8.グラス
事務所の窓からは青空が見えていたので、今日が天気なのは知っていた。だが、外に出るまでこんなに商店街が太陽に明るく照らされているとは知らなかった。
案内されたバルのテラス席に座る。正面にナツが座った。すぐに店員にビールを頼んで、俺の方を向いた。
「気持ちのいい日だ。こんな日はビールだと思わないかね、若者よ!」
席について開口一番、やたらとご機嫌な言葉。とりあえず俺も同じものを注文する。
お酒を前にしてテンションが上がっているナツは普段のクールな姿からすると幾分様子が違う。だが、あまり違和感はなかった。普段の会話からちょこちょこと子供っぽさというか、少年のような無邪気さや好奇心が見え隠れしていたからだ。
ひとまず俺は言った。
「同い年だろ」
ナツは俺のツッコミを無視して運ばれてきたグラスをかかげた。
「見てみろ!この青空と金色のコントラスト!こんな素敵な組み合わせあっていいのか?本当に大丈夫?私明日死ぬ?」
俺は独りごちた。
「こいつ……テンションを爆上げあそばせていやがる」
連日の調査に気疲れしていた俺たちは、どちらともなく飲みに行くことを提案した。暗い部屋でずっとモニタに向かってごちゃごちゃやっているのは精神衛生上良くない。それにトランプをするのも気が滅入る。
だが、ここまでこいつが酒好きとは思ってなかった。きっと精神もピカピカに清掃されることだろう。
連日の事務所の作業では気が付かなかったが、この明るい場所で見るナツが随分違って見える。無邪気な振る舞いだが、見た目はそんなに変化はないはずだ。だが改めて見ると、眼鏡の奥の切れ長な目、艶のある黒髪は人目を引くものがある。端正な顔立ちだが、今は嬉しそうな笑顔に溢れている。
思わずじっと見入ってしまっている自分を誤魔化そうと目を逸らす。
すると一杯あおったナツがこちらに視線を向ける。
「ふふ」
「どうした?」
「楽しい」
胸の鼓動が変になった気がした。
「酒好きの笑い上戸か。結構なことで」
そう言いながら、自分の鼓動のリズムが滑稽に感じた。
「ネガティブなほうがいいか?」
「……」
「私なんてどうせ、美人で頭がよくて仕事ができるだけが取り柄の女なんだ……」
「おい、どさくさに紛れて自慢すんな」
……いや、何にも紛れてもないな。
にへらっと笑いながらナツは言った。
「君にならいいかなって」
声のトーンは普段とそんなに変わらないのに、なんとなく甘えているように聞こえる。
いや、落ち着け。自慢話してもいい、というぐらいどうでも良い関係ということを言っているだけだ。
俺もビールをあおった。商店街の街並みと高架の隙間に青空が見えた。
〇
「ユキ」
三、四杯ビールを飲んだ後でナツは言った。先ほどより幾分しずかだ。
「トランプが好きで、コーヒー豆を挽いてたのは誰だい?」
俺の事務所のトランプとコーヒー豆のことだ。好きでもないトランプが事務所にあるのは不自然だ。それに、俺はインスタントしか淹れないから、誰か、コーヒー好きな別の人間が事務所にいたことになる。
俺はジョッキを置いた。
「知人のものだ。共同で商売していた」
……そしてこの前、ビルの屋上から飛び降りた。
平坦な声で、ナツは続けて言った。
「君の、友達だった?」
意を決して自分が発言しようとしているということを悟られないように、できるだけ抑揚を抑えたのではないか。そう思わせる震えのようなものがあった。
ビールのグラスに口をつけようとして、空になっているのに気がつく。答えをはぐらかすのも少しやりづらい。
ナツは俺の返答を待っているようだった。俺が知人と言ったのを、わざわざ掘り返すのだ。多分、踏み込むのには勇気がいるのだろう。
そう思って俺は答えた。
「AV好きの、どうしようもない奴だよ。女子高生が尿意を我慢する作品が好きだった」
