学芸員とからかい
「人間というものは、実に興味深い生き物だと思わないかい?」
朝から雨だった。
高宮がいつものように資料を整理していると、
受付の外から神田が突然そう言った。
「……何の話?」
「例えばだよ。普段は自らを律している人間ほど、ある種の誘惑に対して妙な言い訳を用意するものなのだ」
「朝から何?」
「いや、少し考えていたのだよ」
神田は資料をめくりながら続ける。
「人間は、自分の行動を合理化するためなら、実に巧妙な論理を構築する。『付き合いだから』『断れなかったから』『一度くらいなら問題ない』……実に便利な言葉だと思わないかい?」
「……」
「本来なら自分自身の意思で選択しただけなのに、それを外部要因のせいにすることで、あたかも自分には責任がなかったかのように振る舞える」
「何の話だよ」
「さあね」
神田が微笑む。
「ところで高宮」
「ん?」
「君、先日ガールズバーに行ったそうじゃないか」
「……」
高宮の手が止まった。
「何で知ってるんだよ」
「杉田から聞いた」
「余計なことを……」
「いやいや、私は別に責めているわけではないよ」
神田は楽しそうに言った。
「むしろ感心している」
「何に?」
「君にもそういう俗っぽい一面があったのだな、と」
「失礼だな」
「普段は博物館で古い資料を眺め、休日には博物館へ行き、家では酒を飲みながら煙草を吸う。そんな君が、夜になれば若い女性のいる店へ行く」
「言い方が悪い」
「事実だろう?」
「……まあ」
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神田は少し笑う。
「それで?」
「何が?」
「楽しかったかい?」
「普通に楽しかったよ」
「ほう」
「杉田に連れていかれただけだけどな」
「連れていかれた」
神田がその言葉を繰り返す。
「なるほど。先ほど私が言った『合理化』というやつだね」
「違うって」
「では、自発的に?」
「いや、それも違う」
「では、何なのだ」
「……付き合い」
「便利な言葉だ」
神田は満足そうに笑った。
「まさに典型的だよ」
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「でも意外だね」
神田が言う。
「何が?」
「君、そういう店では女性とまともに会話できないと思っていた」
「できるよ」
「ほう」
「普通に話しただけ」
「それで?」
「仕事の話とか」
「仕事?」
「博物館の話」
神田は一瞬黙った。
そして、
「……君は本当に君だな」
「何だよ」
「女性と酒を飲む店へ行ってまで博物館の話をするとは」
「向こうが聞いてきたんだよ」
「それで熱心に説明したわけか」
「まあ」
「……ふふ」
神田は肩を震わせた。
「何がおかしい」
「いや」
少し間を置いて、
「実に君らしいと思ってね」
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高宮は煙草を取り出す。
「別に悪いことしたわけじゃないだろ」
「もちろん」
神田は即答した。
「成人同士が酒を飲みながら会話をする店だ。何も問題はない」
「じゃあ、なんでそんなに言うんだよ」
「面白いからだよ」
「やっぱりそれか」
「君が普段、あまりにもそういう場所と縁がなさそうだからね」
「失礼だな」
「事実だろう?」
「……まあ」
神田は少し考える。
「しかし、案外君には向いているかもしれない」
「何で?」
「話題が豊富だからね。相手が何か質問すれば、いくらでも話せる」
「それ褒めてる?」
「かなり褒めている」
「そうか」
「ただし」
神田が少し笑う。
「相手が聞きたいのが君の博物館の話なのかどうかは、別問題だがね」
「……」
高宮は黙った。
「そこは否定できないな」
「だろう?」
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昼休み。
神田はコーヒーを飲みながら、
「それで、また行くのかい?」
「しばらくいい」
「なぜ?」
「金がかかる」
「そこなのか」
「そこだよ」
神田は少し笑った。
「君らしいよ」
「何だよ」
「結局、誘惑にも勝てるのではなく、経済合理性によって撤退する」
「……」
「実に現実的だ」
「うるさい」
神田は楽しそうに笑った。
高宮は煙草に火をつける。
「まあ、たまにはいいんじゃないか」
「何が?」
「そういうところに行くのも」
神田は少し考えてから、
「……いや」
「ん?」
「君が行っていると考えると、少し面白いから、もう一度くらい行ってきてくれ」
「嫌だよ」
「残念だ」
神田はそう言って、踵を返した
その顔は、
どこか嬉しそうだった。




