学芸員と雨
「雨の日は、来館者が少ない」
これは、この博物館で働くようになってから分かったことの一つだった。
晴れの日なら、公園を歩いている途中で立ち寄る人もいる。
子供が遊びに来ることもある。
散歩のついでに展示を見ていく老人もいる。
けれど、雨の日は違う。
わざわざ濡れてまで博物館へ来る人は少ない。
特に今日のような日は。
朝からずっと、大雨だった。
窓ガラスに雨粒が叩きつけられている。
公園の木々は風に揺れ、遊歩道には誰もいない。
いつもなら聞こえてくる蝉の声もない。
聞こえるのは、
ザーッ……
という雨の音だけ。
「……暇だな」
開館から二時間。
来館者はゼロ。
高宮は資料整理をしながら、何度目か分からないため息をついた。
受付のおばちゃんも、今日は新聞を読む速度が妙に早い。
「今日は誰も来ないでしょうね」
「でしょうね」
「こういう日は閉めてもいいのに」
「それは怒られますよ」
「ですよねえ」
二人で窓の外を見る。
雨はさらに強くなっていた。
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午前十一時。
自動ドアが開いた。
高宮は少し驚いた。
傘を持った人影が一つ。
若い女性だった。
肩までの髪が雨で濡れている。
傘を閉じ、入口で少し立ち止まっている。
「いらっしゃいませ」
受付の声。
女性は軽く頭を下げた。
「……すみません」
「はい?」
「雨が止むまで、ここにいてもいいですか?」
「もちろん」
女性は少し安心したような顔をした。
「ありがとうございます」
入館料を払おうとする。
「無料ですよ」
「え?」
「市の博物館なので」
「あ、そうなんですね」
女性は少し驚いた。
そして、展示室へ入っていった。
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彼女は展示を見ている。
……というより、
雨が止むのを待っている。
最初の展示を眺める。
次へ移動する。
また次。
けれど、説明文を熱心に読むわけではない。
ただ、ゆっくり歩いている。
高宮は資料整理を続けながら、時々その様子を見ていた。
三十分。
まだ雨は止まない。
一時間。
まだ止まない。
女性は展示室の奥にあるベンチに座った。
そこで初めて、少しだけ息を吐いた。
「……」
館内は静かだった。
雨音だけが響いている。
高宮は何となく声をかけた。
「雨、すごいですね」
女性が顔を上げる。
「はい」
「しばらく止まなそうですね」
「ですよね」
「傘、大丈夫ですか?」
「一応、あります」
「ならよかった」
「ありがとうございます」
それだけ。
また静かになる。
会話は続かなかった。
でも、不思議と気まずくなかった。
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午後一時。
雨はまだ降っている。
女性は、今度は古い写真の展示を見ていた。
「この写真……」
突然、声がした。
「はい?」
「ここ、今もありますか?」
女性が写真を指差している。
昔の町並みだった。
「ありますよ」
「本当ですか?」
「この辺ですね。今は道路になっていますけど」
「へえ……」
女性は写真をじっと見る。
「なんか、いいですね」
「そうですか?」
「こういうの好きです」
「昔の町が?」
「はい」
少しだけ笑った。
「今より、ゆっくりしてそうで」
高宮は写真を見る。
確かにそう見える。
けれど、当時を生きていた人たちにとっては、きっと今と同じだったのだろう。
仕事があって。
学校があって。
嫌なことがあって。
楽しいことがあって。
毎日を忙しく過ごしていた。
写真に写る人たちだって、
「昔は良かった」
なんて思いながら生きていたわけではない。
ただ、その瞬間を生きていただけだ。
「……でも」
女性が言った。
「写真で見ると、ちょっと羨ましいです」
「分かります」
高宮もそう答えた。
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午後二時半。
ようやく雨が弱くなった。
女性は入口へ向かった。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
「雨宿りだけのつもりだったんですけど」
女性は少し笑った。
「結構、面白かったです」
「それならよかったです」
靴を履く。
傘を開く。
そして、ドアの前で振り返った。
「ここ、いいですね」
「ありがとうございます」
「静かで」
「今日は特に静かですね」
「また来ます」
「お待ちしてます」
女性は外へ出ていった。
雨はまだ降っている。
でも、さっきよりずっと弱い。
彼女は傘を差して、公園の中を歩いていく。
やがて木々の向こうに消えた。
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午後四時。
雨は完全に止んだ。
久しぶりに蝉の声が聞こえる。
公園には水たまりがいくつも残っている。
夕方の光が、その水たまりに反射している。
今日は結局、来館者は一人だけだった。
しかも、博物館を目的に来たわけではない。
ただ雨宿りをしに来ただけ。
それでも、
一人の人間がこの場所で一時間以上過ごした。
展示を見て、
昔の写真を眺めて、
少し話をして、
雨が止むのを待った。
それだけ。
高宮は窓の外を見る。
雨上がりの公園は、いつもより少しだけ明るく見えた。
「……雨の日も、悪くないな」
そう呟く。
誰もいない展示室に、その声が小さく響く。
そして、
また静かになった。
午後五時。
閉館。
今日も一日が終わる。
雨の日の博物館は、
晴れの日より少しだけ静かで、
少しだけ寂しくて、
でも、
少しだけ人に優しい。
そんな気がした。




