11.アメ横
強いスパイスの匂いが鼻をつく。
「また高くなったな」
俺は耐油性の厚手の紙に包まれたケバブサンドを片手にぼやいた。以前からすると5割増しの値段だ。
「値上げ、仕方ない。物価高」
ケバブ屋の路面店のカウンタの向こうから片言の日本語が返ってきた。中東系の店主だ。俺の独り言を文句と捉えたらしい。
「悪かったよ。インフレの影響はどこも同じだもんな」
俺のフォローが伝わったのか分からないが、店主は鼻を鳴らし腕組みをした。ちょっと威圧感がある。カウンタ越しだが、俺より身長が大きいようだ。
アメ横にはいくつかケバブサンドの路面店がある。事務所が近いから、ちょっと小腹が減ったときに軽食代わりにケバブを買うことが多い。
俺はふう、とため息と深呼吸の間の空気を吐いて、半分道路にはみ出しているプラスチックの安いベンチに腰掛けた。ベンチは今にも崩れそうで、座った途端にギシギシ鳴った。
右手に持った、ぱんぱんに羊肉とキャベツが詰まったケバブサンドを口に頬張る。クリーミーなチリソースの風味と肉の油、野菜のシャキシャキした食感がたまらずウマい。ついでに買ったコーラも流し込む。
ジャンクな味を堪能していると、俺のそばを横切りケバブ屋の店主に向かって、
「ケバブサンド、ベリーホットで」
と、ハスキーな声が、ケバブサンド激辛を頼んだ。
その声の持ち主は、ケバブを受け取って、安っぽいベンチを軋ませもせずに、俺の隣にすとんと座る。こいつの所作の一つ一つは洗練されており、品性を体現しているようだ。なぜかわからないが、場末のケバブ屋でのふるまいとしてはマナー違反ですらある気がする。
彼女の手の中のケバブサンドを見て、俺は言った。
「辛いの好きなんだな?」
「……悪いか」
ナツは少し顔を赤らめた。恥ずかしいらしい。その割には意外と思い切りよくケバブにかぶりついた。
「ん、美味しい」
「あんまりこの辺来ないか」
「来ないね、昼ごはんも会社の近くばっかりだ。でもいつも食べてる千円くらいの薄っぺらいサンドイッチよりは美味しいね」
どうやら気に入ったみたいだ。なによりだが、戦果がナツの新しい好物、というのは頂けない。
「当てが外れたんじゃないの、ユキ」
「…そうだな。ここ数日はほとんど進捗なしだ。やはり警察でもなく、人の身辺調査は不可能だな…」
殺された赤坂の経歴と問題のデータベースの関連を調べた結果、彼が警察の研究所にいたことはわかった。そしてナツの知り合いがその研究所にいて、このプロジェクトに関わっていることも。だが、内情を知るキープレイヤーに接触できるという期待は外れた。その人物からはいまだに連絡はない。
気落ちしているように見えたのだろうか。景気づけとばかりに店主が話しかけてきた。
「お兄さんの相棒の男、最近来たよ」
「相棒?」
ナツが反応するが、俺はとっさに声が出なかった。俺の相棒。ここ数週間を別とすれば、俺が一緒に仕事で行動を共にするのは一人しかいない。
「マキタのことか?」
思わず焦ったような声が出てしまったが、それに気づかない様子で店の店主は言う。
「名前、知らない」
「俺より十五センチくらい低い…そう、この娘くらいの身長の、かわいい感じの男だろ?」
ナツを指さしながら俺は言った。隣から「この娘っていうな…」と突っ込みが入ったが気にしないことにする。
店主は頷いた。
「ケバブ好きだね」
「いつ来たんだ?」
勢いこんで訊く。もしかしたら、マキタは俺に電話をかけてそのまま自殺したように見せかけたんじゃないか。まだ生きているんじゃないか。
「一カ月前くらい」
