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冤罪遺伝学  作者: 早雲
第三幕
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7.手詰まり

 ナツはほとんど毎日と言っていいくらい事務所にやってきて、STRデータベースの中身を精査していく。お陰でどのようなデータが取られているか、おおよそ把握することができた。


「STR配列がメインのデータベースではあるが、同時にフルゲノムを取られている場合がままあるな。そしてそのデータから得られた身体的特徴や病気のリスク、先祖のルーツなども示されていた。これは遺伝子検査サービスで得られる情報だ」


 ナツの言葉に俺は頷く。


 STRデータを取られた人物にも予想がついてきた。まずは何かしらの事件を起こすなどして警察にお世話になった人たちのグループ。報道された犯罪者の名前もいくつか見られた。またあるいは実際に罪を犯してなくても任意の検体提出により得られた場合もあるだろう。これらはどう見ても警察から流用されたデータだ。


 そして遺伝子検査サービスの利用者と思われる人たち。恐ろしいことだ。検査サービスを利用したつもりが個人同定のDNAを調べられているなんて誰も思わない。


 少しずつこの事件の輪郭が見えてきたような気がする。そして赤坂の経歴もこの件に大きく関わっていることを示している。誰か何をしたのかは部分的に明らかになってきた。


 だが、調査は手詰まりになった。警察ではないので人の経歴をこれ以上洗うのも難しい。


 俺はふと声を漏らした。


「赤坂がこの件に深くかかわっているのは確実なんだが、これ以上デスクトップサーチをしてもめぼしい情報が得られないな」

「黒田さんの方も似たような状況だな。D-genesの重役としての記事はいくつも出てくるが、経歴以上のことは出てこない」

「はずれのアプローチだったか」


 俺はあの髭の新聞記者が馬鹿にしたように言った『宿題に決まってるでしょ』という助言に素直に従った自分に腹が立ってきた。


 俺がそう言うと、ナツがフォローする。


「公開データでわかることは全部集めてから足を使うほうが効率いいのは確かだよ。確かに唐木田は腹が立つ男だけどね」


 今ようやくあの髭が唐木田という名前だと分かった。それはどうでもいいのだが。


「それでも分かったことはある」

「あの黒田の経歴……」

「ああ、先見の明があったというべきかな」


 三十年ほど前のことだ。お隣の国で遺伝子検査によって子どもの才能をいち早く見出す取り組みが始まった。英才教育を受けさせる価値のある優秀な原石を見つけるためだ。


 一定の成果が上がったためか、遺伝子検査による選別の必要性が日本でも叫ばれ始めた。もちろんそれは一部の過激派の意見だったが、そこに便乗した会社があった。


「まさかその遺伝子検査事業を立ち上げたのが、黒田さん本人とはね」


 遺伝子検査による選別の必要性の潮流に乗りD-genes社、もっと言えば黒田たちの部署は新規事業を立ち上げた。今までの予防医療としての遺伝子検査とは別に、遺伝子検査によるリソース選別を可能にするサービスをローンチしたのだ。


 一人の人間が社会情勢に与える影響は、そんなに大きくないのだと思う。だが、それでも黒田が作ったビジネスが大分世の中を変えた。


 俺は過去を思い出した。自分と同じ立場の友達。それらが急に異なる道に振り分けられる……自分たちに勝手に配られたカードで。


 俺は過去を振り切るようにして、軽く頭を振る。今はそんなことを考えている時ではない。


「例の先輩から連絡は来たか?」


 俺の質問に額に手を当てながらナツが答えた。


「なんの音沙汰もない。メールも電話も着信拒否されてるわけじゃないんだが……」

「頼みの綱だと思っていたが、この線もハズレかもしれないな……」



 ローテーブルの上にトランプのカードが並んでいる。中央に置かれた五枚の裏返されたカード、そしてそれとは別に俺とナツ、それぞれの近くに二枚ずつカードが裏返しで置かれた。


