5.ブラックボックス
D-genesの分子生物学実験室は通称『ブラックボックス』である。
丸の内の本社にバイオラボがある会社は珍しい。生物学の実験施設というのは、必ずしも安全とは言えない試薬や生物サンプルを取り扱うからだ。
生物学実験室は、物理的封じ込めレベル(physical containment)によってP1からP4までの段階に分かれる。数字が大きいほど封じ込めのレベルが高く、裏を返せば危険な生物を取り扱う可能性があるということだ。
D-genesの『ブラックボックス』はP2であり、遺伝子組換え生物や病原体を扱うことができる。このレベルであっても、人口密集地帯にそのような施設を設けるには、厳しい行政の許可と近隣の理解が必要だ。
D-genesの親会社は旧財閥系の大企業であり、この辺一帯の地主でもある。親会社と行政の方針として、シリコンバレーのバイオ版を丸の内周辺に形成し、我が国におけるモデルケースにしようと計画している。大都会で生物学的実験を行うハードルが下がったわけではないが、その高さを超える波があったと言える。その波に乗ってD-genesは本社にバイオラボをこしらえる事にした。
基本的にここは関係者以外立ち入り禁止だ。研究開発本部の中でも、第一課と第三課の2グループ、つまり分子生物学的実験を必要とするグループのみが立ち入りを許されている。所員に配られたIDカードが入室のキーだ。
とはいえ、実は分子生物学実験室の中でもオフィスエリアに入ることはキーを持っている職員に頼めば関係者以外の社員でも入ることは黙認されている。そのため、分子生物学実験室の作業を過程が見えない『ブラックボックス』に例えるのはおかしいのだが、おそらく悪ふざけのつもりなのだろう。
『ブラックボックス』に入ると最新鋭の高価な機器群が迎えてくれる。実験台や一部の機器は確かに黒色のものも見受けられるが、部屋の大半は真っ白で埋められている。ここで働く人も白衣を着る必要があるので、部屋に対して白い印象が深く残る。白い部屋であるにもかかわらず『ブラックボックス』というのも冗談としては気が利いているのかもしれない。
だが、この日の私はブラックボックスの冗談を笑えずにいた。自分の所属している会社の中にいるというのに、ものすごくアウェイにいるようだ。先日のシンセバイオの技術交流会の方がまだホームにいる感じがした。精々ピンと背筋を伸ばす。
ストレスを感じた。コーヒーを飲みたくなるが、病原体を取り扱うウェットラボで飲食をするのは自殺行為だ。ラボの誰かが誤って腸チフスの培養液を実験台にこぼしていないとも限らない……さすがにそこまでの下手はD-genesの研究者にはいないかもしれないが。
現実に相対することにする。私の目の前には中肉中背の、地味といっても差し支えない男が立っていた。外見に似合わない敵意ともつかないまなざしで相対する。少なくとも彼が今日、何かを決意したであろうことを感じた。
〇
数時間前、オフィスで作業していた私は一通のメールを確認した。
『伊藤さん
本日18時に会社の分子生物学実験室に来てください。
他言無用でお願いします。
情報システム部・赤坂慎二』
私は相当いぶかしげな顔をしていたのだろう。同じく今日はオフィスで仕事をしていた本田君が、私の顔を覗き込んでわずかに眉根をゆがめた。
「どうしたんですか?」
「情報システム部の赤坂さんから」
ラップトップPCを本田君の方へ向けた。
「どう思う?」
彼は一瞬険しい顔をしたがすぐにニヤリとした。
「この前の弁明ですかね」
以前、私たちが顧客と相談していた会議に赤坂さんが突然参加しようとして、もめたことがあったのを思い出した。今思い出してもかなりの珍事だった。
それを謝りたいというのならまだわかる。わかるが……。
「こんな不躾なメールを送っておいてかい?」
私の発言に対して、本田君は別の可能性を示唆する。
「それか、愛の告白とか。古風ですが」
「摩天楼の地下にあるP2実験室でか。マニアックな趣味だ」
「あながち外れていないかもしれませんよ。ナツさん美人だし」
「光栄だね」
本田君はくつくつ笑った。あまり真剣に取り合っていない、というよりは私をリラックスさせようとしているといった風だ。だが、少しだけ声音を正して彼は言った。
「少し気に入らないことがありますね」
私は黙って彼の方を向いた。
「気に入らないことね。この前のもめた一件か」
「それもそうですけど……赤坂さんについてはわからないことだらけですよ。赤坂さんは黒田さんの無茶な組織再編のあおりを一番受けた人です」
黒田本部長の巨躯と威圧的な目を思い出す。
「研究開発部部長は笹本さんですが、笹本さんと同じく、アカデミアからきた赤坂さんはその次にポストにつくのを期待されてた。それが今や畑違いの情報システム部ですからね。相当な被害者ですよ」
