↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
18/20

その十八

7015

 何度騙される裏切られる事を重ねても、直ぐにまた別の何か別の誰かを信じて仕舞う、少なくとも信じたいと心に意欲してしまう、そういう志向をあなたなら如何(どう)思いますか。それは現代人らしからぬ、また現代人としてそうあってはならない学習能力の欠如した知的に欠落した欠陥資質の具体的出現でしょうか。それとも別の何かでしょうか。私なら思います。そういう、これだけ失望を重ねても矢張また何かを誰かを信じたいと願う事をする性質を非常に尊いものであると。尊いというのがこの場合不適切な言葉であるなら人間らしいものであると。私なら却って何度目かには懲りて、懲りに懲り捲(まく)って、最早恬然(てんぜん)誰をも信頼しないで平気になっている人間と一言だって言葉を交わしたくはありません。何故なら私に言わせればそれは既に人間ではない生き物だからです。これだけ痛い目に遭っているのにまたしても信じてしまう、何者かを心の底から信じ信頼したいとの気持ちを抑える事が出来ない、それでこそ『健全』な人間であると感じるからです。

 少なくともそうやってまたもや信じたいと願ってしまう自分の事を愚か者であるとか馬鹿者であると見做さないで下さい。寧ろそれを自分の心の強靭さであると信じてほしいと思います。念の為言っておきますが、これでもかと裏切られておきながらまた信じてしまう、それで結局期待外れに終わる、その時の苦しみと、最早何かを信じる事を一切しなくなった後に信じ続けてきた人が生き甲斐を手にして衷心から喜びに打ち震えているのを目にした時の苦しみ、この両者は同じではありません。断じて同じ程度のものではありません。前者はまだ先に道が続いています。打撃を受けた膝にも腰にもまた力が注ぎ込まれる余地が十分にあります。ですが後者はそうではありません。自分に絡み付いて絶対に離れてくれない死の様な後悔が纏わり付きます。これは十分にその人を死に至らしめる程のものです。人間に耐えられるものではないと私は思います。

 余人はいざ知らず、他ならぬこの私は心底から何かを信じなければ抑々(そもそも)呼吸する事からして出来ません。私は信じて生きる人間です。従って信じない事に拠って眼前に開く扉の先に続く道ではなく、信じる事で拓かれる道を往(い)きます。愛する亡き父が吾が名に一文字を入れてくれた『信』の字に懸けて。


7016

 社会の中に生き、疲れる。分かります。勿論分かります。しかしその疲労感に満たされながらも同時に知っておかなければなりません。では山奥に、或いは孤島に、独り住んでいても、殆どの人間は疲れるのだという事を。疲れるその性質が違うだけで矢張同じ様に疲れるのです。そして場合によっては独り住む事の方が社会に生きるよりももっと、段違いに、激しい疲れ方をするのだという事を。あなたは他人から離れて独り住み生きるならば現在のあなたが経験している様な悪質で回復を期し難い疲労は無いだろうと言います。しかし暗黙の裡(うち)に仮定していませんか。食べ物は何とかなる、飲み水も遠く片道一里も歩いて汲みに行かなくてもよく手近に井戸があるか清水が湧いている、しかもそれは夏でも黴菌(ばいきん)が繁殖せずおまけに冬でも不凍である、冬に薪が何故かあって凍える事も無く、更には人恋しくなった時には適宜村の中を歩けば元からの住人が『優しく』声を掛けてくれて話が弾む、と。これらは全て幻想です。まだ宝籤で数千万円当たる事の方が確率が高いのです。詰まりは独り生きるにしても疲れるのです。その社会の中に生きる事とは種類のまた異なる激烈な疲労とその事から蒙る甚大な被害が、願わくはあなたの堪え得る種類と程度のものである事を祈ります。

