5.公益通知
地下鉄に乗って、九段下駅から地上に出る。すぐに秋晴れの空と、旧江戸城の城壁、靖国神社の巨大な鳥居が出迎える。足元を見ると、自分の立っている場所が坂であることに気が付いた。駅の出口は靖国神社へ向かう坂の中腹にあるようだ。
俺は気を落ち着かせる為に紙カップに入ったコーヒーに口をつけた。香ばしい風味が鼻を通り抜けるのが新鮮に感じる。手間をかけてドリップコーヒーを淹れるのは、案外悪くないかもしれない。
ぼんやりそんなことを考えながら、俺たちは坂を下った。先導するナツに俺は声をかける。
「具体的に内部告発をするって言っても何をゴールにする気なんだ?」
そう。秋の陽気とコーヒーの香ばしさを感じながら歩いているが、今日の目的は内部告発の準備だ。
ナツが俺の疑問に答えた。
「そうだな……じゃあ、少し説明させてくれ。内部告発とは法的には公益通報者保護法における公益通報を差す」
「公益通報?」
「簡単に言えば、自らが勤務する事業で生じている法令違反を行政やマスコミにリークすることかな」
大学の講師のような説明口調で、ナツは歩きながら人差し指を立てる。妙にその姿が板についている。俺は学生に戻った気がした。
「そのためには確実な証拠をあつめる必要がある。法的是正を求める場合は行政機関への報告が一般的だ。もっと一般性のある事件ならマスコミ。だがマスコミへのリークはリスクが高い」
学生よろしく俺は質問する。
「なぜリスクが高い?」
「意図していない報道をされる可能性があるからな」
なるほど、それはそうだろう。金にならないような、つまりは話題にならないような報道はきっとしない。
坂を降りてすぐに左へ。明治か大正に作られたと思しき立派な洋館を右手にさらに歩を進める。散歩には良い日だ。
流暢に説明していたナツの声が少し淀んだ。
「とはいえ、行政へのリークもかなり危ない。通常なら第一選択にするべきだが」
「だが?」
「今回の件は警察庁が絡んでるかもしれないからな」
それはそうだ。犯罪を報告した先が、その元締めでした、というのでは話にならない。
「悩ましいところだが、いずれにせよ、具体的な証拠が必要だ」
堀に囲まれた石垣を横目に歩き続ける。この辺はランニングしている人が多い。ランナーが非常に早いペースで俺たちとすれ違った。
ふと疑問が頭をもたげる。俺は言った。
「STRデータベースでは証拠にならないのか?手元にコピーもしてあるが」
「もちろん十分な証拠になりうるが」
ナツは渋い顔だ。
「殺人事件との関連が証明されない」
「……状況証拠としては十分だろ」
「状況証拠はあくまで推論。どんなに確度が高くても想像の域を出ない」
俺は納得がいかなかった。そんな俺にナツは言う。
「どんなに尤もらしいストーリーでも状況証拠だけでは動かない。当たり前さ。できれば問題なんて存在しないと思える方が好都合だ」
「だから、確たる証拠を探すと」
「もちろん確たる証拠ってものを突き詰めすぎると、そんなものは現実的じゃなくなる。でも、事件のストーリーを語って、そのディテールを説明可能で、且つ論証をサポートする証拠がいるんだ」
目的は決まった。この冤罪データベースの全容の把握とマキタをはじめとする殺人事件との関連の有無の確認をする。そして……
「悪いことしている奴らの恥を世間にさらす」
好戦的にナツが言った。
つまり調べるべきは、データベース、そして殺人事件の正確な状況の二つだ。
システム全体の把握が先決だ。どんな流れでこのプロジェクトが行われているのか、まだ判断がつかない。
だがすぐに別の不安が頭をよぎる。
「だが、それ以上に公益通報っていっても、どこの誰に、どうやって話をつけるんだ?警察は危ないんだろ?」
俺よりも前を歩いていたナツが止まった。
「ここだよ」
見上げると現代的なビルの看板が目に入る。日本で最も有名な新聞社の看板だ。
「知合いがいるんだ」
こともなげに身を翻して入口に向かうナツを見て、間抜けなことにしばらく呆然とした後、彼女の後を追う。
〇
「ねえ、君、遺伝子検査コングロマリットと警察庁が組んで違法のDNAデータベースを構築してるかもって話に興味ない?」
俺たちが通されたのは新聞社の応接間だった。革張りのソファは俺の事務所の物と形は違うが、圧倒的に大きさが違う。
そんな空間に妙に緊張していた俺をよそに、ナツはこともなげにとんでもない一言で交渉を始めていた。
男の顎髭を撫でる手が止まった。
俺は焦って小声でナツに言った。
「おい、とんでもねえとこから説明してんじゃねえよ」
ナツは涼しい顔だ。
「こういうのは要件から入った方がいいんだよ」
「いや、引いてるじゃねえか」
目の前のポロシャツを着た男は髭の生えた顎に触れたまま、しばらく表情を動かさなかったが、ようやくといった様子で言った。
「相変わらず過激だね、ナツちゃん?」
「名前で呼ぶのはやめてほしいんだが」
「つっけんどんな態度をとらないでよ。俺とナツちゃんの仲だろ?」
「相変わらず軽薄だな」
男は最初こそ面食らっていたが、すぐに調子を取り戻したようだ。立派な髭に眼鏡を掛け、分厚い体をポロシャツで覆ったその男のどっしりした見た目とは裏腹に、その言葉は妙に軽い。
ナツは俺に小声で言った。
