5.オオカミ
「ここに今話したことの全ての記録がある」
真崎さんは手のひらサイズのメモリデバイスを振った。
「これをマスコミにリークしてほしい。それが身を守る唯一の方法」
元々その算段だ。私は彼女からデバイスを受け取ろうとした。
するとユキは気に入らなさそうに言った。
「大体話は分かった。この事件、あんたが原因だ」
たった今ユキに気づいたように真崎さんは言う。
「それで、それがあなたに何の関係が?」
「D-genesのセキュリティ調査依頼を受けて違法なデータベースを見つけちまって事件に巻き込まれたんだ。友人の自殺のおまけつきでな」
「あら、そのお友達はさぞ清廉潔白だったんでしょうね」
ユキの額には青筋が浮かんだ。
「この女……」
「ちょっと、二人とも黙って」
私は先ほどから聞こえているノックの音に注意を払った。
「どうした?」
ユキが聞いてくる。
「さっきノックの音がしてた」
「なにも聞こえないぞ」
そういった瞬間、コン、コン、と再びノックが聞こえてくる。
「ルームサービスか?」
「内線電話があるのに?」
真崎さんがゆっくり口を開いた。
「おでましね」
「え?」
「このホテルのルームサービスはまず内線で電話した後、スタッフが鍵を持って上がってくることになってる。ほかの用事でもまずは電話するわ。いきなり来てノックするのは、外部の誰か」
ホテルの高級そうなソファに深く腰掛けていた真崎さんはゆっくりと立ち上がった。
正面に座っていた私とユキはまだ動けずにいた。真崎さんはいつもの余裕を少し失っているかのように扉の方をにらんだ。
「ここを出るわ」
「正面はふさがれている。もし本当にオオカミの連中がやってきてるなら一人じゃ来てないだろう。それに……銃を所持しているはずだ」
ユキの言葉で先程撃たれたことを思い出し、私は今更ながらに怖くなった。
真崎さんは言う。
「問題ない。このホテルのこの部屋は元々要人が使用することを想定していたの。だから逃走用にバックドアがあるわ」
真崎さんの言葉に私は驚いた。
「襲撃されるのを見越して会合場所を設定したんですか?」
「そのぐらいの用心はあたりまえでしょう。おかげでものすごくお金がかかったわよ」
勝気な様子で真崎さんは答えた。だがすぐに彼女の声が震えていることに気がついた。
三人で寝室へ移動する。ノックの音が聞こえなくなった。
「本棚の裏のレバー……」
独り言をつぶやきながら真崎さんは部屋をまさぐる。
ガコッと気持ちのいい音がしたかと思ったら、そこには高さ二m程の大きなトンネルの入り口が見えた。本棚の裏に隠れていた抜け道だ。
全員素早く中に入った。扉代わりの本棚を閉じたと同時に、リビングルームの方から硬いものを砕くような音が鳴り響いた。ドアが破壊されているのだ。
「危なかった……」
ユキのつぶやきに私は完全に同意したが、真崎さんは違う意見らしい。
「まだ危機は去ってないわ。部屋の探索が終わる前に遠くに逃げなければいけない。すぐに追われることになる」
抜け道を進む。暗さに目が慣れて来ると、ここがしっかり整備された空間だと気がつく。打ちっぱなしのコンクリートは無機質だが、思いの外きれいだった。
やがて階段が見えてきた。躊躇いなく真崎さんは降りていく。
なんども踊り場と階段を繰り返し、下へ降りていった。床にわずかに光源があることを今更ながら意識する。
地上よりもさらに潜ったのではないか、と思った頃、金属製の質素な扉が見えた。
ドアノブを回しながら真崎さんは私を振り向く。
「夏希って運転免許持ってたよね?」
扉の先は駐車場で、そこにはいくつもの高級車が並んでいた。その一つに真崎さんは近づき、鍵を開ける。
