学芸員と魚
「これ、釣れるの?」
展示ケースの前で、声がした。
高宮が振り返る。
そこにいたのは、六十代くらいの男だった。
帽子をかぶっている。
日に焼けた顔。
作業着のような服。
そして、やたらと大きな釣りバッグ。
「……魚の展示ですか?」
「そうそう」
男はケースの中を指差す。
そこには、この地域で発見された古代魚の化石が展示されている。
何千万年も前に生息していた魚。
今の魚とは少し違う形をしている。
「これ、本当に魚?」
「魚ですよ」
「へえ……」
おっちゃんは腕を組んだ。
「こんなの釣ってみてえな」
「無理ですよ」
「分かってるよ」
おっちゃんは笑った。
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「俺、釣りが好きでね」
聞いてもいないのに話し始める。
「海も川も行くけど、最近は川ばっかりだな」
「何釣るんですか?」
「鮎とか、ヤマメとか。たまにナマズ」
「へえ」
「魚って面白いんだよ」
おっちゃんは化石を見ながら言った。
「同じ魚でも、住んでる場所で全然違う」
「確かに」
「川の魚は流れに逆らうような体してるし、海の魚はまた違う」
「よく見てますね」
「釣り人だからね」
妙に誇らしげだった。
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おっちゃんは展示の説明文を読む。
「何千万年前……」
「はい」
「そんな昔から魚っていたのか」
「もっと前からいますよ」
「もっと?」
「魚類そのものの起源なら、何億年も前です」
「何億年……」
おっちゃんはしばらく黙った。
「じゃあ俺が釣ってる魚も、その子孫なの?」
「まあ、ものすごく大雑把に言えば」
「すげえな」
今度は化石をじっと見る。
さっきまでの「古い魚」を見る目ではない。
少しだけ、
今生きている魚を見るような目になっていた。
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「なあ」
「はい」
「こいつらって、何食ってたんだ?」
「種類によりますけど、他の魚や小動物を食べていたものもいます」
「やっぱ魚食うのか」
「そうですね」
「じゃあ昔から魚は魚を食ってたんだな」
「そうなりますね」
「……」
おっちゃんは満足そうに頷いた。
「変わらねえな」
「何がです?」
「魚だよ」
そう言って笑う。
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しばらくして、
おっちゃんは別の展示へ向かう。
地元の川に生息する魚の標本。
「おっ」
今度は明らかに食いつきが違った。
「これ、今でもいる?」
「いますよ」
「この辺?」
「この地域の川にもいます」
「へえ……」
おっちゃんは標本を覗き込む。
「昔はもっといたんだけどな」
高宮は黙って聞いていた。
「川が綺麗になったとか、魚が減ったとか、そういう話?」
「いや」
おっちゃんは首を振る。
「俺が歳取っただけだよ」
「……」
「昔は朝から晩まで釣りしてたからな」
少し笑う。
「今は三時間もやったら腰が痛くなる」
「それは歳ですね」
「お前、学芸員のくせに容赦ねえな」
高宮も笑った。
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帰る前、
おっちゃんはもう一度、
古代魚の展示の前に戻ってきた。
「こいつさ」
「はい」
「何千万年も生きてきたんだろ?」
「正確には、その種類の祖先がですね」
「細けえな」
「学芸員なんで」
「はいはい」
おっちゃんは笑う。
「でもさ」
化石を見ながら、
「何千万年も前の魚を見て、そのあと今の魚を見るとさ」
「はい」
「なんか、釣りしたくなるな」
「今からですか?」
「いや、今日はもう帰る」
「じゃあ明日?」
「雨なんだよ」
「残念ですね」
「だから博物館来たんだよ」
高宮は少し笑った。
「なるほど」
「雨の日に魚の展示見るのも悪くねえな」
そう言って、
おっちゃんは出口へ向かった。
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「じゃあな」
「ありがとうございました」
「また来るわ」
「釣りの帰りにでも」
「おう」
自動ドアが開く。
外は曇り空だった。
おっちゃんは釣りバッグを肩に担ぎ、
ゆっくり歩いていく。
高宮はその背中を見送る。
そして、
古代魚の展示へ戻った。
何千万年も前の魚。
今も川や海を泳ぐ魚。
その間には、
途方もない時間が流れている。
それでも、
魚を見て「釣ってみたい」と思う人間は、
きっと昔からいたのだろう。
「……魚ってすごいな」
高宮はそう呟いて、
展示室を歩き出した。