 長時間の作業の後の手詰まりだ。すこし休憩を取ろうと俺は提案した。するとナツが目ざとく事務所に置いてあったトランプを見つけてきた。マキタが持ち込んだものだ。


 そんなわけで、ナツの希望で、小銭をチップ代わりにテキサスホールデムがプレイされていた。あまり俺はカードゲームが好きじゃないが、あえて辞退するものでもないと思い付き合うことにした。


 カードを配るナツを見ながら、俺は言った。


「普通、STR配列はD-genesのサーバーに保存されていたりしないのか?」


 ナツは配った自分の手札を覗き込むように確認した。表情からは手の強さは読み取れない。


「個人の同定はD-genes社が提供しているものとは別のサービスだ」


 そう言いながら、ナツは俺にカードを見るよう手で促す。大して強いカードの組ではないが、どうせ遊びだ。俺は持分の半分を場に出した。


 ナツはわずかに首をかしげる。だが、すぐにコールを宣言して同じ額のチップを出した。


「検査サービスを使うお客さんは自分の遺伝子に定義されている情報を知りたくてお金を払ってる。身体情報や病気のリスク、知的能力、性格……」


 ナツの手が場のカードを一枚一枚めくっていく。三枚目をめくったところで俺は尋ねる。


「だから、本来D-genes社がSTR配列のデータベースを持っていることはありえない?」

「そう。前も言ったけど、STR配列は機能を持った遺伝子ではないからね。親子鑑定や犯罪捜査でもない限り、ほとんど調べる必要のないDNA領域だ」


 さてどうする?とカードを指してナツは言った。手元のカードと場のカードを見た。やはり強い手じゃない。だが、構わず俺は小銭をテーブル中央に押し出す。


 それに応じるようにナツが言った。


「コール」


 ナツも同額をかけたことになる。


 俺は自分の思考を整理しようと質問した。


「STR配列という遺伝子は機能を持たない、と言っていたな。機能を持つ遺伝子とそうでないものがあるのか?」


 改めて自分の理解していなかった部分の質問だ。


 場の四枚目のカードをめくって表にしながらナツは言った。


「なるほど」


 ナツはゆっくり考える仕草をして言葉をつづけた。


「君、そもそもDNAと遺伝子の違いが分かってないな」


 そんな風にはっきり言われると少し恥ずかしくなる。精々俺は胸を張ることにした。


「エキスパートのナツならうまく説明できるんだろ?」


 俺は再び小銭を中央に押し出す。間髪入れずにナツが言った。


「コール。DNAは物質名だ。でもデタラメに並んでいても意味はない。必要な規則で並んでこそ機能を発揮する。それが遺伝子として意味を持つということだ」

「STRは?ゲノムのバーコードと言っていたが、STRには規則性はないと?」

「STR配列も規則性はあるけど、遺伝子の規則性じゃない。単純な繰り返し構造だよ。だから機能を持たない」


 段々分かってきた。つまり、DNAはフラッシュメモリなどのハードで、その上にどんな情報も載せられる。だが、例えばテキストファイルとして読み込ませるなら、文字コードなどの規則性を持っていないと使える情報にならない。テキストファイルなどの使える情報というのが遺伝子。そんなところだろう。


 五枚目のカードをナツがめくる。


 これで俺の手に役がないことが確定した。ナツの手に役が入っていて、勝負ショーダウンになると俺は負けるだろう。


 無造作に追加の小銭を押し出す。どうせ遊びだ。俺は再び自分に言い聞かせる。


 俺が出した小銭よりもナツは多くを場に出した。


「レイズ」


 ナツの言葉に俺はコールで応えた。


「随分迷いないね。自信があるのか、それとも……」


 お互いの手札をあける。俺の手には何の役も入っていないのと対照的に、ナツはジャックとクイーンのツーペアだった。賭けたチップが持っていかれる。


 手元には小銭が一枚だけ。強制ベットの最低額が決まっているので、次のゲームには行けない。


「俺の負けだな」


 俺の様子から何かを読み取ったのか、ナツが微笑んだ。


「ふふ、あんまりトランプは好きじゃないかい?」


 図星をつかれた。


「運任せはそんなに好きじゃないんでな」


 俺は少しはぐらかすように答えたが、どこか心を見透かされているようで落ち着かない。


 話を切り替えようとして、先ほどの話題を引っ張り出す。


「さっきの質問の続きだが、どうしてD-genes社は遺伝子検査の企業なのにも関わらず、STR配列のデータベースを構築するのが問題になるんだ?遺伝子鑑定をしたい人は自分でサンプルを提供してくれるんだろ?」


