2.軽口
白昼夢のようにふわふわと記憶が漂う。着信が切れた電話の音が響いている。やわらかい太陽光が事務所に差した。どうにもならない過去への後悔。一種の思考停止だ。倒錯的な、夢現の心地よさを感じた。
「……キ?」
誰かが何か言っている。女の声だ。
「ユキ?」
ふっ、と俺は現実に戻った。
見慣れた事務所の輪郭が浮かんでくる。狭い部屋にでかい対面のソファ、そしてデスクにはPCがいくつか。
深い紺色のストライプの入ったパンツスーツ姿がソファに座っているのが目に入った。眼鏡をかけたロングヘアの女性だ。
「どうした?」
その女性は少し心配そうな表情で俺の顔を覗き込む。
俺はまさか白昼夢を見ていたとは言えずこう返した。
「考え事してただけだ。それより、さっきなにか言いかけてたか?」
特に俺に心配するべき不具合があるわけではない、と判断したのか、その女性は気を取り直したようだ。テーブルの上のマグカップを指差した。
「黒とも茶色とも知れない、実に中途半端な代物がカップに入っているんだが」
聞き直さなければよかった。
その女性は追撃する。
「これは?」
俺は答えた。
「コーヒーって言っただろ」
口をつけた。
「これが?」
「おいおい、どうした」
「淹れておいてもらって何だけど、インスタントコーヒーはコーヒーとは呼べないぜ」
処置なし、というように俺は肩をすくめて見せる。いくら客だからと言ってその言い草はひどすぎる気がするが。
俺の不服そうな様子を見て、足を組みながら彼女は言った。
「まあ、私にしてみれば、仮にも客人に泥水を出すほうがどうかしていると思うけど、それは口に出さないのが大人の流儀だな」
「口に出してんじゃねえか。言いたい放題だな…」
ため息をつきながら俺はソファに深く腰掛けた。
正面に座ったその女性、ナツは、視線を部屋の中をぐるりと見るように動かした。
ここは俺の自営業用の事務所だ。
事務所といっても、かなり狭い。客間と事務室に分かれているが、それも申し訳程度だ。それぞれ六畳くらいの広さである。
俺たちがいるのは客間であり、二人掛けのソファが向かい合って設置されている。合皮にひび割れが入っているソファだ。ナツが座っているのは窓際の席で、俺は正面に座っている。
個人事業主の事務所なんて雑然としていておかしくないはずだが、よく整理されている。狭いが居心地は悪くない。マキタがよく片付けをしていたのを思い出す。
ナツは部屋に向けていた視線をこちらに戻した。
「本物のコーヒーもあるんだな」
「ああ、一応な」
俺ではなくマキタの趣味でコーヒーを豆から引いてドリップすることがあった。俺は面倒だから自分でドリップコーヒーを淹れることはしないが。
ナツは眉をひそめた。
「コーヒー豆を直射日光が当たる箇所に置くなんて……」
ソファから立ち上がり、ブツブツ言いながら冷蔵庫にコーヒー豆の瓶を移そうとする。だが、冷蔵庫は飲み物でいっぱいだ。何せ俺が通販で大量に水やら酒やらを買っているからだ。
ナツは仕方なく、冷蔵庫の上の棚のできるだけ日光が当たらない場所に置いた。「人の所業じゃない」とまだブツブツ言っている。
ナツがコーヒー豆の瓶を置き直したのはコンセントの真ん前だ。若干不便な位置に当たる。だが、それよりもコーヒーに直射日光を当てないほうが優先度は高いらしい。
マキタが冷蔵庫に保存していたコーヒー豆を、直射日光が当たる場所においたのは俺だ。ビールを冷やしておきたくて、コーヒー豆の瓶が邪魔になった。だがそれは今言わなくても良いだろう。
ソファに座りなおすナツを見ながら、俺は一週間以上前に、ライダーススーツのナツが事務所に突撃してきたときのことを思い出した。




