その十七
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同じ人間でもその時何を念頭に置いているかで見えるものが違ってきます。心静かに自分の大切なものを想っている時と何かに追い立てられ急かされている時、或いは何事かに夢中になっていて他の事が目に入らない時、それらでは完全に違います。これは既に一定の年齢になり或る程度の所謂分別を具えた人間でもそうなのです。それだけにいつも本来の自分で居なければなりません。それが出来ないならば自分にとって大切なものを見逃す結果になるだけです。
本来の、元々の自分で居る事の、何と難しい事でしょうか。生涯の修養を必要とするのではないでしょうか。老年になってもずっと自分を点検していなければならないのでしょう。一生を通じてそんな事が出来るのは、心に生きる目的をそれも具体的にもっている人間だけだと思いませんか。
7012
好きな本は何百回と読みます。そこに私の気持ちがそのまま書いてあるからです。そこに登場しているのは紛れもなく私です。もう一人の私が何故か其処に居るのです。そして現在の私の環境と全然違う状況に在りながら、矢張依然として完全に私なのです。
何故書きまた読むのか。私自身を支えたい、助けたいからです。しかしそれはちゃんと他人に通じます。自分以外誰もそこに居ない、誰からも届かない深い深い場所に沈潜しているのに、そこに嘘が混じり込んでいないならばそこから初めて他人に通じる道が続きます。私はこれを信じます。科学ではありませんから論証はありませんが、正に論証出来ないものを信じます。
7013
私の中の善意。これも、私の生活如何によっては失われます。私が父母を大切に思う気持ち、これさえもそうです。それは私において絶対ではなく私の意欲に拠って『維持』されているものです。そして一旦失うとそれらは再び私のもとに戻って来てはくれません。私は今まで当然の様に心から楽しむ事の出来た風景、子供達、そして古くせせこましい街並、それらに何の魅力も感じなくなるのです。そして直接私の神経を刺激するもの、例えば食べ物飲み物或いは音楽観劇温泉等、そういうものにだけ『動物的に反応』し求める様になります。これは今現在の私からすると最早人間の暮らしに見えません。魂無く生き、意識無く死ぬ、それだけの姿です。即ち流れに浮かぶ泡沫です。
私は私の感覚信念そして私の生きて来た歴史の実感が失われる事を恐れます。それは私が私でなくなる、一発で別人になってしまう為の絶好の契機です。私は或いは棘が無くなるでしょう。傍目に見れば『ああ、あの人も年齢が行って丸くなったものだ』とか何とか評されるのでしょうが、その実そうなってしまった私には魂が働いていません。それは人間ではありません。人形です。人の形をして人の様に喋るけれども中身がありません。生きている主体が無い、空洞の人型が動いているのです。私はそんな風になる事を恐れます。従って、私をそんな存在に近付ける何ものかを避けた生活をしなければなりません。私がよく生活を整えるべきだと言うのはそういう次元の話なのです。
7014
過日、母と、そして六歳になる息子と一緒に、午後家で昼寝しました。五月末であるのに最早夏の如き暑さ、まるで旧暦の五月の様です。なので空調を効かせてから毛布一枚を被って眠りました。何か異様に気持ちが良く麻酔をかけられた様に直ぐに眠ってしまいました。そして、
「お父ちゃん。もう起きようよ」
との息子の声で目覚めると早二時間半も眠っていました。その目覚めの半醒半睡の状態の気持ち良かった事、言葉に出来ませんでした。
大夢誰先覺(大夢誰か先ず覚む―たいむたれかまずさむ)
平生我自知(平生われ自ら知る―へいぜいわれみずからしる)
草堂春睡足(草堂に春睡足りて―そうどうにしゅんすいたりて)
窗外日遲遲(窓外に日は遅々たり―そうがいにひはちちたり)
あまりに気持ちが良かったので、諸葛先生に倣う事も出来ませんでした。また息子に起こされた事も嬉しかったです。しかしこれがただ『気持ち良かった』で済ませられるでしょうか。それで私に罰は降らないでしょうか。私はそういう事を感じる人間です。そして竊かに思うのです。
「これが『ああ、気持ち良かった』で本当に済んでしまう人間に、一体何の善い事が降るものか」
そうは思いませんか。嬉しい思いは自らが先に得た『報酬』ではないでしょうか。本来既に何事かを為した後にその対価として貰うべきものを、何かが狂って『不当にも』私が何もしない先にそれを貰ったのではないでしょうか。その分、私は今から何かをしなければならないのではないでしょうか。
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