学芸員と自由
高宮は博物館裏の喫煙所で煙草を吸っていた。
冬の冷たい空気に、煙が白く溶けていく。
そこへ神田がやってくる。
「高宮」
「……お前、なんでいるんだ」
「近くの喫茶店で仕事をしていてね。少し休憩だ」
「ああ、そういやフリーランスだったな」
「そういうことだ。時間も場所も、会社員よりは自由に決められる」
「便利な立場だな」
神田が足を止めた。
「その『便利』という言葉が、今日の話の入口だ」
「やっぱりか」
「何がだい?」
「お前が普通に世間話だけして帰るわけないと思ってた」
「随分な言い草だな」
神田は煙草を取り出し、火をつけた。
「君は、便利になればなるほど、人間は自由になると思うかい?」
「……便利なものが増えれば、できることは増える。だから普通に考えれば自由になる」
「うん」
「ただ、できることが増えれば、それをやらなきゃいけない場面も増える。だから一概には言えない」
神田が少し目を細める。
「ほう」
「何だよ」
「いや。最初からそこまで考えているとは思わなかった」
「お前、俺を何だと思ってるんだ」
「煙草と酒のことしか考えていない男」
「半分くらい当たってるけどな」
「半分は認めるのか」
神田が笑った。
「例えばスマートフォンだ」
「急に身近になったな」
「昔は、誰かに連絡を取ろうと思っても、家にいなければ連絡できなかった。返事が数日後でも、それほど不自然ではない」
「今は違う。いつでも連絡できるし、いつでも返事を求められる」
「そう」
「つまり、連絡する自由は増えたけど、連絡しない自由は減った」
神田が黙る。
「……まさにそれだね」
「お前が言いたかったの、それだろ」
「少し先回りされたな」
「分かりやすい話だからな」
「失礼だな」
神田は煙草を吸う。
「では、動画配信はどうだろう」
「選択肢が増えすぎたやつか?」
「……君、本当にどうしたんだい」
「お前が今まで何を言ってきたか考えれば分かる」
「成長したものだね」
「お前に育てられた覚えはない」
神田は少し笑った。
「昔はテレビ番組を決められた時間に見るしかなかった。見逃せばそれまでだ」
「今は好きなものを、好きな時間に見られる」
「自由になったように見える」
「実際、自由にはなってるだろ」
「だが?」
「選択肢が多すぎて、何を見るか決めるだけで疲れる」
「その通り」
「しかも、選べるからこそ『せっかくの自由時間なんだから有意義に使おう』って考え始める」
「……」
「映画を見るか、ゲームするか、本を読むか。何もしないで寝てたら、なんか損した気分になる」
神田が煙を吐く。
「興味深いね。誰にも命令されていないのに、自分で自分を急かしている」
「結局、自由な時間まで効率よく使おうとして、自分で窮屈にするんだろ」
「そこまで行くと、便利さというより人間の性質の問題かもしれないな」
「便利なものが悪いわけじゃないんだろ」
「もちろん」
「使えるようになったことで、選択肢が増える。それ自体はいい。でも、その選択肢を使うことまで義務になると、自由じゃなくなる」
「君は今日は随分と哲学者らしいじゃないか」
「お前が毎回変な話を振ってくるからだろ」
神田は少し考える。
「では、もう一つ」
「まだあるのか」
「自動車はどうだい?」
「遠くまで行ける」
「うん」
「好きな時間に好きな場所へ行ける。電車みたいに時刻表もない」
「自由だろう?」
「その代わり、渋滞する」
「……」
「駐車場も探す」
「……うん」
「ガソリン代もかかる」
「君は急に現実的になるな」
「車なんてそんなもんだろ」
「もう少し思想的な回答を期待したのだが」
「便利さの代償を挙げろって話じゃなかったのか」
「間違ってはいない」
神田は苦笑した。
高宮は灰皿に灰を落とす。
「でも、完全に自由になることなんて無理だろ」
「どうして?」
「人間一人で生きてるわけじゃないからな」
「……続けて」
「便利になれば、自分で決められることは増える。でも他人も同じように自由になる」
「なるほど」
「だから、自分の自由だけを優先したら、今度は他人の自由を邪魔する」
神田はしばらく黙っていた。
「君、たまに妙に鋭いことを言うね」
「たまにって何だよ」
「普段が普段だから仕方ない」
「お前な」
神田は笑った。
「つまり、便利になることは自由を増やす。しかし、それで自由になるとは限らない」
「そういうことだろ」
「選択肢が増えることで、新しい義務や責任も生まれる」
「スマホがあるから連絡が来る。車があるから遠くまで行ける。ネットがあるから何でもすぐ調べられる」
「どれも昔なら『できない』で済んでいたことだね」
「そう。便利になるほど『できません』が通用しなくなる」
神田が煙草を持ったまま止まった。
「……それはなかなか核心を突いている」
「だろ?」
「便利さとは、人間から不可能を減らすことなのかもしれない」
「いいことじゃないか」
「同時に、『できないから仕方ない』という逃げ道も減らしていく」
「……なるほどな」
今度は高宮が黙った。
風が吹き、二人の煙が同じ方向へ流れていく。
しばらくして、神田が口を開いた。
「昔より便利になった。それは間違いない」
「ああ」
「昔より選択肢も増えた」
「ああ」
「なら、昔より自由になったはずだ」
「理屈ではな」
「なのに、現代人が昔より自由だと実感しているかというと、少し怪しい」
高宮は煙草を吸った。
「結局、自由って選択肢の数じゃないんじゃないか」
「というと?」
「選べることと、選ばなくていいことは別だろ」
神田が高宮を見る。
「ほう」
「百個から好きなものを選べって言われるより、今日はこれしかないって言われた方が楽なこともある」
「それは自由を手放しているとも言える」
「そうかもな」
「それでも構わない?」
「全部自分で決める人生なんて疲れるだろ」
「随分と投げやりだね」
「昼飯くらい日替わり定食に決めてもらっていい」
「君の自由論は随分と庶民的だな」
「哲学者だって昼飯は食うだろ」
「それはそうだ」
神田は小さく笑った。
そのとき、博物館から昼休みの終わりを告げるチャイムが聞こえてきた。
高宮は腕時計を見る。
「……戻るか」
「君には、もう一本吸ってから戻る自由もあるよ」
「ない」
「即答だね」
「昼休み終わったからな」
「だが、戻るかどうかを決めるのは君だろう?」
高宮は立ち上がり、煙草を灰皿に押しつけた。
「じゃあ戻らない」
「ほう」
「そのまま仕事も辞める」
「随分と思い切ったね」
「で、金がなくなって煙草も酒も買えなくなる」
「……」
「自由になった結果、好きなことができなくなったな」
神田が少し笑った。
「なるほど。自由というのも、なかなか不自由なものだね」
「だから働いてくる」
高宮は博物館へ向かって歩き出す。
「高宮」
「なんだ」
「それは自由かい?」
高宮は振り返らなかった。
神田の笑い声を背中で聞きながら、高宮は博物館へ戻っていった。




