学芸員と哲学2
「君は、テセウスの船という話を知っているかい?」
昼過ぎ。
展示室のベンチに座っていた彼女が、唐突にそう言った。
高宮は資料から顔を上げる。
「知ってる」
「……即答だね」
「有名だからな」
「そうか」
彼女は少し残念そうな顔をした。
「では、話が早い」
「何の話?」
「もちろん、テセウスの船についてだよ」
「なんで急に?」
「今日、ふと思ったのだよ」
「嫌な予感がする」
「失礼だな」
彼女は笑った。
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「テセウスの船というのはね」
彼女は展示ケースの中にある古い船の模型を見る。
「古代ギリシャの英雄テセウスが使った船を、後世の人々が保存していたとする」
「うん」
「しかし、長い年月の間に木材が腐ってしまう」
「だから少しずつ交換する」
「そう」
彼女は指を一本立てた。
「帆を交換する。板を交換する。柱を交換する。最後には船を構成する部品がすべて新しいものになった」
「うん」
「さて」
彼女は高宮を見る。
「その船は、果たして『テセウスの船』だと思うかい?」
「まあ、そういう話だな」
「君はどう思う?」
「俺?」
「そう」
高宮は少し考えた。
「普通に考えれば、同じ船だろ」
「なぜ?」
「継続して修理されてきたものだから」
「なるほど」
彼女は頷く。
「では、こうしよう」
嫌な予感がした。
「交換された古い部品を、すべて保管していたとする」
「うん」
「そして、それを使って別の場所で船を組み直した」
「……」
「では、どちらが本物のテセウスの船だ?」
高宮は黙った。
彼女は楽しそうだった。
「ほらね」
「何が?」
「答えられない」
「いや、別に」
「迷っているじゃないか」
「考えてるだけ」
「それを迷っているというのだよ」
「違うだろ」
高宮は苦笑した。
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「でもさ」
「うん」
「これ、結局『同じもの』って何を指してるかって話だろ」
「そう」
「物質が同じことなのか、形が同じことなのか、連続性があることなのか」
「その通り」
「あるいは、それを同じものだと認識している人間がいることなのか」
彼女は少し嬉しそうに笑った。
「やはり君は話が早い」
「こういう話、昔から好きだっただろ」
「好きだよ」
「知ってる」
「では、もう一つ」
「まだあるのか」
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「もし、君の身体を構成している細胞が、何十年もかけてすべて入れ替わったとしたら?」
「それも有名な話だな」
「それでも君は君かい?」
「俺は俺だろ」
「なぜ?」
「記憶があるから」
「記憶がなくなったら?」
「……」
「では、記憶を完全にコピーした存在を作ったら?」
「またその話か」
「重要な話だよ」
「はいはい」
彼女は楽しそうに続ける。
「君とまったく同じ記憶、同じ性格、同じ価値観を持つ人間がいたとする」
「うん」
「その人間は、君なのか?」
「別人だろ」
「なぜ?」
「俺が今ここにいるから」
「しかし、相手も『自分は高宮だ』と認識している」
「でも俺じゃない」
「その違いは?」
「……」
高宮は少し黙った。
「結局、主観だろ」
「主観?」
「自分が自分だと思っているかどうか」
「なるほど」
「身体がどうとか、記憶がどうとか以前に、自分自身の意識が連続してると思ってるから俺は俺なんじゃないか」
彼女は黙って聞いている。
「だから、コピーができても俺にはならない」
「なぜ?」
「俺の意識は、コピーした瞬間に二つに分かれるわけじゃないから」
「……」
「コピーにはコピーの人生が始まるだけ」
しばらく沈黙。
「どうした?」
「いや」
彼女は少し笑った。
「君、こういう話になるとちゃんと付き合ってくれるね」
「お前が勝手に始めるからだろ」
「嫌いかい?」
「嫌いじゃない」
「そうだろう?」
「ただ」
「うん?」
「中学生の頃にこういう話してるやつ、だいたいちょっと面倒だったよな」
「……」
彼女が真顔になる。
「それは私への侮辱かい?」
「事実」
「君もその一人だっただろう」
「俺は聞いてただけ」
「嘘だね」
「何が?」
「君も『もし自分が二人いたら』などと話していたじゃないか」
「……覚えてない」
「私は覚えているよ」
「余計なこと覚えてるな」
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彼女は展示室を歩きながら、
「でもね」
と言った。
「こういう思考実験は、馬鹿にできないと思うのだよ」
「まあ、それはそうだな」
「現実にはあり得ない状況を仮定することで、普段は考えないことを考えられる」
「うん」
「自分とは何か。
同じとは何か。
意識とは何か。
人間とは何か」
彼女は古い人形の展示の前で立ち止まった。
「答えが出ないからこそ、考える意味がある」
「……」
「まあ、こういう話をしていると、どうしても中学生みたいになってしまうけどね」
「自覚あるんだ」
「あるとも」
彼女は笑った。
「だが、私は嫌いではないよ」
「俺も嫌いじゃない」
「では、最後に一つだけ」
「まだあるのかよ」
「もし、この博物館が百年後も残っていたとして」
「うん」
「その頃の人間が、この展示室を見たらどう思うだろうね?」
高宮は周囲を見渡した。
古い展示。
薄暗い照明。
誰もいない館内。
「……たぶん」
「うん」
「『昔の人って、こんなところで働いてたんだな』とか思うんじゃないか」
「そうだろうね」
「俺たちが今、昔の人間に対して思ってるのと同じように」
「では」
彼女は少しだけ笑う。
「百年後の君も、ここにいるのかな」
「いないだろ」
「本当に?」
「死んでるよ」
「では、君の記憶や仕事だけが残っていたら?」
「それは俺じゃない」
「テセウスの船と同じだね」
「……」
高宮は呆れたように彼女を見る。
「結局そこに戻るのか」
「もちろん」
彼女は満足そうだった。
「哲学というのは、同じところを何度も回るものだからね」
「便利な言葉だな」
「そういうものだよ」
二人で笑った。
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午後四時。
彼女が帰った後、
高宮は一人で展示室に残った。
静かな館内。
古い展示物。
何十年、何百年と残ってきたもの。
もし百年後もこの博物館が残っていたら、
今度は自分たちが「昔の人」になる。
そう考えると、
少し妙な気分だった。
高宮は古い展示物を眺める。
「……まあ」
小さく呟く。
「その頃には、この建物自体なくなってそうだけどな」
返事はない。
少しして、
高宮は資料整理へ戻った。
考えても答えの出ないことは、
考え終わったら仕事に戻ればいい。
それくらいが、
この博物館で働くにはちょうどよかった。