俺は肩を落とした。一ヶ月前ならあの電話の前だ。ちょうどD-genes社からセキュリティホール調査の依頼を受けたときだろう。その頃なら当然、まだ生きているだろう。新聞で記事を確認したのになぜ期待をしたのか、俺は自分にすこし失望した。
ナツはまだブツブツ言っていた。「かわいい感じって……」と聞こえてきた。それはコイツに言ったんじゃないんだが……いや、美人ではあるが。
ふと我に戻ったようにナツは店主に聞いた。
「その人って、そんなに頻繁に店にきてる人だったのかい?」
店主は首を横に振った。
「一回だけ」
「なんでケバブ好きと?」
「一人で8個を買って行ったから」
なるほど、確かにそれなら人通りの多い商店街でも覚えてるか。
「一人で食べたってこと?それはケバブ好きだね」
ナツのチャチャに店主はニヤリと笑った。どうやら一人で食べきれない量を買ったからケバブ好きと表現したのは冗談だったらしい。
だが、俺は強烈な違和感を覚えた。
「マキタが八人分のケバブを買った?」
俺はマキタがケバブを大量に買ってきた記憶などない。大抵仕事の時は事務所に詰めているにもかかわらず、だ。
もちろん、奴のプライベートは知らないから、大量の中東風サンドイッチを買い込んでパーティをするなんてこともあるのかもしれない。だが、マキタはそんなに陽気な男ではないのは、俺がよく知っている。
店主は続けて言った。
「だけど、その一回だけで二度と買わなくなった。声かけても無駄。無視された」
「買ったケバブで腹でも下したのか」
ナツがそういうと、店主から睨まれた。飲食店で食中毒の話題は無神経すぎたかも知れない。
そう思ったが、店主の意図は違うところにあったようだ。
「その時、顔が腫れてた」
「腫れてた?」
「殴られた跡。多分、リンチ」
ケバブの残りを食べながらナツは言う。
「穏やかじゃないな」
〇
例えば俺が、のんきにケバブを食べながらハッキングができるのは、身体を用いて侵入するということがないからだ。スパイスの匂いをさせていても、デジタル越しでは誰も気づかない。
身体を使った情報収集をする連中は、紛れて行動しなければならない。街に、建物に、人に。
そんなときに邪魔になる要因はいくつもあるが、匂いもその一つだろう。特に身体が資本の連中だ。場合によっては食べ物も気を遣うのだろう。
だから、というのも変だが、だからマキタが殴られた。流儀を知らない素人の行動をしたから。諜報活動の定石に則ったらありえない行動だから。
飛躍する思考が止められなかった。
考え込む俺を心配そうにナツが見つめていた。
「……大丈夫か」
「ああ」
「少し事務所で休むか」
「そうだな、事務所に帰ろう」
ケバブ屋の安っぽいプラスチックのベンチから立ち上がる。ナツは急いた足取りになる俺に訝し気な視線を浴びせた。
「どうした?」
「いや」
「さっきから様子がへんだぞ?」
「いいだろ」
ガツガツと俺は商店街の中を抜けていく。自分が冷静でなくなっていることはよくわかっている。だが、一体どのように感情を整理すればよいのかわからなくなっていた……マキタ、お前は一体何をしていたんだ。
事務所の入居しているビルのエントランスで肩をつかまれた。ナツの手だった。
「私たちは協力関係だろう?」
俺は振り向いた。
「話したくないことなのはなんとなく察したけどさ」
ナツは無理やり俺の手をつかんだ。
「手を組んだんだから、少しは信用したらどうだい」
いつも通りの凛とした姿と落ち着いたハスキーな声。
俺の勘違いかもしれない。だが、そこにはわずかに縋りつくような、頼りないような、そんな意識がつかまれた手のひらから通じてきた気がした。
ふう、とわざとらしくため息をついて、呆れた声音を作った。
「わかったよ」
俺は自分の思いつきを説明することにする。




