3.STR
『お前も、いつでも』
駅のホームで背中を押されて、自分のジャケットの背に不気味なメッセージを見つけてから、約一日が経った。夜が明けた。他人行儀な街並みは相変わらずだ。
現時点で分かっている事実としては、D-genesのサーバーの中に遺伝子検査結果と思しきデータベースが存在するということ。そのデータベースは警察庁の人間にアクセス権があること。そしてマキタが関わっていたかもしれないこと。
そして、誰か暴力を厭わない者がこの事件に関わっているかもしれないこと。
これらの事実をつなげると、一体何があるというのか。いや、あくまでこれらに関連があるというのは一つの可能性に過ぎない。
まず状況を整理しなければ、と自分を諫めようとした瞬間、チャイムが鳴った。玄関のインターホンが押されたのだ。
そのチャイムを合図に、自分の心臓の鼓動がオーケストラのシンバルを聞いた時のように跳ねた。アポもなしに、それもこんな早朝に、この事務所に尋ねてくるのは宅配員くらいである。
インターフォンの映像を見ると、銀縁の眼鏡をかけたライダーススーツをまとった、長髪の女性が立っていた。インターフォンの通話ボタンを押した。
「はい」
「先ほどメールを送った者です」
その女性は冷たい声音で最低限の回答をした。
メールだと?俺は自分のスマートフォンの通知を確認する。確かに一件知らないアドレスからのメールが来ている。
メールの中身を確かめる前に、その女性は名乗った。
「伊藤夏希、D-genesの社員です」
自分の心臓のオーケストラが止まったように思った。D-genes?
立て続けにその女性は言った。
「あなたはD-genes社のシステムのセキュリティホールの調査依頼を受けた、冬本之人さんですね」
「…」
「話があります。中に入れてもらえませんか?」
こんな何も分からない中で、誰とも知れない人間と話したくない。それに果たしてこの女性は本当にD-genes社の社員か?いや、そうであったとしてもだ。
できるだけ俺は状況を先延ばししようとした。
「急には無理です。後日出直してください」
「突然の訪問で失礼なのは承知していますが、今話せませんか?」
「この件はD-genes社の赤坂さんが窓口だ。彼を通して連絡してください」
俺の意味のない保留に、切迫した声が返された。
「彼は死んだ」
あまりに突然すぎる言葉に俺の思考は停止した。彼女の言葉は続く。
「話を聞いてください、緊急なんだ!D-genesで殺人事件が起きた。被害者は、その赤坂さんです」
〇
モニタの前で伊藤夏希と名乗った女性は驚いた声を出した。
「これがシステムの中に?」
事務所で一番でかいモニタをテーブルに乗せて、俺は自分の置かれている現状を説明した。何度も反芻した考えだったが、初めて他人に話すので順序立った説明にはならなかった。
俺は混沌とした状況をできる限り事実に基づいた説明をしようと試みた。セキュリティ調査の仕事を受けた経緯、自殺した友人、駅での脅迫、そしてD-genesの遺伝子データベース。
俺はD-genes社のデータベースを表示しながらことのあらましを話した。彼女はモニタを見つめながら俺の話を聞いていた。
強引にこの事務所に突撃して来た割には大人しく俺の話を聞いている。先ほどまで余裕がなく、あまり気にしていなかったこの女性の容姿が、今はよく目に入る。
レザーのライダースと同じ素材のボトムスはかなり厳つい印象を与える。一方、綺麗に手入れされたロングヘアと切れ長な目に銀縁眼鏡をかけた様子は知的な印象を与える。そして、じっとモニタを見ているその表情は、真剣に何かを考えているのか、リラックスしているのか、そのどちらともつかない。
ちぐはぐな印象の人だ。俺は説明しながらそんなことを思った。
だが、システム中のデータベースのアクセス権限を見せると態度が一転した。
「警察庁?しかもこれ……」
俺がこのアクセス権を見つけた時は漠然とした違和感のようなものだったが、彼女の表情はかなり具体的な危機感があることを物語っていた。
彼女はモニタを見つめながら口を開く。
「D-genes社から警察庁に予算が流れていた」
「予算?」
「同僚に調べてもらったんだ。すると社内の最上位のセキュリティがかかったファイルに、警察庁への資金流入の記録があった」
彼女は大きく息を吐いた。
「一五〇億円ほど」
一個人事業主として、よく金勘定は行う。だが、この数字はリアリティがないように思えた。ただ、とんでもないことに巻き込まれたという空々しい思考だけが浮かんだ。
「なるほど、これが赤坂さんの言っていた冤罪遺伝学か……警察庁も絡んでるとなると、これは国家機密級だな」
彼女の呟いた言葉についていけず、俺はモニタを指さす。
「一体これは?D-genes社で取ったただの遺伝子検査データじゃないのか」
彼女は首を横に振った。
「違う」
俯いた彼女の口から出たのは暗いトーンに乗せられた説明だった。
「これはD-genes社がサービスとして使っている健康や身体的特徴を知るための遺伝子領域ではない」
液晶モニタにはターミナルの黒い画面に出力された文字と数字の羅列が並んでいる。
「これはSTR配列のデータベースだ」
「STR?」
俺の間抜けなおうむ返しにかぶせて彼女は答えた。
「これは個人を同定するための、犯罪捜査に使う遺伝子鑑定データベースだ」




