学芸員と哲学3
午後。
来館者の少ない展示室で、高宮は資料を整理していた。
向かいでは神田が、展示ケースを眺めている。
しばらく何も言わなかったが、
「高宮」
「ん?」
「君は、自由意志というものを信じるかい?」
「急だな」
「哲学というのは、だいたい急なものだよ」
「そうか?」
「そうとも」
神田は椅子に腰を下ろした。
「例えばだよ。君が今、煙草を吸いたいと思ったとする」
「吸いたいな」
「それは君の自由な意思によるものだと思うかい?」
「まあ、自分で吸いたいと思ってるんだから、そうじゃないの」
「では、その『吸いたい』という意思は、どこから生まれた?」
「……煙草だからだろ」
「では、なぜ煙草を吸いたくなる?」
「好きだから」
「なぜ好きなんだい?」
「知らないよ」
「そうだろう?」
神田は少し笑う。
「君が自分で選んでいると思っていることも、過去の経験や環境、身体の状態、周囲から受けた影響によって決まっているのかもしれない」
「じゃあ、自由意志なんてないってこと?」
「私はそう言っているわけではないよ」
「じゃあ何なんだ」
「分からないから面白いのさ」
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高宮は煙草を一本取り出した。
「……これ吸うのも?」
「君の自由意志かもしれないし、そうでないかもしれない」
「面倒くさいな」
「哲学だからね」
「便利な言葉だな、それ」
神田は笑った。
「では、もう一つ面白い話をしよう」
「まだあるのか」
「中国語の部屋という思考実験を知っているかい?」
「名前くらいは」
「ほう」
神田が少し意外そうな顔をする。
「なら話が早い」
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「ある部屋に、中国語をまったく理解できない人間がいる」
神田は展示室を見渡しながら話す。
「その部屋には大量の中国語の文字と、それに対応する規則集がある。例えば、『この記号を受け取ったら、この記号を返せ』という具合にね」
「うん」
「外から中国語の質問が紙で送られてくる。部屋の中の人間は、中国語の意味を理解していない。しかし規則集に従えば、適切な中国語の返答を作ることができる」
「外から見ると、中国語を理解してるように見える」
「その通り」
「でも本人は何も理解してない」
「そう」
神田は少し笑った。
「では、質問だ」
「何?」
「その部屋は、中国語を理解していると思うかい?」
高宮は少し考える。
「……部屋そのものなら、理解してると言えるんじゃないか?」
「なぜ?」
「中にいる人間は理解してない。でも、部屋全体としては中国語の質問に正しく答えられる」
「面白い答えだね」
「違うの?」
「それはまさに、この思考実験に対する有名な反論の一つだよ」
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神田は腕を組む。
「では、もう一つ」
「まだあるのか」
「その部屋にいる人間が、規則集を全部暗記してしまったとする」
「うん」
「そして部屋から出て、頭の中だけで同じ処理を行えるようになった」
「なるほど」
「では、その人間は中国語を理解しているのか?」
高宮は黙る。
「……難しいな」
「だろう?」
「結局、『理解する』って何なのか分からないと答えられない」
「その通り」
神田は満足そうに頷いた。
「人間は、言葉を使っているから意味を理解していると思いがちだ。しかし、正しい答えを返すことと、意味を理解することは本当に同じなのか」
「AIとかにも関係ありそうだな」
「もちろん」
神田は少し笑った。
「質問に対して適切な答えを返す存在がいたとして、それが本当に『理解している』のか。それとも、理解しているように見えるだけなのか」
「……」
高宮は煙草を指で弄ぶ。
「じゃあ、人間は?」
「何?」
「人間だって、言葉の意味を本当に理解してるって証明できないんじゃない?」
神田が黙った。
「他人が『分かった』って言っても、本当に同じ意味で理解してるかなんて分からない」
「……」
「自分だって、分かったつもりになってるだけかもしれない」
神田はしばらく高宮を見る。
そして、
「君はたまに妙なところで鋭いね」
「たまにって何だよ」
「褒めているのだよ」
「そうは聞こえない」
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神田は立ち上がる。
「結局のところ」
「ん?」
「自由意志も、意識も、理解も、我々が当然のものとして使っている言葉なのに、その正体を説明しようとすると途端に分からなくなる」
「哲学ってそういう話ばっかりだな」
「だから面白いのだよ」
「俺は疲れる」
「そう言いながら、最後まで付き合うじゃないか」
「暇だからな」
「それも君の自由意志なのかもしれないね」
「……」
高宮は神田を見る。
「それ、今日一番嫌いな言い方だな」
神田は楽しそうに笑った。
静かな展示室に、
二人の笑い声が小さく響いた。




