4.風向き
通知音だ。
反射的に自分のポケットに手を突っ込もうとした。だが、私のスマートフォンは電源を切ってあるのを思い出した。ユキから連絡が来ると決心が鈍りそうだったからだ。我ながら馬鹿だと思うが仕方がない。
通知音はホンダ君の方からだった。
彼はスマートフォンを取り出し、しばらく画面を見てフリーズする。見ると、彼はどこか、何かに興味を失った顔をした。
「メモリは回収したはずだったんですがね」
彼は言った。
「新聞社にいる情報提供者から連絡がありました。冤罪遺伝学の記事が上がっている」
私はユキが仕事をやり遂げたことを知った。託したものが、うまくいったのだ。
「ナツさん、どういうことです?」
本田君が見せた表情は本当に彼の予想外の事が起こっていることを示していた。
私はコーヒーの残りをあおるように飲んだ。
〇
薄暗い漫画喫茶の個室、真崎さんの死の事実を知る前のことだ。
ユキに起こされた私は焦っていた。
「……俺のSTR配列がD-genesのデータベースに載ってる」
ユキが動揺しないように自分を制御しようとしているのを感じた。
「二、三日後には誰かの殺人の罪で、俺が捕まるかもしれない」
ユキが、殺人罪で捕まる?
私は何か言うより早く行動する。自分のスマートフォンを取り出した。メールを確認する。
「……どうした?」
「真崎さんがメモリを持っていった。普通に考えればあれは悪手だ。でも真崎さんがあの場面であんな馬鹿なことするはずない。何か狙ってたはずだ」
ユキを殺人の冤罪などにさせたくない。私は真崎さんに対するわずかな期待だけを目当てにメールのスレッドを確認する。
「何かあるはずだ」
メールボックスにはスパムメールや広告メールが何十件もある。それを一つ一つ確認した。
その中に変なメールがあった。
特定のアルファベットのみの件名。
その差出人は真崎明日香となっている。
「これだ」
差出時間は私たちがシンセバイオの駐車場を出る前だ。私たちと別れて、すぐにメールを私に送ったらしい。
「なんだこれ。AAATGT……?」
ユキが怪訝な声を出した。件名は次のような文字列だった。
AAATGTATGATGAAGCTAGAGAAAGTACT
メールの本文にはリンクが張ってある。ファイルを共有するためのクラウドサービスのためのリンクだ。どうやらクラウドに、真崎さんのメモリに含まれていた情報のバックアップが取られているようだ。
「このデータを持って、新聞社に駆け込めということか」
リンクをクリックするとパスワードの入力用のインターフェースがモニタに表示された。
「だが、件名が暗号になっている。これを読み解いてパスワードを入力しないとデータにアクセスできないみたいだな」
ユキがうめき声をあげる。
「流石に俺でもこれがDNAの配列だと言うことくらい分かるが、これをどう解けというんだ」
頭を抱えながらユキは言葉を続けた。
「スクリプトを書いて暗号のパターンの洗い出しと自動でパスワードを入力できるようにするしか……どんなに急いでも半日作業になりそうだ。いや、解読パターンが分からなければずっと解けないということもある。どんなスクリプトを書けばいいのかすら……」
「必要ないよ」
私の声にユキが振り向く。なぜ必要ないのか、と問いたげにしている。私は簡潔に理由を説明した。
「解けた」
「え?」
不思議がるユキを無視して、私は再びクラウドのリンクをクリックした。ブラウザが起動し、パスワード入力用のインターフェースを立ち上げる。
「多分、彼女にとっては暗号ですらない」
パスワードはシンプルな二語。私は彼女からの言葉に少し戸惑いながら、文字をタイプし終わる。
正解を祝うわけでもなく、そっけなくファイルが収められたディレクトリの名前が表示される。
隣を見たら、ユキが唖然とした様子で私を見ていた。
「なんだよ」
私がそういうとユキは口を開く。
「いや、いくら何でも解くのが早すぎると思って」
正直、遺伝学を修めていたら誰でも解けるとは思う。だが、驚いているユキが物珍しくて、私は少し得意げに言った。
「どうだ、すごいだろ」
そう言いながら、真崎さんが残したディレクトリの中身をひらいた。一見して構造化されており、苦労せず全体像を見ることができるようになっている。
Readme.txtと書かれたファイルを開く。
『この文書は警視庁公安部外事第一課で立案された『諸外国の諜報員に対する防諜を目的とした遺伝子鑑定システムの構築と利用に関する計画』、通称、『冤罪遺伝学計画』の全容を記したものである。
同計画には警視庁のほかに、警察庁付属研究機関である科学警察研究所、株式会社D-genes、シンセバイオジャパン株式会社が関与している。
同計画は同意なく収集した各個人の遺伝子情報をもとに、犯罪の物証を捏造し、冤罪を意図的に作り出す方法・方式の構築を目的としてる。これは現在の犯罪捜査、裁判のシステムを破壊し、社会の秩序を著しく乱すものである。
そのため本文書は、この冤罪遺伝学計画の全容を告発し、司法、世論による正当な判断を求めるものである』
そして、パラグラフの最後の一文は次の言葉で締められていた。
『文責は本計画の統括責任者である真崎明日香(科学警察研究所 法科学第一部 上席研究員)にある』
〇
「ナツさん、どういうことです?」
「単純だよ。告発データのバックアップがクラウドにもアップされてたんだ」
真崎さんが持っていたメモリデバイスは囮だった。ユキが指摘していたクラウドへのアップは当然のようになされており、そして真崎さんの死を知った直後に確認したメールの中にリンクが貼ってあった。
ユキに託したのは、D-genes社、シンセバイオ、警察庁の三者が共謀した冤罪遺伝学プロジェクトの告発文書を新聞社に流すこと。そうすれば大きな牽制になるはずだ。少なくとも警察内部の闇の部隊の存在は第三者の調査を余儀なくされるだろう。
それに加えて、真崎さんはシンセバイオの物証、冤罪の証拠となった偽造DNAサンプルを新聞社に送っていた。シェパードが受け渡そうとしたのはサンプルそのものではなく、貸しトランクサービスのアカウントだった。トランクの物証はサービスの規約にのっとり、中身が何か改められないまま、新聞社に郵送された。そのログもクラウドのデータに上げられていた。おそらく時間が無かったと思われ、そっけないメモで概要が記されていた。
真崎さんは用心深い。託されたメモリデバイスには英語に直されたレポートと外国メディアのリストがあった。もし国内のメディアに政府の圧力がかかったとしても、海外メディアが自重する必要はない。インパクトがある情報であれば、遠慮なく報道するはずだ。
もはやこの時点で勝負は私ができることは終わっている。あの新聞記者、唐木田とはすでに話がついている。もし反故にされたとしても海外メディアのリークがある。
私は緊張しながら言った。
「エージェントが新聞社にいるなら、記事の取り止めもできるのかい?」
彼は表情の抜け落ちた顔で私に言った。
「情報提供者もたいした地位にいるわけじゃないですから。公表は止められません」
「本当に?」
「もう何かする気はないですよ。風向きが変わっちまった。俺への命令も待機です」
これで終わりか。
事実を知り、自分たちの身を守るために公表に踏み切った。それが成功した以上は、この件にもはやかかわる理由はない。それに私はすでにD-genes社の社員ですらない。
命を狙われる危険も、ユキが冤罪を着せられる可能性も下がった。これ以上、何を望むことがあるだろうか。
だが、私はさらに一歩前に踏み出した。そして尋ねる。
「君が誰なのか、教えてくれ」