運転を任されたのはミニクーパーだった。SRと違いクラッチワークが必要ないので大分操作は楽だが、車体の幅やペダルの感覚は慣れるまで少し時間がかかりそうだ。
ホテルの地下駐車場からはすんなり出ることができた。ここが一番危険だと思っていたが拍子抜けだ。
「このままどこへ行けば?」
「シンセバイオの筑波研究所へ行って」
「シンセバイオ?」
「ええ、この事件を公表するのに必要な物証があるの。警察は私、D-genesはあなた達がそれぞれ強力な証拠を持っているけど、シンセバイオだけは証拠が足りない」
ユキが怪訝な声で尋ねる。
「物証?」
「今回のPoCの物証。つまりは赤坂君の殺人事件の冤罪で捕まった男の偽造DNAサンプル」
確か小西という赤坂さんの部下だった男だ。現在は殺人の容疑で勾留されている。
「そう。これがあればシステムは絵空事ではなく、現に実用されたことが証明できる。塩基配列を調べればデータベースと照合して冤罪の男のものだとわかる」
私は気になったことを指摘した。
「合成したDNAだとどうやって示すんですか。本人からとったDNAサンプルだと反論されるのでは?」
真崎さんは助手席で笑顔を浮かべた。
「まずは本人のフルゲノムを合成しているわけではないからサイズが違う。そこで判別できるわ」
「それだと、本人のゲノムから精製したPCR産物の可能性も残るのでは?」
「ふふ、そうね。でもサンプルとして現場に残すための偽造DNAは安定化させ、かつ鑑定に耐えうるように構造を工夫してるの」
「……」
「具体的には環状DNAになってる。元のミトコンドリアDNAと同じくね。でも違うところとしてはSTR配列しか情報を持たないこと。普通のミトコンドリアDNAは遺伝子情報をもつからね、明らかに人工的なライブラリと分かる」
なるほど。これなら偽造DNAサンプルでこのシステムの存在を支持する強力な証拠になる。
後ろの席にいたユキは「わからん……」と呟き頭を抱えながら指摘した。
「その物証とやらがなくても、警察の情報とD-genesの情報だけでも十分身は守れると思うが」
「まあ、オオカミはそれで切り捨てられるでしょうね」
「だったらシンセバイオでその証拠を回収するリスクを負わなくても」
「でも」
真崎さんがユキを遮った。
「まだ悪い奴がいるのよ。この冤罪遺伝学システムは海外への輸出が最終目標なの」
後ろの座席に振り向きながらゆっくりと説明する。
「言ったでしょう。赤坂君の殺人はPoCだった。サービスとして成立しうることを証明するための実証試験だった」
「…あくまで商売ってことか」
ユキの言葉を肯定するかのように真崎さんが言葉を続けた。
「そのパイプを担うのがイギリスを本社とするシンセバイオよ。さすがDNA鑑定を生み出した国よね」
「……」
「それを完全に潰すためにも、シンセの物証が必要なの」
私はどうしても気になって聞いた。
「真崎さんが、このシステムを作ることを考案したんですか?」
「そうよ。さっき言ったでしょう。研究のためよ」
「そして今はそのシステムを壊そうとしている」
「そうね」
「なんで…何がしたいんですか?」
少しだけ逡巡した真崎さんはこう答えた。
「正しいこと」
〇
「内通者がいるの」
なぜ警備員が私たちの車を簡単に通したのか?と質問した真崎さんの回答だ。
私たちは深夜、シンセバイオに到着し建物の中に入っていった。
誰もいない研究施設の、のっぺりした廊下は暗闇に伸びている。まるで病院の通路のような薄い緑色のリノリウムの床に、無機質な白い壁。
「誰なんですか、内通者って」
「シェパードというイギリス人よ。シンセバイオの広報部門の男」