「どうせまともに取り合わないんだから、極端な要件から言ったほうがいいんだよ」
男はその言葉に反応する。
「まともに取り合わない何てことないさ。僕は公正な社会と公益のために身を粉にするジャーナリストだよ」
眼鏡のブリッジを指でグイっと持ち上げた。その仕草も妙に芝居がかっていて胡散臭い。
「記事が売れればいいだけの俗物だよ」
ナツの言葉に、空気がピリつく。比較的温厚な性格に思えたが、ナツのその冷たい表情は人間の一面性を否定するかのようだ。
俺は数分前にビルの応接間に通される前の会話を思い出した。
『その知り合いって信用できるのか?』
『人間性は信用できないよ。だけど、能力が高いからね』
『どうやって知り合ったんだ?』
ナツはうつむいた。あまり言いたいことではなさそうだ。それを裏付けるかのようにボソッと曖昧に口を開く。
『ま、そのうちね』
なるほど、さっきの会話で言っていた人間性は信用できないというナツの言葉は、ナツ自身がこいつに持っている嫌悪から来ていたのか。
「それじゃ記事にならないね」
端でやり取りを聞いているだけだが、俺は早くもこの男が嫌いになってきた。この男の会話の態度はまず否定から入る。それもよく考えずにそれっぽいことを取り繕うように聞こえる。なんだか部下をネチネチいびる上司のような態度だ……就職したことがないから知らないが。
ナツは悠然と足を組んでいった。
「ねえ、そんな態度でいいのかい?」
「態度?」
「私はね、借りを返してもらいに来たんだよ。あの件で彼女を追い回しただろ?どうやって追いまわしたか、映像をもう一度みて思い出すかい?」
心なしか男の顔が青ざめたようだ。
「僕の取材は……」
「取材ね……同じことを他社の新聞社のインタビューでもいいなよ。君の上司にもね。僕は取材をしただけなんです、って。いい記事じゃない?加熱報道はここまで来たか、って」
男は精一杯の虚勢か、眼鏡のつるを上げるようにして顔を隠す。
「ふふ、奥さんと娘さんも驚くだろうね。君は年端もいかない女学生にあんなことを……」
「やめてくれ!」
男はほとんど悲鳴のような声を上げた。小声ではあったが、彼の心情を推し量るには十分だった。
ナツはことさらに甘い声を出した。猫なで声といってもよいほどだ。
「大丈夫だよ。君が協力してくれれば私は今後君には関わらないよ。わざわざ、ことを荒立たせたくないでしょ、ね?」
「……話をもう少し詳しく教えてくれますか」
男は急に敬語を使いだした。目に見えてここまで態度の変わる人間も珍しい。
〇
ナツが口頭で要点を説明する内容をキーボードで叩いてメモしていた男がつぶやいた。
「…さっきも言いましたが、これじゃ記事になりませんよ」
男は真面目な顔で言う。先ほどは単にイニシアチブを取りたいが故にナツの話を否定的に聞いていたのかと思っていたが、どうやら記者としてのプロ意識から来ていた発言らしい。
ナツはゆっくりと男を見据える。
「記事にならない理由は?」
「事実として、D-genesの社員が殺害されたこと、そしてあなたがそれを理由に懲戒解雇を迫られたことは証明できます。発見したデータベースも客観的に示せるでしょう。ですが、殺人事件やセキュリティエンジニアが脅迫されたということにD-genes社が関わっているというのは憶測にすぎません」
「警察庁への資金流入は?」
「それも重大な事実です。が、これもあくまで関連性を示唆するにとどまる」
俺は腕組みをした。
「上げたすべてはD-genesが関わっている。この事件を報道する道筋は十分立つんじゃないか」
俺がしゃべりだすとは思っていなかったようだ。男は眼鏡のブリッジを上げながら、怪訝な顔で俺を見た。
「それだけだと、ただの創作。週刊誌のゴシップ屋と変わらない」
馬鹿にしたような表情だ。どうやら態度を改めたのはナツに対してだけで、俺はこの男の中で尊厳を勝ち取れていないらしい。
「伊藤さん、あなた方が言うように、もしこれが事件なら、この国どころではない。全世界的なニュースになります。後追い報道もなされるでしょう。その際にぼろぼろになるストーリーであればその報道に価値はありませんね」
男の張りぼての威厳を示すような低い声にかぶせて、すこしハスキーで冷静なナツの声。
「この話を報道するには、後は何が必要かな?」
「まずは人でしょうね。誰が何をしたのか、役割、そして絵を描いた人物。そのストーリー」
「ふうん。じゃあD-genesには怪しいのがいるぜ」
ナツの言葉に男はにやりとする。
「黒田さんね、もちろん知ってますよ。今回の話を聞く前から、色々有名ですからね。よくない噂も沢山」
男は座りながら、足を広げて膝に手を置いた。
「それにナ…伊藤さんの話に出た赤坂という人は深掘りするべきでしょうね。事件には不審な点がいっぱいなんでしょう?」
先ほどのような小馬鹿にした態度をちらりとのぞかせたように思ったが、俺の勘違いかもしれない。俺は男に聞いた。
「プロのジャーナリストとして教えてほしいんだが、会社のお偉いさんであくどいことをしていそうな人間を調べるためには、まず何をする?」
男は髭を撫でつつ、こんどこそ小馬鹿にして、素人に言い含めるような口調で言った。
「宿題に決まってるでしょ」