 提供されるサンプルのDNAの中には、STR配列もある。それを抜き取ればいいと思うのは確かに倫理にもとるが、普通にあり得る話だ。


 ナツはカードをかき集めデッキを作りながら言った。


「まず、個人の同定を目的としたDNA鑑定のサンプルは基本的に民間企業に収集権限がない」

「そうなのか?」

「DNAサンプルを集めて照合するということは、誰かに唾液や血液のサンプルの提供を求めるという事だ。ボランティアならあり得るだろうが、民間企業が強制的に集めるのは無理だ」

「それはそうだが、顧客は自分の意志でサンプルを提供してくれるんだろ?そこからSTR配列も抜き取っちまえばいい」

「それも無理だ。技術的に言えば、STRを検査する方法と遺伝子検査サービスで使う方法は異なる」


 ナツはパンツスーツの足を組んだ。


「遺伝子検査サービスで行う塩基配列決定のルーティンでは、次世代シーケンサ(NGS)を使っている。全ゲノム解析としているが、STR配列はリピートなのでD-genesで扱うグレードであるスキャフォールドでは正確に情報を取得できない。リピート配列取得にはコンプリートゲノムを得る必要がある。それにもしコンプリートゲノムを得られたとしてもSTRを抜き出すためのプログラムを書かなければデータベースにSTR配列が保存されるということはあり得ない」

「…つまり、どういうことだ?」

「STR配列の検査と普通の遺伝子検査は異なる方法だってこと」

「異なる方法?」

「まあ、NGS用のSTR検査用キットもありはするが、基本的には電気泳動法がゴールドスタンダードだ。このデータベースのリストに乗っている表に打たれた数字の形式から見るに、おそらくNGSではなく電気泳動法を使っていると思う」

「……」

「つまり、これはD-genesの検査で意図せず収集されたデータではないということさ。そして何かしらの目的をもって、このSTR配列は集められている」


 だとすると、このデータベースはD-genesの内部の誰かが意図的に情報を収集して構築されていることになる。


 それに、とナツは続ける。

「それに法的には、DNA検査ビジネスは、利用目的以外の使用は個人情報保護法によって守られる。依頼に関係のない個人識別のためのSTR配列を検査するのは利用目的に反する。当然、勝手にSTR配列を取得することも、第三者へ流すことも禁じられる」


 ナツは深くため息をついた。


「まあ、あくまで表面上は、だが」

「含みがあるな」

「制度に穴がないわけでもない。例えば、警察による捜査でさえ、本来は捜査機関による不要な身体情報などの取得を禁ずる規定が求められる。だが、その法令の整備は滞っている。民間会社のDNA検査にしたって、どんな検査を行っているかなどの内部監査はあるだろうが、民間人にはどこまでやっているかは判断できないだろう」

「……」

「警察庁も協力しているようだから、そこに保存されていたデータも多分に含まれている。だとするとD-genesの力だけで集めたものじゃないだろうがね」


 俺はここまで話を聞いて、自分のもやもやが何かを理解した。ナツに尋ねる。


「それにしても、こんなデータベースを集めていったいどうするっていうんだ?」

「民間企業がするとこはいつも決まってる」


 ナツが皮肉に口の端を歪める。俺は言った。


「利潤を最大化することか。だがどう金に換える?」

「個人のDNAデータの価値はどんどん上がってるだろう。誰でも遺伝子検査をする時代だ。大体の人はその人自身のDNAデータをどこかの遺伝子検査会社のサーバーに保存している」


 続けてナツが言う。


「昔は名前と電話番号でお小遣いが稼げた。遺伝子データも悪いことに使いようがあるんだろう」

「どうやって使うか、皆目見当もつかないが」


 自分の健康や病気のリスク、見えない体の特徴、祖先のルーツ。それらを知りたいから金を払うというのは分かりやすい。だが、個人の特定のためのDNA鑑定は何に使われる?


