2.事業
「我々D-genes社、そしてパートナーのシンセバイオ株式会社との共同事業は、市場を拡大する強力なドライバーです」
壁一面ガラス張りの窓はブラインドに覆われているが、隙間から陽の光が差し込む。高層階にある我々のオフィスの会議室の一室には数人のスーツ姿が並んでいる。
「特に予測公衆衛生の分野で我々とシンセバイオが保有する主要特許は七割を超えており、数年から十数年は支配的に事業の展開が可能になります」
私は声を少しだけ張り上げる。強調が必要なポイントだ。
「予測公衆衛生学は遺伝子検査事業によるデータの集積によって起こりました。そしてわが社はそのパイオニアです」
私の説明に頷く人もいれば、渋い顔をする人もいた。渋い顔をするのは技術畑の人だ。
不服そうに腕を組んで、クラシカルなスーツに身を包んだ四十手前の男が発言する。
「わが社の保有している特許数が多いことは理解しています。だが、技術的に特許を躱わそうと思えばいくらでも工夫はできる。たとえシンセと組んだところで、市場を独占できるかは疑問だが……」
彼は元々大学の准教授として遺伝学の研究に従事していたはずだ。今はウチの会社で研究部門のマネジメントをしている。
私も研究者だったので、今回の説明にレトリックが多分に含まれていることが気に入らない気持ちは分かる。
「笹本さん」
私は発言したクラシックスーツの男の名前を呼んだ。
「ご指摘の通りです。特許技術を押さえていたところで、その特許を侵害されることは多い。それに、こちらが特許訴訟を起こそうものなら、相手方からは特許無効申請がなされることも少なくない」
結局裁判をしてまで相手を訴えるかどうかはコスト見積と結果として守れる利権次第ということだ。だから、特許を多く取得しているから市場を独占できる、というのは確かに乱暴なロジックではある。
ですが、と私はそのまま説明を続ける。
「笹本さんの議論はあくまでテクニカルな観点に寄りすぎているかと。どんな事業をやるにしても、技術や法的な観点からのリスクは必ずある。問題はそのリスクをカバーする策はあるか、そして事業による利益がそれを上回るかどうかです。そして、その策と利益についてはすでにこのプレゼンで説明したとおり。十分この事業に会社として投資する価値はあるかと考えています」
私の説明に対して笹本さんは切り返した。
「ここでピボット不可能な位置まで踏み込むのは賢くない選択では?」
事業価値が正確に検証できたかは分からない。そもそも、事業価値を正確に算定し、投資と見合うかは基本的には結果論だ。この手の新規事業は必ず不確定要素が出てくる。どこまで仮説を検証できたらリスクを負うかは、悩みどころではある。
だが、私は短く言った。
「この時点での投資が最善です」
私は事業をするなら早い方がいいと思っているし、ある程度の確度で走り出した方がいいとも思っている。
「ですが、このシンドローム計画は……」
笹本さんが反論しかけた。私の説明に納得できないといった様子だ。
その反論を遮って、野太い声がした。
「ここは学会じゃないんだ。細かい議論はいい」
遮ったのはその野太い声に似合った大柄の体躯の男だった。笹本さんは反論をしたが、結局、会議の流れは黒田という役員の先ほどの一言で終わりに向かっていった。
私のプロジェクトの予算案は会議終了前にあっさり可決された。
〇
「ナツさん」
会議が終わりデスクに戻ろうと長い渡り廊下を歩いていたら、馴染みのある声が後ろから聞こえてきた。振り返ると同時にヒールがコツンと鳴った。
私に話しかけてきたのは、細身の体躯に太めの黒いトラウザーと綿のシャツを着た若い男だった。鼻筋が通り、目元もはっきりしており、整った顔立ちだと言える。ただ、細めの眉毛とあまりしっかりしていない顎が頼りない印象を持たせる。
「本田君」
彼はニヤリと皮肉な感じで唇の端を釣り上げながら小声で耳打ちした。
「やたら笹本さんが突っかかってきましたね」
「聞いてたのかい?」
「一応、webで参加できる会議だったので。それにしても、笹本さんはナツさんに恨みでもあるんですかね?」
少し考えて、私は考えを述べる。
「いや、まともなことを言っていたよ」
「そうですか?」
「逆の立場なら私でも同じことを言うよ。彼は少々融通がきかない部分はあるけど、それでも会議で多角的な議論ができるのはいいことだ。プロジェクトを進める私たちだけだとどうしても考えが偏るし、思わぬリスクが見つかることもあるからね」
ただ、と私は続けた。
「問題は黒田さんが議論を止めたことだな」
「そんなにまずいことですかね?僕らとしてはプロジェクトが思い通りに進むんだからいいことじゃないですか?」
本田君は無邪気にそう言ったが、私はそこまで楽観していなかった。
価値観を極端に押さえつけ、ボトムアップの意見を拾わないというのは、あらゆる組織で失敗を招いてきた要因だ。そういった意味で多少コミュニケーションコストがかかろうとも、議論は行うべきだ。
今回の笹本さんのように、技術的・法的観点から指摘をしてくれるのは、面倒な面もあるが、貴重な意見であることには変わりない。特に彼のような特定の分野のエキスパートからの意見は大事にするべきだ。
しかし黒田本部長はその考慮をまったく介さず、議論を打ち切った。何かしらの狙いがあってとった行動か、それとも単なる浅慮か。いずれにせよ、あまりいい傾向ではない。
私は自分の考えを全部は口にせず、こう結論付けた。
「組織から言葉を奪うとろくなことにならないんだよ、昔からね」
それにしても、と私は言った。
「知的財産権(IP)と事業のバランスの話は相変わらず理解されづらいな」
これは笹本さんというより、どちらかというとあまり意見を言わなかったほかの役員に対する文句だった。反対こそされなかったが、彼らから意見が出なかったというのは理解が及んでいないということだと捉えたほうがいい。
「自転車置き場の話題ならもっと意見が出るもんですかね?」
どうやら先程は能天気な発言をしていた本田君も、私の懸念を的確に捉えているようだ。プロジェクトが進むのはいいのだが、リスクをとらえ損ねて後から責任を押し付けられるのはごめんだ。
本田君は私の考えを読んだように気を利かせた。
「知財部にメールでもう一度確認してもらうよう頼みますか」
「いや、一度ちゃんとすり合わせるのがいいだろう。ミーティングを設定してくれ。明日のシンセバイオへの出張のこともあるしな」




