12. 予兆
事務所に帰ってきた際に若干の違和感を覚えた。何かは特定できなかったが、俺は気にしないことにした。
「これはあくまでも俺の思い付きなんだが」
そう切り出して、俺は事務所のソファに座った。
「探偵みたいに言うね」
正面に座ったナツが茶化すのを無視して、続ける。
「ナツが最初にこの事務所に来た時、こう言っていたろ?『暴力を厭わない誰かがこの事件の裏にいる』って」
「…ああ」
「事実として、D-genesの赤坂は殺害されて、俺は駅のホームで脅迫じみた行為を受けた。そして、俺の友達はビルから飛び降りた。まるで誰かに強要されるように」
「一つの集団が、これをやったかもしれないという可能性だね」
「そう、そして」
一息ついて、一気に言う。
「もしかしたら、その集団は警察なんじゃないのか」
あまりに突飛な考えだったので、即座に否定されるかと身構えていたが、ナツは腕を組んで静かにしていた。
俺は理由を挙げていく。
「シンドローム計画に関係しているのはD-genes、シンセバイオ、そして警察庁だ。悪事をするときは必要以上にステークホルダーを増やさないのが原則だ」
「バレやすくなるからね」
「するとこの中だと暴力、いや、武力を保持している組織は警察庁だけだ」
「……赤坂さんの殺人事件で不自然に部下が逮捕されたのは、警察の自作自演と言いたいのかい?」
それこそ不自然だ、という口調だ。
「警察の身内をかばうためにスケープゴートを立てた、という話ならありそうじゃないか」
マキタもその集団に属していたのではないか。そして奴は何かの失敗を犯して……
「まって。その話はさすがに不確かすぎる」
「仮説を検討するのは悪くないだろ」
「仮説というか、まだ思いつきのレベルだ。ミスリードされた思い込みは怖いだろ。最終的には公益通報をメディアにしてもらうのに見当はずれのストーリーだと自分の身を守ることにすらならない」
騒ぐだけ騒いで、消されることもある。そもそも根拠のない憶測は記事にすらならないと唐木田に釘を刺されたのを思い出した。
「確かに陰謀論者に鞍替えしたつもりはないが……だからと言って他に推理のあてがあるわけじゃないだろう。この思いつきが箸にも棒にも掛からないか、検証の価値があるかくらいは考えてもいいんじゃないか」
ナツは眉間にしわを寄せた。ソファに片方の足を乗せて座りながら唇に指をあてる。逡巡したあとわずかに頷いてつぶやいた。
「……まあ、少しは考えてみてもいいかもね」
唇から指を離してゆっくりと淡々と言葉を並べた。
「もし、ユキのその陰謀論に乗るんなら、一つ思いついた話がある。思いのままにする方法だ」
「何を?」
「殺人事件の冤罪を作る方法」
彼女は片足をソファからおろして座り直した。険しい表情のまま切り出す。
「この前、DNA鑑定の冤罪の歴史を話したな」
「ああ」
「DNA鑑定の最大の弱点、それは『鑑定の前に証拠を偽造されること』だ」
第三者の立会や詳細な記録により証拠保全対策はされている。だが、もしも現場が保全されているという大前提が破られていればそれは成立しえない。
「だが、確かDNA鑑定の証拠の捏造は……」
「そう、基本的には極めて難易度が高い。何せ罪を着せたい相手の皮膚とか髪とか、そういった生体サンプルを入手しておく必要があるから」
一呼吸してナツは言った。
「でも、もし本人に接触せずにサンプルを得ることができれば?生体サンプルの入手難度は劇的に下がる。そしてそれこそが、赤坂さんが言っていた『冤罪遺伝学』の正体なんじゃないのか?」
「なにを……」
「D-genes社のデータベースと君の言う武力集団、そしてシンセバイオ社がいるとシステマチックに冤罪を作り出すことができる」
ナツはソファから立ち上がり、ホワイトボードの近くに歩いていく。
