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冤罪遺伝学  作者: 早雲
第五幕
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5.期待

「俺が誰か……」


 彼は口に手をあてた。


「汚れ仕事を請け負う警察の犬。これでは答えになっていませんか」

「……なってない」


 本田君はブラックボックスの中をじっくり見渡した。そこにはDNAサンプルが保管してある冷凍庫、PCRのためのサーマルサイクラー、シーケンサなどの遺伝子検査に必要な設備がそろっている。白く、清潔で、無機質なオブジェクトたち。


 彼はじっくり吟味するような素振りを見せたあと、冷静な声で切り出す。


「約三十億の塩基対」


 本田君は私を見据える。


「その配列こそが、俺が誰かを示すものです」


 真っ白なブラックボックスにあって、彼の黒い服装はひときわシルエットを強調している。


「冤罪遺伝学システムで用いるSTR配列は識別番号のようなものですが、フルゲノムはすなわち自分を示すとは思いませんか」


 遺伝情報が自分自身というのはラディカルな考え方だ。首肯できずにいると本田君は続ける。


「ナツさん、遺伝子検査を受けたことがありますか」

「ああ、大学の頃に」

「ナツさんは自分に…いや、あなたは違うか」


 目をそらし、彼はからだを実験デスクに預けるように座った。何かを思い出すような仕草だ。


「俺が遺伝子検査を受けたのは十歳にもならなかった頃です。受けさせたのは俺の両親。当時は法整備が整っていなかった。だから両親は俺の遺伝情報をすべて見ることができた」


 自嘲気味にうつむいて、彼はふと笑った。


「遺伝子検査の結果は俺が何者にでもなれることを示していた。多分、この世の中でもトップクラスの才能だ」


 心のどこかで得心がいった。彼の能力は異常に高かった。些細なことでも正確に記憶し推察の速さに驚かされたことも一度や二度ではない。知識不足はあっても私より知能が劣ると思ったことは一度もなかった。ずっと真崎さんに似ていると思っていた。


 彼はうつむいたまま言った。


「そして何者にもなれなかった」


 重い声がした。


「俺の両親の目には激しい期待があった。そして、それは徐々に失望に変わった」


 この事件で多くの死とかかわった私は、その原因である彼を簡単には受け入れることができなかった。だが、今この時は彼に近づいて触れてあげたいと思ってしまった。 


「今の俺は、警察の犬として薄汚い殺し屋をしている」


 私が何もしないうちに彼は続きを話す。


「最初は普通に警察官になった。おかげさまで知能と身体能力が高かったので、同期の中で唯一、公安に振り分けられることになりました。そこからさらに深みへハマることになりました」


 ふう、とあきらめたようにため息をついた。


「警視庁公安部外事第一課第九係。俺の所属です」

「それがオオカミか……」

「そのとおり。公安の中でもトップクラスで秘匿された部署です。警察でありながら対象を処理するために編成された組織です。『公共の安全』の拡大解釈。昔の特別高等警察みたいなもんですよ。国内外の不穏分子をひたすら狩っていく」


 彼は淡々と語る。


「我々の部署で、とらえて、監禁した人間を強化尋問にかけました。EITと呼ばれる米軍が実施していた手法です。例えばヘッドフォンで爆音の音楽を流し続けて眠らせないようにする。単純ですが睡眠ができないことは精神に強烈な異常をきたします。さらに水責め、食事制限も日常的に実施していました。食事が必要な時はできるだけ屈辱感と恥辱を感じるよう、漏斗を口に突っ込んで流動食のようなものを流し込んでいました。まるで家畜か何かのように」


 思わずこぶしを硬く握っていた。自分の手のひらが湿っていくのを感じる。嫌な汗だ。


「……私でも強化尋問が情報を引き出すのに効果が無かったことを知ってる。なぜそれを警察が……」

「お偉いさんの中にEITのファンがいたんでしょう。それに、いずれにせよ、殺す人間です」


 疲れたように話す彼は、人として何かを失っているように思えた。


「見せしめと言ってもいいかもしれません。どうせ俺たちが捕まえていた人間は本国の連中にとっても捨て駒です。奴らも違法を働いていた。だから殺されても、その国の連中は責任を追及できない」


 それに、と彼は言った。


「俺自身も人を何人か殺しました。全員外国人の諜報員です」


 私は絶句した。とても法治国家の出来事とは思えない。


「俺は優秀でした。天性の才能があったと言っていい。他人の身元を洗うのも、スパイ嫌疑の証拠をつかむのも、実際の捕縛も、拷問も、そして殺しも。これが自分の遺伝的資質のなせる業なのか、とね。偶然の神から授かったギフトだ。これが運命なんだ」


