないだろ」


「では、聞き直そう。元気かい?」


「今さらだな」


「なら、問題ない」


神田は満足そうに頷いた。


昔からこういう人だった。


知識が豊富で、話題が妙に難しい。


そして、本人にその自覚があまりない。


大学時代からの付き合いだが、今でもたまにこうして博物館へ遊びに来る。


正確には、遊びに来ているのか、話をしに来ているのか分からない。


「それで?」


「何が?」


「博物館をどう思うか、だよ」


「職場」


「つまらない回答だね」


「じゃあ、そっちは?」


神田は少し考えた。


「記憶の墓場……いや、違うな」


「物騒だな」


「では、記憶の避難所」


「急に優しくなった」


「そういうものだろう?」


そう言って、神田は展示ケースを覗き込んだ。


---


「博物館というのは不思議だと思わないかい?」


「何が?」


「ここにあるものは、ほとんどが過去のものだ」


「まあ、そうだな」


「つまり、生きている人間が、死んだ時代を保存している」


「なるほど」


「しかし、保存した瞬間から、それは『現在』ではなくなる」


神田は古い農具を見る。


「例えば、この鍬だ」


「うん」


「これを使っていた人間にとっては、ただの道具だったはずだ」


「そうだろうね」


「毎日使って、壊れたら修理して、使えなくなれば捨てる。それだけのものだった」


「でも今は展示物」


「そう」


神田は頷いた。


「今ではガラスケースの中に入れられ、説明文まで付けられている。『昭和期の農具』などとね」


「価値が変わったわけだ」


「そう。だが、面白いのはここからだ」


神田は少し笑った。


「物そのものは、何も変わっていない」


「……」


「変わったのは、それを見る人間のほうなのだよ」


高宮は展示ケースを見る。


確かにそうだった。


同じ鍬でも、


農家にとっては道具。


子供にとっては珍しいもの。


研究者にとっては資料。


博物館にとっては文化財。


見る人間によって意味が変わる。


「つまり、価値というのは物に付属しているものではなく、見る側が与えている……ということか」


「そういうことだね」


神田は嬉しそうに笑った。


「君は話が早くて助かるよ」


「面倒くさい友達だな」


「よく言われる」


---


二人は展示室の奥へ歩いていく。


古い写真が並んでいる。


昔の町。


昔の学校。


昔の商店。


そこには、今では存在しない風景がいくつも残されている。


神田は一枚の写真の前で足を止めた。


「ところで、高宮」


「ん?」


「この写真に写っている人々は、自分たちが歴史になると思っていたと思うかい?」


「思ってないだろうな」


「だろうね」


「普通に生活していただけだろう」


「そう」


神田は写真を見る。


「我々も同じだ」


「……」


「今を生きている人間は、自分が歴史の一部だなんて考えない」


「まあな」


「けれど、百年後の誰かから見れば、我々の生活もまた『昔の暮らし』になる」


「そう考えると変な感じだな」


「そうだろう?」


神田は笑った。


「今この瞬間でさえ、未来から見れば過去なのだよ」


「哲学だな」


「哲学は好きかい?」


「嫌いじゃない」


「なら良かった」


---


しばらく二人で写真を眺めた。


「でもさ」


高宮が言った。


「全部残すことなんてできないだろ」


「当然だ」


「じゃあ、何を残すかって誰かが決めるわけだ」


「そう」


「その時点で、博物館にあるものは『歴史そのもの』じゃなくて、『誰かが残す価値があると判断した歴史』になる」


神田が振り返った。


「……それは、かなり重要な話だね」


「そう?」


「うん」


少しだけ真面目な顔になる。


「歴史は過去そのものではない。過去について、現在の人間が語る物語だ」


「それも、どこかで聞いたような話だけど」


「いいんだよ。真理というものは、大抵どこかで誰かが言っている」


「身も蓋もないな」


「そういうものさ」


二人とも笑った。


---


「じゃあさ」


高宮が言った。


「博物館に残らなかったものは、歴史じゃないのかな」


神田は黙った。


「例えば、昔の人が家で食べた晩飯とか」


「歴史だよ」


「誰も記録してなかったら?」


「それでも歴史だ」


「でも、誰にも知られない」


「……そうだね」


「じゃあ、歴史って何なんだろうな」


神田はしばらく考えていた。


やがて、展示ケースの中の古い茶碗を見る。


「歴史とは、記録された過去ではなく……」


少し間を置いて、


「誰かが忘れなかった過去なのかもしれないね」


「……」


「だからこそ、博物館には意味があるのだと思う」


神田は静かに続ける。


「完全に残すことはできない。でも、少しでも残そうとすることには意味がある」


高宮は何も言わなかった。


ただ、古い写真を見ていた。


名前も知らない人たち。


もう存在しない店。


今では誰も覚えていない町並み。


それでも、ここには残っている。


---


午後三時。


神田が帰る時間になった。


「今日は面白かったよ」


「展示を見に来たんじゃなかったのか?」


「展示も見たさ」


「半分くらい喋ってたけど」


「それも博物館の楽しみ方だろう?」


「そういうことにしておく」


神田は入口で振り返った。


「また来るよ」


「うん」


「次は、もう少し簡単な話をしよう」


「無理だろ」


「……そうかもしれない」


神田は笑った。


自動ドアが開く。


外はまだ暑い。


神田は日傘を開いて、公園の中へ歩いていった。


高宮はその背中を見送った。


---


誰もいなくなった展示室。


静かな館内。


古い写真。


古い道具。


名前のない誰かの人生。


高宮は一枚の写真の前に立った。


写真の中では、何十年も前の人たちが笑っている。


きっと彼らも、


自分たちが歴史になるなんて思っていなかった。


今日を生きて、


明日を迎えて、


またその次の日を生きる。


それだけだった。


「……俺たちも同じか」


呟いてみる。


返事はない。


ただ、空調の音だけが聞こえる。


午後四時。


高宮は資料の整理に戻った。


今日も特別なことはない。


それでも、


いつかこの日も、


誰かにとっては「昔の一日」になる。


そう考えると、


何でもない一日が、


ほんの少しだけ大切なものに思えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