苦々しい表情をしていたと思う。D-genesでアカサカさんが会議に乱入しシェパードと接触していたのはそういうわけか。
会議室のような部屋に真崎さんは入っていった。その後に私とユキがつづく。
部屋の中央に配置されているテーブルに腰掛けながら、真崎さんは言った。
「彼とはここで落ち合う予定。彼にとっても自分のホームで交渉したいでしょうしね」
「冤罪遺伝学プロジェクトも一枚岩じゃなかった、ということですか?」
「それはそうでしょう。誰が他国の警察の人間なんか信用できる?」
ふと後をついてきていたユキが口を開く。
「なんか変じゃないか?」
真崎さんは不機嫌にユキを振り返る。
「なにが?」
「シンセバイオの連中の大部分はアンタらが作った冤罪遺伝学システムを知らないんだろう?一部のお偉いさんとその子飼いが悪さしている」
「そうね。正確にはシンセバイオ日本支部の責任者がこのプロジェクトを掌握してる。シェパードはその部下よ」
「だとしたら、なぜシェパードがアンタに協力する?日本の警察が元締めになってるオオカミだってイギリス人相手に無茶できないはずじゃないか?」
笑って真崎さんは答えた。
「彼は別に自分の身を守りたくてやってるんじゃないわ。その上司、シンセバイオ日本支部長に復讐したいだけ」
「復讐?」
「出世ルートとか報復人事とかなんやらかんやらよ。私はあんまり興味ないけどね」
そろそろ時間ね、と腕時計を見る。
ユキが再び疑問を呈した。
「やはり変だ。そのシェパードは信用できるのか?なんで部外者である俺たちをこんなところに呼び出すんだ?物証も外で受け渡せばいいんじゃないか」
「しつこい」
真崎さんが苛立った声を出す。私は真崎さんが準備したことにミスがあるということ自体があまり想像できなかった。
だが、ユキの意見には妥当性があるように思えた。もしかすると今、私たちはまずい状況に置かれているのではないか。
カチャカチャ、と音がした。私たち三人は出入口の方を見る。会議室の扉のドアノブが動いた。
「遅い……」
不平を英語で言う真崎さんの声は最後まで続かなかった。再会してから少なくとも表面上はずっと余裕に見えた彼女の表情が、初めて恐怖で歪んだ。
入ってきたのはシェパードとは別の男だった。覆面に手袋、雨具を装備した、大柄の男。手には三〇センチ程度はある、鈍く光る何かを持っている。
「逃げろ!」
ユキが叫ぶのと同時にかけだした。男が入ってきたドアから対角線上の位置にある出入口に体当たりして廊下へ出る。
リノリウムの廊下を走る。男はすぐに追いかける様子は見せない。だが自分の心臓が経験したことのないほど跳ねているように感じた。
電気がついていないエリアまで来た。ようやく私は声を発する余裕が出てきた。
「敵は一人か?他には何人いる?単独行動か?」
ユキは私の質問には答えず呻いた。
「罠をはってたんだ……動きがばれてた」
私の疑問には真崎さんが答えた。
「オオカミは全部で八人。基本二人一組のペアを組んでるから、複数の候補に戦力を分けて網を張ってたとしても、少なくとも、もう一人いるはず」
私は彼女が持つメモリデバイスが気にかかった。ここでもし誰かが敵に捕まって、メモリまで奪われたら最悪だ。
私は二人を振り返る。
「メモリデバイスは誰が持つ?」
「多分、身体能力的には俺が持つのが一番だろ」
ユキの提案を真崎さんが一蹴した。
「いやよ」
「はあ?この一大事に」
「あなたを信用してない」
「なんだと」
「虎の子のメモリをなんで信用できない人に渡すのよ」
「そもそも、なんでクラウドで共有しないんだ」
私は二人を諌めるように言った。
「いいから!」
冷静な人たちのはずだが、二人の相性の悪さと、何よりこの異常事態からハイになっている。