 人を痛めつけて殺した、その結果が、ギフトや運命のもたらしたものだと言い切る彼の目には恍惚の光があった。


「でも、警察官がそんな違法行為を行っているのは問題だ。だから、ここでは多くの『外注』を雇うことになったんです。いつでも切り捨てられる、脛に傷を持つ奴らをね。マキタもその一人でした」


 目の光は一瞬で消えて、話を切り替えた 


「マキタの話もしましょう。分かりやすいので」


 部屋はひたすらに明るく、静かだった。聞こえるのは彼の話し声だけだ。


「マキタの本業はセキュリティホールの調査ですがね。あいつ、所々でクライアントのデータを抜いて二束三文の値段で売ってたんですよ」


 私はたじろぐ。


「あいつの相棒、冬本之人がやっていたセキュリティホールの調査に乗じてデータを抜く。お定まりのブラックハットだ」

「ユキは、その友達を信じていたよ」


 わずかな嘲笑を本田君から感じた。


「信じる価値なんてない男です。俺と組むようになってからは、外国の諜報員の疑いがある人間の強化尋問を手伝っていましたよ」

「君がやらせた、の間違いだろ」

「やったのはあいつの意志です。人を痛めつけることに良心の呵責を覚えるなんて言ってましたが、そんな上等な人間じゃない。結局自分の意志でそれを振り切れなかった。あいつは信じるに足る人間じゃない」

「でも……」


 会ったこともない男をなぜかかばいたくなった。なぜだろうと考えたとき、ユキの顔が浮かんだ。仮初だったとしても、ユキにとって大切な友情だったのではないか。


 本田君は静かに言った。


「…あいつも俺に似ていた。大切なものを壊して、死にたがっていた。そんなのはお互い分かる」

「それで、君が彼に死ぬ理由を与えてあげたとでも」

「そのとおりです。役目を終えた道具は廃棄されるだけですよ」

「君も、そろそろ役割を終えるんじゃないのか」


 わざと冷たく聞こえるように私は言った。


 彼は意に介さず、頷いた。そして説明する。


「この冤罪遺伝学システムのプロジェクトが始まったのは何年も、いや、何十年も前のことと聞いています。ですが、具体的に実装が始まったのはほんの四年前。俺は警察の身分をかくしてD-genes社に潜入することになりました」


 彼の語り口は昔話をするように穏やかなものだった。



「D-genesの動向は俺が潜入して把握することになっていました。赤坂は技術者として問題なくプロジェクトに従事しているように見えた。表も裏も、問題なく。


 科警研では真崎が、D-genes社では赤坂が冤罪遺伝学システムの構築に従事していた。


 黒田はプロジェクト当初から参加していたようですが、基本的には単に金と権力がすべての男です。警視庁の外事課から冤罪遺伝学の構想を聞かされて、官僚のパイプと政府の資金が欲しい黒田はそれに乗った。そう聞かされています。


 表のプロジェクトとして、シンドロームプロジェクトを利用することになりました。ナツさん、あなたが発起人のプロジェクトだ。DNAデータベース、そして実際の塩基配列を合成する要素を含むもので都合がよかった。


 俺はシンセバイオと連携することをあなたに勧めましたが、これは真崎のアイディアです。シンセは表のプロジェクトを進めるモノとしても悪くはない選択だが、何より裏の冤罪遺伝学を構築するのにうってつけだ。なぜならあの企業はすでに似たようなノウハウをすでに持っていたから。


 プロジェクトが順調に進んでいると思っていたある日のことです。赤坂が情報を流そうとしていることを、マキタを通じて知りました。D-genes社のセキュリティホールを調べる名目で、アカサカが調査依頼を出していると。


 そのままマキタにD-genes社の依頼を冬本に流すように伝えた。そして彼の依頼内容を聞きだすように指示しました。


 依頼内容を聞いてびっくりしましたよ。まさに今、俺たちが作っている冤罪遺伝学システムに、外部のセキュリティ調査業者がペネトレーションテストテストを仕掛けている。


 やがてこれは赤坂一人の考えじゃないことを知った。真崎も一枚かんでいるとね。


 ここにきて、上層部は関係者の処理を決めました。赤坂、真崎、冬本、そしてこの件の汚れ役をマキタに負わせて一緒に始末する。


 こいつらを冤罪遺伝学システムのPoCに使うことにしたんです。赤坂はオオカミのマキタに殺させ、部下の小西という男に罪を着せた。そして、真崎もオオカミを使って殺し、フユモトを殺人犯に仕立て上げる予定でした。


 ですが、予想外だったのは、表のプロジェクトの、何も知らないあなたが事件をかぎつけて調べだしたことです。赤坂の暴走を止められなかったこともさながら、ナツさん、あんたがここまで動き回るとは思わなかった。


 何度も止めようとしたんですがね。おかげで考え得る限り最も最悪な事態になりました。


 こうして俺は失敗して、今は処理を待つ身になっている」


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