11.連絡
「警察官になるんですね」
私は髪の短い後ろ姿に声をかけた。
振り返ったのは黒髪のショートカットに、オーバーサイズだが比較的フォーマルな服装の女性だ。
「技術官だけれどね。今とやっていることは変わんないと思うな」
中性的な見た目とは裏腹に、その人の声は甘く艶やかだ。時々、同性の私でもドキッとする声だ。
「選考はすんなり行ったんですか?」
自分の言葉に棘があるのを隠そうとしたが、失敗したかもしれない。
彼女は私の言葉の棘を気にも留めず返した。
「まあね。試験は難しくなかったし、研究内容もかなり近い」
「遺伝子検査も?」
「ふふ、そう私の遺伝子検査結果は提出しているわ。一体何に使うのかしらね」
大学の理学研究棟の大規模ゲノム情報研究室の大学院生の居室。修士の学生が勝手に設置したコーヒーを入れるための大きなテーブルに少し腰掛けるように寄りかかって、甘い声の女性は、私に笑って見せた。
ニコニコ笑っているこの人は天賦の才といえる頭脳を持ち合わせている。おそらく遺伝子検査の結果もそれを反映しているだろう。多分、警察の人事も驚いたのではないだろうか。少なくとも私は彼女以上の知能を見たことがない。
彼女は真崎明日香。私の大学の研究室の一年先輩。すでに早期修了で博士号の学位の授与と科学警察研究所への内定が決まっていた。
優秀な人なのは間違いない。だが、私はこの人を手放しで称賛することはできなかった。
私は言った。
「また誰かをいいように使うんですか?」
「なあに、まだ怒ってるの?」
当然です、といいかけて私は口をつぐんだ。あまりに馬鹿げた問答だ。
真崎さんは悪びれもせず言った。
「ゆるしてよ、私も必死だったんだから」
ヒトの遺伝型の鑑定方法に関する研究開発。彼女が大学院生として国の機関と共同で推進していたプロジェクトだ。
そして結論だけ言えば、研究結果は一流ジャーナルの論文として掲載された。これは現代の学者にとってはかなり重要なステータスだ。
新聞に掲載された記事を読んだ。この成果の社会実装として共著者の大学の先生がスタートアップを起こすらしい。
私もこのプロジェクトに初期からかかわっていた。真崎さんには及ばないとは言え、基礎理論の構築は私のアイディアがなければ成り立たなかっただろう。
「コーヒー淹れるけど、いる?」
真崎さんは居室の一角に陣取っている机のガラス瓶を持った。コーヒー豆がぎっちり入っている。
私の返事を聞く前に、彼女はコーヒー豆をひとさじ取って、電動ミルのスイッチを入れた。高いモーター音と豆の砕ける細かい音が響く。豆を挽き終えた彼女はゆっくりとフィルターをドリッパーにセットし、そこに粉末を加えた。
私はコーヒーを淹れる彼女の後姿を見つめ、そんな自分をもどかしく感じた。
「あなたは、何を考えているんですか」
「なに、コーヒー、いらなかった?」
「なんで私をプロジェクトから外したんですか」
プロジェクトの最後の方になり、急に真崎さんは私を話し合いに呼ばなくなった。突然プロジェクトの資料へのアクセス権がなくなり、突然メールループから外れた。私は訳がわかなくて、真崎さんを問い詰めた。
彼女はこう言っただけだった。
「このプロジェクトはもう大丈夫だから。君も自分の研究の論文書くの、忙しいでしょ」
結局新聞に取り上げられたのは真崎さんだけだった。私は論文の共著者になることもなかった。謝辞にすら私の協力に感謝する旨の記載はなかった。当然新聞記者が私に何かインタビューをすることもなかった。
真崎さんは電気ポットからお湯を注ぎながら、何でもないように言った。
「そんなにヒーローになりたかった?」
そんなわけない。新聞に取り上げられるとか、誰がプロジェクトに入るとか、論文の共著になるとか、その餌なんてどうでもよかった。私は学業の成果には困らない程度には論文を出していた。
