表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/39

学芸員と夏休み


「知っているだろうか」


夏の博物館は、外より涼しい。


……当たり前のように聞こえるが、博物館の環境は快適だ。


展示物を守るため、館内は一定の温度と湿度に保たれている。


だから、炎天下の公園を歩いてきた人間にとって、


冷房の効いた展示室は、ちょっとした避難所になる。


もっとも。


それを目的に博物館へ来る人間は、あまりいない。


少なくとも、この博物館では。


午前十一時。


外は三十五度を超えている。


公園の木々からは蝉の声が絶え間なく聞こえてくる。


その一方で、館内は静かだった。


展示ケースのガラスに、薄暗い照明が反射している。


受付に一人。


展示室に一人。


来館者は、まだゼロ。


高宮は窓の外を眺めた。


公園の遊歩道を、親子連れが歩いている。


子供が母親の手を引っ張っている。


その先には、この博物館がある。


「……暑そうだな」


そう呟いた。


そして、ふと思い出した。


自分も昔、あの道を歩いたことがある。


---


小学生の頃。


夏休み。


昼間から友達と遊んでいると、暑くてどうしようもなくなる。


公園の遊具も熱い。


蝉はうるさい。


自動販売機のジュースはすぐなくなる。


家に帰れば、


「宿題やったの?」


と母親に言われる。


だから、たまに博物館へ逃げ込んだ。


別に歴史が好きだったわけじゃない。


恐竜が好きだったわけでもない。


ただ、


涼しかった。


それだけだった。


入口を入る。


外の熱気が嘘みたいに消える。


薄暗い館内。


少し古い匂い。


足音が妙に響く廊下。


受付のおばさんに、


「こんにちは」


と言われる。


こちらも小さな声で、


「こんにちは」


と返す。


それから、展示室を適当に歩く。


恐竜を見る。


昔の町の写真を見る。


よく分からない石を見る。


古い農具を見る。


そして、一番奥にあるベンチに座る。


友達と小声で話す。


「まだ帰りたくないな」


「うん」


そんなことを言いながら、しばらく過ごす。


午後になると、外の蝉の声が少し遠く聞こえる。


冷房の音だけがする。


あの時間が、妙に好きだった。


---


「……」


高宮は展示室を見回した。


今も、ほとんど変わっていない。


壁。


照明。


展示ケース。


そして、あの頃に座ったベンチ。


さすがに表面は少し傷んでいる。


けれど、まだ残っている。


高宮はベンチの前まで歩いた。


手で軽く触れる。


冷たい。


当たり前のことなのに、


少しだけ懐かしかった。


「高宮さん」


受付から声がする。


「はい?」


「子供来てますよ」


見ると、入口に小学生が二人立っていた。


汗だくである。


帽子を被っている。


二人とも、見るからに外で遊んできた顔をしていた。


「こんにちは」


「こんにちは……」


「暑かった?」


「暑い」


「じゃあ、ゆっくりしていって」


二人は頷いて、展示室へ入っていった。


最初に恐竜を見る。


「でけー」


「これ本物?」


「前にも見たじゃん」


「でもでけー」


その会話を聞いて、高宮は少し笑った。


昔の自分たちと同じだ。


何年経っても、子供はあまり変わらない。


---


昼を過ぎると、子供たちはベンチに座った。


持ってきた水筒を飲んでいる。


「お兄さん」


「ん?」


「ここって、何時までいられる?」


「五時まで」


「じゃあ、まだいれる」


「何するの?」


「分かんない」


「……そう」


高宮は笑った。


「じゃあ、好きに見ていっていいよ」


「うん」


二人はまた展示室を歩いていった。


しばらくすると、片方が古い町の写真の前で立ち止まった。


「ここ、今と違う」


「昔の写真だからね」


「なんでこんなに車ないの?」


「昔は今より車が少なかったから」


「へえ」


「この辺も、昔は田んぼだったんだよ」


「うそ」


「本当」


「じゃあ、俺の家も田んぼだった?」


「それは知らないな」


子供が笑う。


そのまま二人は次の展示へ向かった。


---


午後三時。


外の暑さは、まだ衰えていない。


蝉が鳴いている。


館内は静かだ。


高宮は資料整理をしながら、窓の外を見た。


子供の頃。


ここに来ていたときは、


この博物館で働くことになるなんて考えもしなかった。


そもそも、学芸員という仕事すら知らなかった。


ただ涼しくて。


静かで。


誰にも怒られなくて。


何となく落ち着く。


それだけだった。


でも、何十年も経った今、


自分はその場所にいる。


子供の頃に座っていたベンチを眺めながら、


同じように暑さから逃げてきた子供たちを見ている。


少し不思議な気分だった。


---


午後四時半。


二人の小学生が帰る時間になった。


「ありがとうございました」


「また暑かったら来ればいいよ」


「うん」


「次は友達連れてくる」


「何人でもどうぞ」


「じゃあね」


「気をつけて」


二人は外へ出ていく。


自動ドアが閉まる。


一瞬だけ、外の蝉の声が大きく聞こえた。


そして、また静かになる。


高宮はベンチを見る。


そこには誰もいない。


昔、自分が座っていた場所。


今は、別の子供たちが座っている。


同じ場所で。


同じ夏に。


同じように、暑さから逃げて。


高宮は少しだけ笑った。


「……こういうのも、悪くないな」


午後五時。


閉館。


外へ出る。


一歩踏み出した瞬間、熱気が身体にまとわりつく。


蝉の声。


照りつける太陽。


アスファルトから立ち上る熱。


「暑……」


思わず呟く。


けれど、その暑ささえ少し懐かしかった。


子供の頃は、この炎天下を走り回った。


そして疲れたら、博物館へ逃げ込んだ。


あの頃は知らなかった。


あの場所が、


何十年後の自分の職場になるなんて。


高宮は振り返る。


夕日に照らされた古い博物館。


薄暗い窓。


少し古びた建物。


今日も何も起こらなかった。


ただ、子供たちが涼みに来て、


自分も昔のことを思い出した。


それだけの一日。


でも、


たぶん昔の自分も、


今日来た子供たちと同じように、


「ここにいてもいい」と思える場所を探していたのだろう。


そう考えると、


この退屈な博物館も、


案外悪くない場所なのかもしれなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