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学芸員と博物館

「退屈だ……」


午前八時四十五分。


開館まで、あと十五分。


俺は展示室の隅に置かれた古びた丸椅子に座り、誰もいない館内を眺めていた。


天井の蛍光灯が、ジジ……と小さな音を立てている。


窓の外には、大きな公園が広がっている。


春になれば桜が咲き、夏になれば蝉が鳴き、秋になれば落ち葉が積もる。


この博物館は、その公園の一角にひっそりと建っている。


建物は決して新しくない。


むしろ、古い。


薄暗い廊下。


少し黄ばんだ案内板。


年季の入った展示ケース。


ガラスの向こうに並べられた、誰かが何十年も前に集めた化石や古文書や民具。


そして、誰もいない。


今日もたぶん、午前中は数人しか来ないだろう。


俺は壁に掛かった時計を見る。


八時五十八分。


受付の女性が、遠くから小さく会釈した。


「今日もよろしくお願いします」


「はい。よろしくお願いします」


彼女は俺よりずっと年上だ。


この博物館に来て何年になるのか、本人もよく分からないらしい。


以前、一度だけ聞いたことがある。


「ここって、ずっと暇ですよね」


すると彼女は笑って、


「そうねえ。でも、暇なのも仕事のうちだから」


と言った。


その言葉が妙に気に入っている。


九時。


開館。


自動ドアが開く。


誰も入ってこない。


俺は展示室へ戻る。


今日の仕事は、資料の整理。


昨日と同じ。


一昨日も同じ。


来週も、おそらく同じだ。


博物館には膨大な資料がある。


昔の写真。


古い新聞。


地元で使われていた農具。


戦前の学校で使われていた教科書。


町の古い地図。


誰かの家から寄贈された手紙。


一つ一つに持ち主がいて、生活があって、人生があった。


けれど、それを見に来る人は少ない。


俺は資料庫から一枚の写真を取り出した。


昭和三十年代の町の写真。


今では大きな道路になっている場所に、まだ田んぼが広がっている。


写真の端に、小さな男の子が写っていた。


半ズボンを履いて、こちらを見ている。


知らない子供。


当然、名前も分からない。


俺は写真の裏側を確認する。


「昭和三十六年 ○○地区」


それだけ。


俺はしばらく、その子供を眺めていた。


もし今も生きているなら、もう七十歳くらいだろう。


この町に住んでいるだろうか。


この写真のことを覚えているだろうか。


そんなことを考えていると、


「こんにちは!」


突然、声がした。


振り返る。


小学生くらいの男の子が二人、入口から走ってきた。


「おー、来たか」


俺が声をかけると、


「今日も恐竜いる?」


「いるよ」


「じゃあ見てくる!」


二人は展示室へ走っていった。


恐竜の骨格標本の前で、


「でけー!」


と声を上げる。


俺は笑った。


この博物館には、たまにこういう子供が来る。


近所の子供たちだ。


入館料は無料。


学校帰りに寄って、展示室を一周して、飽きたら帰る。


それだけ。


でも、俺は嫌いじゃない。


むしろ好きだ。


博物館というのは、そういう場所でいいと思っている。


人生を変えるような発見がなくてもいい。


何となく入って、


何となく展示を見て、


「昔はこんなだったんだ」


と思って、


何となく帰る。


それだけでも、その人の中に少しだけ残るものがある。


十一時三十分。


来館者は六人。


俺は昼休みに入る。


弁当を持って公園のベンチへ出る。


博物館の周りには、ほとんど人がいない。


遠くで子供の声がする。


風が木の葉を揺らしている。


俺はコンビニのおにぎりを食べながら、博物館を見る。


古い建物。


薄暗い窓。


立派な展示物。


そして、静けさ。


子供の頃、俺はここに何度も来た。


学芸員になりたいと思った。


資格を取ろうと考えた。


でも、調べれば調べるほど現実は厳しかった。


募集は少ない。


倍率は高い。


給料も決して高くない。


それでも、あの頃の俺は思っていた。


ここで働けたら、毎日楽しいだろうな、と。


今こうして働いてみると、


「退屈だ……」


と毎朝思っている。


でも、不思議なことに。


その退屈が嫌いじゃない。


午後一時。


午後の仕事は、企画展の準備。


来月から始まる、小さな特別展だ。


テーマは「この町の昔の暮らし」。


俺は資料を一つずつ確認していく。


古い湯たんぽ。


農作業用の道具。


昔の商店の看板。


子供用の靴。


どれも、誰かにとってはただの古い物だ。


けれど、俺にとっては違う。


それらが実際に誰かの生活の中で使われていたと思うと、少しだけ面白い。


午後三時。


来館者は三人。


そのうち二人は、さっきの小学生だった。


「また来たの?」


「うん」


「何してるの?」


「勉強」


「嘘つけ」


「バレた?」


二人で笑う。


そして恐竜の前に座り込む。


俺は少し離れたところから、その様子を眺める。


午後四時。


館内がまた静かになる。


俺は展示室の照明を一つずつ確認する。


誰もいない。


ガラスケースの中に、昔の人々の暮らしだけが残っている。


午後五時。


閉館。


自動ドアが閉まる。


受付の女性が帰り支度をする。


「お疲れ様でした」


「お疲れ様です」


彼女が帰る。


俺は一人になる。


最後に館内を見回る。


恐竜。


古い写真。


古文書。


民具。


誰もいない展示室。


俺は照明を消していく。


一つ。


また一つ。


暗くなった展示室の中で、非常灯だけがぼんやりと光っている。


窓の外を見る。


公園にも、もう人はいない。


昼間は子供たちの声がしていたのに、今は風の音しかしない。


俺は入口の鍵を閉める。


そして、振り返る。


薄暗い博物館。


今日も何も起こらなかった。


大事件もない。


有名な研究成果もない。


大勢の人に感謝されることもない。


ただ、古い資料を整理して。


子供たちの相手をして。


何人かの来館者に展示の説明をして。


一日が終わった。


「……まあ」


俺は小さく呟く。


「悪くないか」


誰もいない博物館に、その声だけが響く。


明日もきっと同じだ。


朝になれば鍵を開ける。


誰もいない展示室に明かりをつける。


資料を整理する。


たまに子供がやってくる。


そして、夕方になればまた鍵を閉める。


退屈な一日。


けれど、その退屈の中には、


何十年も前に生きていた誰かの人生が、静かに眠っている。


俺はそれを、明日も見守る。


それが、この博物館で働くということなのだと思う。

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