3.コングロマリット
数日前のことだ。俺たちは受託依頼用のメールアドレスにD-genes社からセキュリティホールの調査依頼を受け取った。
俺はソファに深く腰掛けながら、プリントアウトした書類を眺めていた。
A4の紙にプリントされているのはD-genes社から受け取った業務依頼のメールだった。一通り定型的な依頼事項の確認を行う。雰囲気は悪くない。皮算用はよくないが契約も問題なく取れそうだ。
「その仕事、受けれそう?」
中性的な声が頭の上から降ってくる。書類に目を落としたまま、俺は答える。
「遺伝子検査会社、というのは初めてだが、データセキュリティの分野ではあるし、仕事自体はこなせるだろうな。問題は先方が俺たちを信用するか、だ」
中性的な声の主のマキタは、俺の向かい合わせにあるソファに座ると、足を組みながら言った。
「大丈夫じゃない?向こうから僕らに声かけてきたし、受注の可能性は低くなさそうだよ」
書類をソファの間に置かれたローテーブルの上へと置くとマキタも書類をのぞき込むように身を乗り出した。ここは決して広くはない事務所だが、それでも自分の城があるというのは良いものだ。前の入居者が置いていった客間の黒い合皮のソファは、表面がひび割れているが不思議となじんでしまっていた。
俺はマキタの顔を見る。比較的小柄でかわいらしい顔をしているが、これで案外肝の据わった男である。主に顧客折衝をマキタは担当していているが、中には荒っぽい客もいないではない。そんな時に冷静に交渉条件を切っていく姿には頼もしさすら覚えることもある。
そして一方の俺は技術担当。とはいっても二人所帯の小さな個人事務所だ。結局どちらも似たような雑事をこなす羽目になる。
「それにしても、最初にこの仕事を取ってきたのはお前だが、その割には随分あっさりしているな」
すでに俺が仕事を引き継いだので気楽なのかもしれない、と思ったが一応そんな言葉を投げかけてみる。マキタはそれに答えずにすっと尋ねた。
「D-genes本社には今週行くの?」
「いや、日程調整のメールをさっき送ったところだから分からないが、多分来週だろうな」
座っているソファのスプリングがキッと鳴った。悪くない座り心地なのだが、前の持ち主も含めると長い期間使っている。軋みの一つや二つも出るだろう。
マキタもソファの音に気がついたようだ。眉根をしかめる。おそらく奴は顧客候補を呼ぶ可能性がある客間にオンボロのソファが鎮座しているのが気に食わないのだろう。どうせミーティングはウェブか客先だから、と俺が買い替えを渋っているのも不満の要因かもしれない。
せめてもの抵抗としてマキタは常に客間を清潔に保つために清掃をかかさない。おそらくこのソファが心地よいのはそのおかげもある。その心地よさが俺にソファを買い替える必然性を薄れさせているのであれば、マキタの努力は裏目に出ていると言えるだろう。
とにかく、客先に行く前に知識が必要だ、と思い、深く腰掛けていた姿勢から前のめりの姿勢でマキタの方を向いた。
「依頼が来ているD-genesは遺伝子検査の会社だよな。DNA検査データって、リスクはどの程度のものなんだ?」
「あのね、ユキ。個人情報漏洩が、如何に社会問題になってるかわかるだろ?どっかの行政機関が顧客の名前と住所と電話を漏らして、大ニュースになってるじゃんか」
マキタはため息をそのまま言葉にしたような声で応じた。
「DNAデータってのはさ、『究極の個人情報』なんだよ。このデータからは人種、家族、病気のリスク、精神的傾向など様々な情報が含まれている」
紋切り型の説明をされて自分の口が皮肉に歪むのを感じた。
「流石に俺もそのくらい知っているさ。遺伝子検査は全盛期。誰もかれもが予防医療の一環で検査を受けている」
ネットの広告でもバンバン流れている。耳にしていない方がおかしいくらいだ。
「じゃあ当然、DNAデータはハッキングを仕掛ける者達にとっては、プライオリティでしょ。遺伝子差別の問題も深刻になっているんだ。情報を取られて公表されれば不利益になる例なんて沢山ある」
「なるほど、遺伝子検査を請け負う会社は情報の集約を一手に受けている。クラッカー垂涎の標的だな」
ソファに深く寄りかかりながら、仕上げとばかりにマキタは言った。
「ましてや、D-genesは世界最強の遺伝子検査コングロマリットだ。セキュリティがどれだけ大事が分かるだろ?」
オンボロのソファが再びキッと鳴った。
ホワイトハットハッカーとして、俺たちは企業のセキュリティ保護の仕事をしている。
企業から依頼を受けて、実際にその企業自身のネットワークやデータベースにハッキングをかける。そうすることで、セキュリティに穴がないかを調べる。ペネトレーションテストとも呼ばれる方法だ。
ホワイトハットハッカーなんて格好つけた職種名は一般には使わない。通常はセキュリティエンジニアとかそんな無味乾燥な呼び方をされる。マキタの好みの呼称というだけだ。
大学では情報系の学部に所属していたためか、アルバイトの延長でプログラマーやセキリティエンジニアリングの仕事をすることが多かった。特に集客力があったわけではないが、仕事を取るためのプラットフォームは世の中にわんさか溢れている。多少の腕さえあれば意外にも食うに困らないような状態になった。
結局俺は大学を卒業しても、そのままフリーランスを続けることにした。稼ぎは良くも悪くもないが、まだ心身ともに健康で生活ができる程度には金が入った。運が良かったのかもしれない。
なぜ普通に就職や進学をしなかったのだろう?自分でも不思議に思った。
中学生の頃、大きなため息をついた俺は、それでも社会の構成員に違いなかった。人生という手札が決まっているゲームをプレイする必要があった。
だけど、もしかしたら反抗したくなったのかもしれない。ゲームを降りることはできなくても、ちょっと変わったルートを進みたかったのかもしれない。
徐々に俺の仕事はセキュリティエンジニアリングに比重が寄っていった。
結果的に言えば、この仕事は非常に俺に合っていた。コンピュータは好きだったし、クライアントを相手にする煩わしさもあまり気にならなかった。ハッキングを仕事にするというのも人生ゲームへのちょっとした反抗としては丁度よかったのかもしれない。
いくつも依頼をこなしていくうちに俺自身の名も顧客に認知されるようになってきた。この仕事は天職なのかもしれないと思った。
それが例え、レジスタンスを気取った自己イメージという麻酔だったとしても。