「D-genesのデータベースには大量のSTR配列が含まれている。これは警察が被疑者や参考人から、あるいはD-genesの遺伝子検査サービスで収集されたDNAサンプルのデータだ。データベース上にはDNAを文字列で表した情報が含まれている」
ホワイトボード上にDBという文字を書き、四角形で囲んだ。
「そして覚えているかい?シンセバイオはDNAを”書く”事業をしている。任意のDNAを物質として合成できるんだ」
ペンを走らせる。シンセバイオという箱の中にDNA合成と書かれた。
「D-genesのデータベースの情報をシンセバイオに送れば」
D-genesの箱からシンセバイオの箱に矢印が引かれる。
「このデータベースの誰のDNAでも合成できる。偽造された遺伝子鑑定用のSTR配列、偽物の生体サンプルを」
「……まさか」
「君の陰謀論に乗っているのさ。そして、もし君の言う警察の中の悪い集団がいるなら、さらに話は進められる」
今度は警察とホワイトボードに書かれた。
「誰か、例えばAさんに社会的に消えてもらいたいとする。そしたら、D-genesのデータベースから引っ張り出したAさんのDNA配列を合成して、殺人事件現場に残せばいい。これで強力な証拠とともに冤罪が起こる」
俺は唖然とした。こいつ、なんでそんなことを思いつけるんだろうか。
「その集団は、現場に証拠を残す役だけじゃなくて、冤罪を着せるための殺人事件を起こしているってことか」
「まあ、やっぱり陰謀論の域を出ないけど……」
ナツがデスクに置いたスマートフォンの画面を見て固まった。
「どうした?」
「メールだ……」
「メール?」
「……真崎さんから」
〇
俺は驚いた。こんなにタイミングよく決定的な証人から連絡が来るとは。
「なんて書いてあるんだ?」
ナツは画面を見て文字を追う。ハスキーな声で文面が読み上げられた。
「”会いましょう。私も身の危険が迫っている。詳しいことはメールでは言えないけど、一つだけ。オオカミに気を付けてね。自分の家のドアにマーキングされていたらすぐにその場を離れること”」
ナツが音読した文面に、俺は自分でも訝しげな表情になっていることがわかった。
「会いましょう、か。それはいいが文面は要領を得ないな。オオカミ?」
そのまま、ナツはスマートフォンの画面を見せてきた。そこには画像が一枚。
「ドアのひっかき傷?Wのような形だが」
かなり深刻な顔でナツは言った。
「この人が気をつけろって言ってるときは大抵尋常じゃないことが起こるからな」
そのままナツは玄関の方に行く。
「ドアをチェックするよ」
俺はキツネにつままれたような気持ちになった。手持ち無沙汰で部屋をぐるりと見渡す。
先ほどから何か違和感がある。事務所に帰ってきてからずっと。何に引っかかっているのか自分でもわからないのだが。
ふと冷蔵庫の上にコーヒー豆が置いてあるのが目に見えた。日の光に照らされてガラス瓶が輝いて見える。
……そうだ、これは確か……
ドタドタと足音がした。わずかな距離なのに走ってナツが戻ってきて言った。
「マークがついてる」
「は?」
「ドアノブにマークがついてる。写真のWのマークが!」
俺は妙に冷静だった。なるほど、すぐに部屋を離れた方がいい、というのはこういう意味か。そういえば、ここのカギ、マキタも持っていたな。
「ナツ」
荷物をまとめているナツに声をかける。彼女は珍しく慌てたような、怒ったような返事をした。
「なんだよ?」
「コーヒー豆が直射日光に当たってる」
「それ、今言うこと……」
自分で言っている途中にナツも気づいたようだ。
あのコーヒー豆の瓶はナツがわざわざ日光に当たらないような場所に移していた。そして俺はインスタントコーヒーしか淹れない。つまり、あの場所にあるわけがないのだ。俺たち以外の誰かが触らない限りは。
「盗聴器……」
常に電源を供給する必要がある盗聴器は一般にコンセントの中に仕掛けられる。
疑念が革新に変わった。
「誰かが既にこの部屋に侵入したんだ」