私は自分の下唇に人差し指を置いた。人事関係の話に関しては詳細を知らないのでどうこう言えない。だが妙な事なら他にもある。
赤坂さんが所属している情報システム部の仕事はシステムやセキュリティの保守だ。だが彼の動きは傍目にみると異質だ。事業の意思決定のミーティングにいつの間にか参加していたり分子生物学実験室に出入りしていたりする。この会合の待ち合わせにしても、わざわざセキュリティレベルの高い『ブラックボックス』を選んでいる……そうだ。確か、つい二日前も外部の人間に遺伝子検査を試してもらうと言ってラボの利用を申請していたはずだ。なぜ研究開発部でない彼にこのような動きが許されているのか……そして、これが何を意味するのか。
ふう、と自分がため息をついたのを自覚する。あまり考えすぎて人を詮索するのはよくない。仕事の人間関係の噂話は好きじゃない。
私は本田君にニコリと笑って見せた。
「とりあえず愛の告白じゃないことを祈るよ」
〇
「端的にいいます。プロジェクトを中止してください」
真っ白なブラックボックスで赤坂さんはそう言った。私は慎重に答える。
「なんのプロジェクトですか?」
「無論、シンドローム計画のことですよ」
「なぜ止めなければいけないのでしょうか?」
そもそも私に止める権限があるわけではないのだが。
「この計画のキーマンはあなたです。遺伝学のエキスパートで新規事業の推進能力を持つ方は多くありません。あなたは替えの効かない人材です。あなたが抜ければこの計画は失速せざるをえないでしょう」
彼は私を見据えた。
「一つ聞きます。あなたはシンドローム計画に使用されるデータベースの場所を知っていますか?」
当然把握していることだ。なぜこんなことをわざわざ聞いてくるのか分からない。苛立ちを抑えようとわざとゆっくり私は答えた。
「筑波支部のサーバーでしょう?」
シンドローム計画は既存のD-genesの遺伝子検査システムを使う予定だ。D-genesとシンセバイオの既存の技術アセットを最大限使えるのがこの協業プロジェクトの優位点なのだ。
「ちがいます」
彼は下を指さした。
「真下ですよ。今、我々が立っている分子生物学実験室の真下。地下十五階」
「なんの話をしているのですか」
そもそもこのシンドローム計画は自分で進めてきたプロジェクトだ。勝手に新しいシステムの構築が進んでいる?そんな馬鹿なことがあるものか。
混乱している頭に容赦なく次の情報が飛んでくる。
「一人外部の人間でサーバールームに入った人がいます」
「え?」
「彼から話を聞いてみて下さい」
「彼?」
「まだ接触はないと?」
赤坂さんは語気を強めた。
「あなたが進めているシンドローム計画は誰が発案したものですか」
「私の発案ですが」
「あなたが出した案を積極的に進めようとしている人がいますよね?」
黒田部長の顔が浮かぶ。
「あなたのプロジェクトはD-genesが持っているデータベースを利用し、患者に適切なRNAを合成し提供するサービスです。そのデータベースと流通システムはそのまま冤罪遺伝学に使えるんですよ」
「冤罪遺伝学?」
訳が分からない。自分の声に苛立ちが混じるのを感じる。
「何の話をしているのですか?」
「さっき言ったでしょう、外部の人間がサーバールームに入ったのです」
「その人がなんだというんですか?」
「彼が今一番真相に近いところにいるのです。彼がこのいかれたプロジェクトのチョークポイントなんですよ」
彼の目の焦点が合っていないことに気が付く。彼の口上は止まらない。
「あなたはプロジェクトを推進する立場にありながら、何も知らない蚊帳の外の人間だ。だからこそ、こうして事実を話しているのですが」
「蚊帳の外?」
「あなたが発案したプロジェクトは新奇性の高い事業です。なぜ保守的な役員がプロジェクトを進めるのを許していると思いますか」
「事業に価値があるからでは?」
「違います。いえ、事業に価値があるかもしれませんが、保守的な役員たちがこのプロジェクトを進めるのを許す理由は、黒田部長です。そして、黒田部長がプロジェクトの推進を許す理由は、あなたのプロジェクトを冤罪遺伝学に利用するためなんですよ」
自分の眉間にしわが寄るのが分かった。
「冤罪遺伝学とは何なんですか」
わずかに私の無知をあざ笑うような雰囲気を感じた。
〇
私がブラックボックスから出るときに持っていたのは一枚の名刺だった。
『ホワイトハットセキュリティ・エンジニア・冬本之人』
この部屋に入る前と出る前の違いはそれだけだ。中で話されたことは、訳が分からなかった。本当にブラックボックスさながらだ。
少なくとも、このまま手をこまねいているわけにはいかない。
それだけは理解できた。