 これは私の想像なのですが、社会街中で生きる時に疲労して動けなくなってしまう人の多くは、『多くは』であって『全部』ではありませんが、山中原野に独り住む事になっても矢張心に重い重い疲労があるのではないでしょうか。却って癒し難い傷を受け、更には回復し難く心が傷(いた)んでしまうのではないでしょうか。私はそんな気がして仕方がありません。社会に於いて人の中で生きる、その事で動けなくなってしまう程の魂の疲れが伴うのであれば、それは『自分以外の人間が居るから、その人間達に日々応対しなければならないから』疲労しているのではないのではありませんか。その疲れは自分でも気が付きにくい事ながら、全く別の事が理由でやって来るのではないでしょうか。私はあなたに自ら一度それを疑う事を勧めます。念の為言っておきますが、非道な事を平然と命じる会社であるとか、最早人間の顔ではなくなった同僚が蠢(うごめ)いている職場の事を指して今私が『社会』などと言っているのではありませんよ。そんな所は実に気軽に、靴を履き替える様にはい左様ならすれば可(い)いのです。何一つ悩む事ではないと思います。けれども職場で悩む訳でもなく、絶えず覚醒剤を勧めにやって来る隣室の人間が居るアパートに苦しんでいる訳でもなく、貧しいながらも食事が出来、自分の衣食住環境が一応なりとも確保されている中に於いて、他の人間が嫌で嫌で堪らんというのであれば、私はあなたが直ちに荷物を纏めて誰も住んでいない山中原野に住む為に出て行く事を勧めません。『其処(そこ)に行けば天国が待っている』、これは間違いです。多分其処(そこ)は心の中に既に天国をもっている人が行った時にだけ本当に天国になるのだと予想します。

 抽象的に聞こえますか。でも、私はあなたに心の中に正にその天国をもってほしいのです。それを求める事得る事が先です。そしてそれにはあなた自身の天国とは何かを、先(ま)ずあなた自身が知らなければなりません。この話はここで終わりません。また引き続き、お話をしましょう。


7017

「何も彼(か)も全部忘れて、心安らかになりたい」

 ところが何も彼(か)も全部忘れる事も実際には出来なければ、仮に今自分の心を占領している諸々の悩みを全て忘れる事が出来たとしても、それでも心安らかにはなれないのではありませんか。心安らかな人というのは悩みを全くもっていない人なのではなく、それがありながら、しばしば溢れるそれに囲まれながら、それでも心安らかなのです。そうではないでしょうか。

 ここに、人が必ずしも本当に自分が望むものを求めてはいないという事実が浮かび上がります。人は、本当に自分が欲しいものが何であるのかも判らない事があるのです。見える目が必要です。私にも身に覚えがありますが、自分が欲しがったものを手に入れて、それで暫くして、それを手に入れる前と全く同じ渇きに戻ってしまった経験はありませんか。そういう時程自分の事を惨めに感じる時は無いでしょう。知って下さい。本当のところ自分が一体何を求めているのかを。自らへのそういう問い掛けは否(いや)が応でも当人に真摯さを求めます。その真摯さから生きる目標を把握出来る機会は近いのです。


7018

 何も言葉に出来ないというのは全然構いません。何も悪い事ではありません。それにあなたが感じたその事とは元来言葉に出来ないものかも知れないのです。だからその事を気にする事はありません。綺麗薩張(さっぱり)忘れてしまえば可(い)いのです。しかし『何も想わなかった、感じなかった』というのは困ります。困りますと謂うか、良くありません。通勤の道に出逢う通学の小学生には『元気で大きくなれ、怪我病気をするなよ』と思い、溝の横に休む猫に『よう、景気は何(ど)うだい。何か美味しいものが見付かると良いな』と思い、職場の阿呆んだらな上司には『早く食中毒になって苦しみなさい』と呪殺を念じ、家に帰れば『ああ、今日も母は無事に過ごしてくれた』と天に感謝する。一日生きて、どうしてこれらの『想い』が無いのですか。これらが無い、本当でしょうか。私には信じられません。

 それが無い事は明日食べるパンが有るか無いかには関係してきません。しかし人の生きた航跡、歴史が積み上がるか積み上がらないかには、まともに影響してきます。それら日々の想いが無いならば積み上がらないのです。換言するならば時間だけが過ぎていっているのです。恐ろしい事だとは思いませんか。これが人の心を狂わせないと判断する方が無理でしょう。そういう、毎日の想いが『溢れて困る』生活を営んで下さい。そういう生活を営む為には何を如何にすれば良いのか考えて下さい。あなたの年齢であれば決して時間に余裕は無いと私は思います。

 ブログは毎日更新しています。

https://gaho.hatenadiary.com/

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。