学芸員と夏休み
「知っているだろうか」
夏の博物館は、外より涼しい。
……当たり前のように聞こえるが、博物館の環境は快適だ。
展示物を守るため、館内は一定の温度と湿度に保たれている。
だから、炎天下の公園を歩いてきた人間にとって、
冷房の効いた展示室は、ちょっとした避難所になる。
もっとも。
それを目的に博物館へ来る人間は、あまりいない。
少なくとも、この博物館では。
午前十一時。
外は三十五度を超えている。
公園の木々からは蝉の声が絶え間なく聞こえてくる。
その一方で、館内は静かだった。
展示ケースのガラスに、薄暗い照明が反射している。
受付に一人。
展示室に一人。
来館者は、まだゼロ。
高宮は窓の外を眺めた。
公園の遊歩道を、親子連れが歩いている。
子供が母親の手を引っ張っている。
その先には、この博物館がある。
「……暑そうだな」
そう呟いた。
そして、ふと思い出した。
自分も昔、あの道を歩いたことがある。
---
小学生の頃。
夏休み。
昼間から友達と遊んでいると、暑くてどうしようもなくなる。
公園の遊具も熱い。
蝉はうるさい。
自動販売機のジュースはすぐなくなる。
家に帰れば、
「宿題やったの?」
と母親に言われる。
だから、たまに博物館へ逃げ込んだ。
別に歴史が好きだったわけじゃない。
恐竜が好きだったわけでもない。
ただ、
涼しかった。
それだけだった。
入口を入る。
外の熱気が嘘みたいに消える。
薄暗い館内。
少し古い匂い。
足音が妙に響く廊下。
受付のおばさんに、
「こんにちは」
と言われる。
こちらも小さな声で、
「こんにちは」
と返す。
それから、展示室を適当に歩く。
恐竜を見る。
昔の町の写真を見る。
よく分からない石を見る。
古い農具を見る。
そして、一番奥にあるベンチに座る。
友達と小声で話す。
「まだ帰りたくないな」
「うん」
そんなことを言いながら、しばらく過ごす。
午後になると、外の蝉の声が少し遠く聞こえる。
冷房の音だけがする。
あの時間が、妙に好きだった。
---
「……」
高宮は展示室を見回した。
今も、ほとんど変わっていない。
壁。
照明。
展示ケース。
そして、あの頃に座ったベンチ。
さすがに表面は少し傷んでいる。
けれど、まだ残っている。
高宮はベンチの前まで歩いた。
手で軽く触れる。
冷たい。
当たり前のことなのに、
少しだけ懐かしかった。
「高宮さん」
受付から声がする。
「はい?」
「子供来てますよ」
見ると、入口に小学生が二人立っていた。
汗だくである。
帽子を被っている。
二人とも、見るからに外で遊んできた顔をしていた。
「こんにちは」
「こんにちは……」
「暑かった?」
「暑い」
「じゃあ、ゆっくりしていって」
二人は頷いて、展示室へ入っていった。
最初に恐竜を見る。
「でけー」
「これ本物?」
「前にも見たじゃん」
「でもでけー」
その会話を聞いて、高宮は少し笑った。
昔の自分たちと同じだ。
何年経っても、子供はあまり変わらない。
---
昼を過ぎると、子供たちはベンチに座った。
持ってきた水筒を飲んでいる。
「お兄さん」
「ん?」
「ここって、何時までいられる?」
「五時まで」
「じゃあ、まだいれる」
「何するの?」
「分かんない」
「……そう」
高宮は笑った。
「じゃあ、好きに見ていっていいよ」
「うん」
二人はまた展示室を歩いていった。
しばらくすると、片方が古い町の写真の前で立ち止まった。
「ここ、今と違う」
「昔の写真だからね」
「なんでこんなに車ないの?」
「昔は今より車が少なかったから」
「へえ」
「この辺も、昔は田んぼだったんだよ」
「うそ」
「本当」
「じゃあ、俺の家も田んぼだった?」
「それは知らないな」
子供が笑う。
そのまま二人は次の展示へ向かった。
---
午後三時。
外の暑さは、まだ衰えていない。
蝉が鳴いている。
館内は静かだ。
高宮は資料整理をしながら、窓の外を見た。
子供の頃。
ここに来ていたときは、
この博物館で働くことになるなんて考えもしなかった。
そもそも、学芸員という仕事すら知らなかった。
ただ涼しくて。
静かで。
誰にも怒られなくて。
何となく落ち着く。
それだけだった。
でも、何十年も経った今、
自分はその場所にいる。
子供の頃に座っていたベンチを眺めながら、
同じように暑さから逃げてきた子供たちを見ている。
少し不思議な気分だった。
---
午後四時半。
二人の小学生が帰る時間になった。
「ありがとうございました」
「また暑かったら来ればいいよ」
「うん」
「次は友達連れてくる」
「何人でもどうぞ」
「じゃあね」
「気をつけて」
二人は外へ出ていく。
自動ドアが閉まる。
一瞬だけ、外の蝉の声が大きく聞こえた。
そして、また静かになる。
高宮はベンチを見る。
そこには誰もいない。
昔、自分が座っていた場所。
今は、別の子供たちが座っている。
同じ場所で。
同じ夏に。
同じように、暑さから逃げて。
高宮は少しだけ笑った。
「……こういうのも、悪くないな」
午後五時。
閉館。
外へ出る。
一歩踏み出した瞬間、熱気が身体にまとわりつく。
蝉の声。
照りつける太陽。
アスファルトから立ち上る熱。
「暑……」
思わず呟く。
けれど、その暑ささえ少し懐かしかった。
子供の頃は、この炎天下を走り回った。
そして疲れたら、博物館へ逃げ込んだ。
あの頃は知らなかった。
あの場所が、
何十年後の自分の職場になるなんて。
高宮は振り返る。
夕日に照らされた古い博物館。
薄暗い窓。
少し古びた建物。
今日も何も起こらなかった。
ただ、子供たちが涼みに来て、
自分も昔のことを思い出した。
それだけの一日。
でも、
たぶん昔の自分も、
今日来た子供たちと同じように、
「ここにいてもいい」と思える場所を探していたのだろう。
そう考えると、
この退屈な博物館も、
案外悪くない場所なのかもしれなかった。




