学芸員と写真
「これ、捨てちゃっていいんですか?」
午後二時。
資料整理室で、俺は一枚の写真を持ったまま立っていた。
「何が?」
向かいの机で古い新聞をめくっていた先輩が、顔だけこちらに向ける。
「これです」
写真を差し出す。
白黒写真だった。
古い商店街。
今ではもうなくなった通りだ。
写真の中央に、駄菓子屋らしい小さな店がある。
店先には瓶に入ったラムネ。
その前に、子供が四人。
写真の端には、撮影した人間の指まで写り込んでいる。
裏には鉛筆で、
『○○町 昭和40年代』
とだけ書かれていた。
「寄贈品の中に入ってたんですけど、整理番号もないし、誰が写ってるかも分からないんですよね」
「じゃあ保留」
「保留ですか」
「うん」
先輩は新聞に目を戻した。
「捨てる理由もないし、展示する理由もない」
「……それ、一番困るやつじゃないですか」
「博物館なんてそんなもんだよ」
そう言って、また新聞をめくった。
俺は写真を見る。
知らない子供たち。
知らない店。
知らない町。
でも、なんとなく捨てる気にはなれなかった。
結局、写真は「未整理資料」の箱に入れた。
翌朝。
開館前の館内は、いつも静かだ。
掃除機の音が廊下に響く。
受付では、いつもの女性が新聞を読んでいる。
俺は展示室の照明をつけながら、昨日の写真のことを考えていた。
別に珍しい資料じゃない。
歴史的価値があるわけでもない。
有名な人物が写っているわけでもない。
それでも、気になる。
人間というのは不思議だ。
名前が分からないだけで、その人の人生が急に遠くなる。
写真の中の四人にも、たぶん名前があった。
好きな食べ物も。
嫌いな先生も。
学校帰りに遊ぶ場所も。
大人になってから何をしていたのかも。
今も生きているのかさえ、俺には分からない。
「……まあ、知ったところでどうするんだって話だけど」
独り言を呟く。
当然、返事はない。
午前十一時。
珍しく来館者が多かった。
といっても、八人。
そのうちの一人が、展示室の前で立ち止まった。
七十歳くらいの男性だった。
白い帽子。
杖。
ゆっくりと展示ケースを眺めている。
俺は少し離れたところで見守っていた。
すると男性が、
「ああ……」
と、小さく声を漏らした。
視線の先には、昔の町の写真。
俺が昨日見つけたものと同じ年代の写真だった。
「この辺、昔はこんなだったんですか?」
男性が俺に尋ねた。
「そうですね。昭和三十年代から四十年代くらいの写真です」
「へえ……」
男性は写真をしばらく見ていた。
「この辺に、昔駄菓子屋があったんですよ」
「駄菓子屋ですか?」
「そう。小さい店でね。学校帰りによく行った」
俺は少しだけ身を乗り出した。
「どの辺です?」
男性は写真を指差した。
「この辺……だったかな」
そこには、古い商店街が写っている。
俺は昨日の写真を思い出した。
「ちなみに、店の名前って覚えてます?」
男性は少し考えた。
「……なんだったかな」
そして笑った。
「もう五十年も前の話だからね」
「そうですよね」
「でも、ラムネが美味かったのは覚えてる」
男性はそう言って笑った。
その顔が、妙に嬉しそうだった。
午後三時。
男性は帰っていった。
俺は資料整理室へ戻る。
昨日の写真を箱から出した。
駄菓子屋。
ラムネ。
四人の子供。
写真の端に写り込んだ指。
俺は写真を裏返した。
『○○町 昭和40年代』
やっぱり、それだけ。
「……惜しいな」
誰に言うでもなく呟く。
もしこの男性が写真を見たら、何か思い出すかもしれない。
そう思った。
俺は写真をコピーした。
原本は資料として保管する。
コピーしたものを、しばらく自分の机の上に置いておくことにした。
数日後。
昼休み。
いつもの公園で弁当を食べていると、あの男性が歩いてきた。
「あ」
向こうも気づいた。
「この前の博物館のお兄さん」
「こんにちは」
男性はベンチの横に立った。
「この前、駄菓子屋の話をしたでしょう」
「はい」
「思い出したんですよ」
男性は少し得意そうな顔をした。
「店の名前」
俺は笑った。
「なんていう名前でした?」
「『みどり屋』」
「みどり屋……」
「そうそう。みどり屋だ」
男性は頷く。
「俺の家の近所にあったんだよ。学校から帰ると、みんなそこに集まってね」
「写真とか残ってないですかね」
そう聞くと、男性は少し考えた。
「あるかもしれない」
「もしよければ、博物館に寄贈していただけると……」
言いかけて、俺はやめた。
なんとなく、仕事の話にしたくなかった。
「……いや、無理に探さなくても大丈夫ですよ」
男性は笑った。
「いや、探してみるよ」
そして、
「昔のことなんて、もう忘れたと思ってたんだけどな」
そう言った。
「博物館に来たら、色々思い出すもんだね」
男性は公園の向こうを見た。
そこには今の町がある。
新しい道路。
コンビニ。
マンション。
昔の商店街は、もうどこにもない。
「じゃあ、また来るよ」
「はい」
男性はゆっくり歩いていった。
俺はその背中を見送った。
午後五時。
閉館。
今日も一日が終わる。
俺は資料整理室で、昨日の写真をファイルにしまった。
資料名。
「○○町商店街 昭和40年代頃」
備考欄。
少しだけ迷ってから、こう書いた。
「駄菓子店『みどり屋』の可能性あり」
根拠は、来館者の記憶だけ。
学術的には、まだ何の証拠にもならない。
でも、それでいい気がした。
博物館にあるのは、証拠だけじゃない。
誰かが覚えていたこと。
誰かが忘れてしまったこと。
そして、誰かがもう一度思い出したこと。
そういうものも、いつか資料になるのかもしれない。
照明を消す。
暗くなった展示室を歩く。
外では、夕方の蝉が鳴いている。
俺は入口の鍵を閉めた。
今日も大したことは起きなかった。
新聞に載るようなことも。
テレビに出るようなことも。
でも、
昨日まで名前のなかった写真に、
一つだけ名前が増えた。
それだけで今日は、少しだけ仕事をした気がした。
「……明日も暇だといいな」
そう呟いて、俺は博物館を出た。