「そんなわけないって、知っているでしょう?」
「じゃあ、何に怒ってるの?」
「私は……」
私は単に真崎さんの力になりたいと思っただけだ。スカラーとしての才を授かった、この天才の。
ニンジンをぶら下げられなくても多分、この人のために働いただろう。だから、単に私はそこまで欲しくないニンジンを取り上げられたにすぎない。
違う。私はこの人に、ほかでもない真崎明日香に、裏切られた事実にショックを受けていたのだ。
人に裏切られるのは、怖いことだ。誰かの悪意を一身に浴びた気がする。それが、憧れの人の悪意ならなおさら。
「ほら」
真崎さんは勝手に私のマグカップにコーヒーを注いで私に差しだしてきた。その屈託のない笑顔が今は憎々しい。
真崎さんはわかっていたのだろう。私が後から成果を主張して騒ぎ出さないこと。そんな心理すらも把握されていたような気がして、私は嫌な気持ちになった。
真崎さんは私が受け取らなかったマグカップを机に置きなおして、言った。
「私は君のこと、一番大切だからね」
ガシャン。
私が怒りに任せて払った手が、リノリウムの床にコーヒー入りのマグカップを叩きつけることになった。
ドアを開けて、何か捨て台詞を吐いてやろうと思って、涙声になりそうでやめた。
一瞬目に映った真崎さんの表情は、いつもの天真爛漫さはなかった。うつむいた横顔は虚ろに見えた。そんな彼女を放っておくことは以前なら決してしなかった。だが今はそんな義理はない。
私はそのまま院生室を出た。ドアが大きな音を立てて閉まる。
〇
私はしばらくスマートフォンの画面とにらめっこしていた。
表示されているのは連絡先。真崎明日香。彼女の電話番号とメールアドレスだ。
今D-genesで起きている出来事。シンドロームプロジェクトの裏側。赤坂さんの死。警察に連絡しようか考えたとき、真っ先に真崎さんのことが頭に浮かんだ。
警察に通報するにしても、赤坂さんの件はすでに彼らの受け持ちだし、シンドローム計画は私が進めている計画だ。ゼロから警察に話すと事をややこしくしかねない。
真崎さんなら相談相手として適切だ。警察内部の事情を知れる立場で、遺伝子鑑定のエキスパート。そして私とは知らない仲ではない。
だが、それは過去を水に流すことができれば、の話だ。
連絡しよう、と思い立ったが、なんとなく自分の家でやる気になれず、近所のカフェに来ていた。それでも彼女の名前が表示された画面を見て固まってしまった。
今更彼女を信じられるのか。
一方、事態は切迫していた。ここで手をこまねいていると手遅れになる。そんな恐れが私の心中を支配し始めていた。
カフェの狭いテーブルにマグカップをのせて、私はスマートフォンで文字を入力する。メール文を考えてはすぐに消去する。ダメだ。送れる気がしない。
ゆっくりとしたクラシックが流れている店内。外が寒くなってきたのに対して、暖房が効いていて暖かい。ふかふかしたソファも相まって、麻薬的な居心地の良さがある。
そんな中、私は頭を振った。このままだと閉店時間までここにいて結局思い悩むことになる。
昔のことがなんだと言うのだ、と自分に喝を入れて勢い込んで通話ボタンを押す。電話をしてしまえばメールの文面がどうとか関係ない。
コール音が耳に響くも、その単調なリズムが変わることは無かった。彼女は電話に出ない。
二、三度かけてみるも無駄だった。
電話をあきらめ、私はメール文を打ち込む。先ほどまで思い悩んでいたのがウソみたいだ。
すぐにメールを送った。何とかやった、という感覚が、先ほど電話を掛けた勢いをしぼませるのを感じた。
閉店よりいくばくか時間がある中、私はそそくさとカフェを出る。
彼女から返信があったら、なんていえばいいのだろうか。そんなことを考えて不安になった。
だが、結果としてその不安は杞憂だった。
彼女からメールの返事も、折り返しの電話もなかった。