 ナツは手首をそろえてこぶしを握った様子を作る。俺は首を傾げた。


「なんだ」

「…逮捕されたときの決定打になるだろ、DNA鑑定の結果は」


 嫌な可能性に思い至る。


「まさか。警察の捜査の鑑定結果を捏造することに使うのか?」


 ナツは曖昧に首を振る。


「もちろん、まだ確かなことは言えない。でも、アカサカさんの事件で捕まった小西という部下はDNA鑑定が決め手になって逮捕された」

「……」

「どうやるのか、具体的な方法はまだわからない。だが、この件に関連はあるとおもう」

「だからって金が稼げるか?」

「自分や自分の身内の罪を、別の誰かになすりつけたい金持ちはいくらでもいるだろ」


 なるほど、なんとなくわかってきた。だがまだ疑問は残る。


「そもそも警察の捜査に偽造が通用することなんてあるのか?」


 ナツはソファの背もたれに深く腰掛け、事務所の天井を見ながら言った。


「DNA鑑定結果の捏造の歴史は実はかなり初期からあるんだ」


 組んだ足を元に戻しながら、おもむろに先ほど置いたデッキを手に取った。


「たとえば、ピッチフォーク・ケリー事件という連続婦女強姦殺人事件では、犯人が血液サンプル提出時に別の人間のサンプルを自分のものと偽って提出した」


 手慣れた手つきでカードをシャッフルしながら説明を続けた。


「この偽装はすぐに明るみに出たが、サンプル採取がこのDNA鑑定の大きな弱点であることは間違いないな。この事件が起こったのはDNA指紋の鑑定技術が発表された一九八〇年代だ」

「昔の話だろう?」


 俺の指摘にナツは頷く。


「もちろん、技術の進歩によって、検査精度はどんどん上がっている」


 シャッフルされたデッキを差し出して、カードを一枚引くようナツが促した。俺はカードを引く。黒い菱形とアラビア数字の8が見える。


「でもどんなに精度が上がっても、それ以前の問題がある」


 ナツはカードを渡すよう指先をくいっと何度か曲げる。俺はカードをナツに渡した。カードを再びシャッフルしながらナツは言う。


「それは”鑑定の前に偽装工作された証拠を見破る”のが極めて困難だという事だ」


 最初から脆弱性を持った手法だということだ。そしてそれは大きなリスクを持った脅威だ。セキュリティエンジニアとしては、かなり恐ろしい穴が開いたシステムに思える。


「O.J.シンプソン事件では、問題となった手袋の血痕が警察による偽装の可能性があるとし、刑事事件では無罪になっている。偽装に対する対策は、試料採取は第三者の立会や詳細な記録などの証拠保全手続きを明確に定め、それを守ることである。だが、それは現場が保全されていることが前提だ。もし事前に偽装された現場であれば、真偽を見破るのは極めて困難だ」


 俺は事の重大さを理解し始めていた。これはもしかすると強力な冤罪装置なのではないか。


「赤坂は他殺だ。でも犯人は否認している。遺伝子鑑定で上がった証拠が確たるものだ」


 俺の言葉にうなづき、ナツは言った。


「方法はわからない。だけど、証拠の捏造をすることは不可能じゃない。それは歴史が証明してる」


 そしてシャッフルしたデッキから一枚のカードを引いて見せる。


 ダイヤの8。俺が引いたものと同じカードだった。ナツはニッと得意げに笑いながら言う。


「事前に仕込めばイカサマも難しくないだろ」


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