一瞬唖然として、その後慌てたナツの表情が見られた。
「待て、いい話風の導入でとんでもない性癖のカミングアウトをしないでくれるか」
俺はしみじみ思い出しながら言った。
「俺が『そいつは女優だ、素人じゃない』と言っても聞かずに、『絶対素人女子高生が出演している』と言い張っていたな」
なぜ見知らぬ男の性癖を語られなければならないんだ、とごちゃごちゃ言うナツをスルーして俺は続ける。
「そんなどうしようもない奴だったんだが、妙なところで真面目でな。厳格な家庭で、自分の能力を社会に還元することが価値観の全部だった」
自分の頬が皮肉にゆがむのを感じた。
「子供のころに受けさせられた遺伝子検査の結果がそれに拍車をかけたんだな。あいつの知能は一般にギフテッドといわれる基準を大幅に超えていたんだ。何かをなすことを期待されてた」
ナツはなにも言わなかった。どんな感情を抱いているかは分かりようがない。
俺は、飲んだくれてくだを巻くマキタの顔を思い出した。
「……期待には応えられなかったって、酔って泣いてたな」
人生は配られたカードで勝負するしかない。いつしか俺がマキタにそう言ったとき、あいつの顔に目を向けられなかった。でも、多分笑っていたんじゃないかと思う。どんなに美しい手札が来ても、負けたら惨めな人生が待っている。そんな、乾いた笑い方で。
「人生を斜に構えて見ている奴だったが、仕事はできる奴だった。それって結構重要だ。自分以外のことに向き合ってるってことだから」
あいつは仕事で起きた何かを自分の思い込みで捻じ曲げて解釈はしていなかった。もしかしたらそれは単に能力が高かっただけなのかもしれないが、それでも、自分の過去に引きずられないように、他人に向き合おうとする姿勢だったんじゃないか。そう思っていた。
だが、結局、それも長くは続かなかったのだ。
「あいつは、大馬鹿野郎だ……でも、そう言ってやる前に死んだ」
俺はあいつに、向き合わなければならなかったのだ。
甘えんな、しっかりしろ、前を向け。
愚にもつかない馬鹿な説教を、あいつが生きている時にするべきだった。
それが友達甲斐だったはずだ。
それで例え、喧嘩になったとしても、何も変わらないとしても、冷たく見ないふりをするよりもずっとましだった。
しばらく、ナツは黙って聞いていた。商店街の雑踏の音が聞こえた。
話を切り替えようとして俺は言った。
「ナツのことも教えてくれよ」
「ん、どんなことが知りたい?」
「なんで研究者なのに、事業開発やってるのか、とか」
自分のことを話しすぎたので、その代わりに、少しだけナツに踏み込むことにした。
少しだけナツの表情が陰った。ビールグラスを持ったが、口をつけずにナツはぽつりと言った。
「……そうだね……私は、信じてたんだけどな」
「……何を?」
ふとナツの口の端が自称気味に上がった。
「彼女のことを」
この前言っていた、怠惰が信条の部下のことだろうか?俺が聞く前にナツの口は動いた。
「ごめんね、まだ整理がついてないから」
困ったようなナツの表情が目に映った。これ以上の詮索はやめた方がいいだろう。
「大丈夫だ、無理に聞こうなんて思ってない」
ナツから話してもらえなかったことに、ほんの少しだけ落胆した自分がいた。俺はまだ信用に足る相手じゃないのだろう。それはそうだ。数週間一緒に行動を共にしているだけなのだから。
そんな俺の考えを見透かすように、ナツは言った。
「いつか、絶対に話すから…今日は許してね」
女性としては低く、ハスキーな、少年のようにも聞こえる声で彼女はそう言った。
もしかしたら俺の内面が表情に出ていて、気を遣わせたのかもしれないな。そう思うと途端に恥ずかしくなった。
ごまかすように俺はテーブルの上を指した。
「グラス、空だな」