メモリは真崎さんに持っていてもらうことになる。私はここを抜ける算段を立てた。
「複数候補に網を張ってくれたなら逆に助かる。戦力が分散してるなら、駐車場までの距離はそんなに遠くないし逃げ切れるはずだ。車乗ったらそのまま都内方面に逃げよう」
「そのあとは?」
「一刻の猶予もない。そのまま真崎さんが持ってるメモリを新聞社の唐木田に持っていく」
真崎さんはふん、と鼻を鳴らした。
「あの俗物髭男を頼るのね」
「まあ、いつでもお仕置きできる状態なので」
ユキは横目でこちらを見る。
「いくぞ」
〇
夜の巨大な研究施設を走り抜けていく。どこかに銃や刃物を持った追手がいると思うと落ち着かない気持ちになった。
シンセバイオ筑波研究所は大学と工場を合わせたような構成だった。大きな面積の敷地には無機質で巨大な建物があったり、意匠を凝らした設計の建築物が見られた。
駐車場へ近づいていく。途中、真崎さんが何かに注意を取られて、立ち止まる。敵が近づいてきたのかもしれないと警戒したが、どうやら違うようだ。
「何してるんですか」
真崎さんの視線の先にはシンセバイオの施設案内の地図があった。パッと見たところ、なんの変哲もないモノに見える。
「早く行きましょう」
私の声に反応して、真崎さんは踵を返し一緒に駐車場まで向かう。
この遅れにユキが舌打ちでもするかと思ったが、思いのほか冷静になっているようだ。
駐車場は視界が開けた場所にある。見つからずに行けることを期待しないほうがいい。機を見計らって、一気に走っていくしかなさそうだ。
「走るぞ」
ユキの言葉に私は頷いたが、真崎さんが声を上げた。
「まって、私は残るわ」
私は驚いて言った。
「残るって、どうする気ですか」
「交渉する。ここを無事に抜けることもそうだけど、シンセバイオの証拠もなんとかしないと」
「交渉材料なんてあるのか」
ユキは心配を隠すような口ぶりで言った。
真崎さんは不敵に笑う。
「メモリを持っていくわ。私に何かあったらこのメモリの中身が公開されることになっている、って言うことにする」
「虎の子って自分で言ってただろう。どう考えてもメモリを持っていく意味なんてないぞ」
「大丈夫よ。考えがあるから」
私もあまりうまく行くようには思えない。だが、彼女に何か考えがあるという言葉を信じてもいいのだろうか。
「それに」
真崎さんはゆっくり言った。
「それに、どこかで私はこの件のけじめをつけなきゃならないのよ」
いつもの彼女みたいに韜晦するような口調ではなかった。飾り気のない言葉は本心のように思える。
「大丈夫よ、私を殺して困るのは彼ら。それに私を確保するのに少なくとも一人の手はふさがるし、時間稼ぎくらいにはなるでしょう」
私はまっすぐな真崎さんの瞳に、かつて自分が信じた彼女の姿を見たような気がした。私は言った。
「行こう、ユキ」
ユキが小さな声で、くそ、と毒づくのが聞こえた。
「いま向こうの棟に影が見えた。位置が気づかれてるぞ」
議論している暇はなかった。
「大丈夫ってその言葉、信じますよ」
ユキと私は一気にミニクーパーまで走っていく。真崎さんはその場に佇んで、何かを見ている。
ミニクーパーの鍵をリモートで開けて、車内に滑り込んでキーを差した。エンジンは一発でかかる。
ユキが助手席に乗り込んだのを確認して、アクセルを踏む。
「またカーチェイスになったら困る。できるだけ今のうちに距離を離そう」
ユキの言葉に私はうなづいた。真崎さんが言ってた交渉がどんな結果になるか想像もつかない。
もと来た道。よく整備された林の中のワインディングロードを抜けていく。
これは敗走だという気持ちがどうしても拭えなかった。




