その十四
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お金儲けの恐ろしいところは、多分一旦その方法を見付けるとその事に夢中になってしまい、お金儲けに繋がらない事が目に入らなくなる事ではないかと思います。金儲け以外に興味が無くなるのです。これは勿論万人に通用する話なのかどうか知りません。けれども万人ではないにしてもかなり多くの人間がこの類型にすんなりと当て嵌まるものと私には想像されます。中にはそれでいてちゃんと人生の目標を見失わずにしっかりした生活をしている人も居るでしょう。けれどその数は寧ろ少ないのではないでしょうか。
お金が無くて生活行動一切に余裕が無い。これはつらいですね。例えば夏、例えば冬、そしてこれから成長していく小さな子供が居る家庭、そして御世話を続けなければならない老人の居る家庭、全ての場合において一定額のお金は必要で、それは自明の事で、その不足殊に自分以外の人間に我慢不便を忍ばせる事は言葉に出来ない程つらい事だと思います。けれども真実に恐ろしいのは自分がお金に関わらない事に興味を失ってしまう事であると私は思います。それは最早中毒という言葉が一番相応しい状態です。酒でもギャンブルでもそれに溺れて正常でまともな判断が下せなくなります。即ち自己の人間性の喪失です。それに至っては絶対にいけません。それはお金が無い不自由つらさと比べても明らかに次元の異なる深刻な問題です。しかもその種の病み具合はしばしば元に戻る事が出来ないものです。
お金は質素な生活に必要な程度あれば良し、それ以上あっても何ら幸福に近付く手段にはならないという事、これを忘れてはなりません。『取り敢えず、有れば邪魔にはならない』、そうでしょう。しかしあなたが喜んで生きている為に必要なものとは、そんな『取り敢えず』と何の関わりも無いのです。
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サイモン&ガーファンクルの『スカボロー・フェア』を聴くと私は気が狂いそうになります。何故かは言えません。これはいつもの私の『何故かは判らないが』ではなく、私が気が狂いそうになる理由が判然と分かっておりその上で、だからこそ言えないのです。あの旋律、あのギターの音の繋がり、あの声、どれも私を卒然と三十五年前に連れ戻します。そしてそれ程の昔の事であるのに全く何の変化も受けず、却ってこれ以上無い程運命的な顔付をして、既にこの世のものでない威厳を帯びて、私に恐ろしい事実、私が背負っている恐ろしい歴史をよもや忘れてはいまいなと問い詰めます。過日ノーボーカルのフォークギターのインストルメンタルを聴いていて変な風に顔が歪みました。身体は凍り付いた様に動きません。三十五年の年月は瞬時に吹き飛びました。今は昔、そう、今は昔なのです。何も変わっていません。私の現在は私の過去と直結しています。三十五年のトンネルはただ無であるだけです。何も無いのと同じ事です。
「御前はそういう人間なのだ。それを忘れて何かをしても、御前は何度でもここに連れ戻されるぞ。生きる限り必ず。存在する以上絶対に回避する事が出来ずに。運命は御前がそれから切り離される事を許さない。御前が自己の自覚を失うまで、それは続くのだ」
この私という人間が如何なる人間であるのか、それを半分以上私を殺しながら教えてくれるもの。そうとでも謂えば可いでしょうか。余裕をもって悠々と歩を進める人生ではありません。水戸黄門の全国漫遊行脚などではなく、抜忍カムイの組織からの逃避行、心にあっては絶対的な彷徨。そんな風に謂えば良いのかも知れません。
私は突然音信不通になるかも知れません。若しも本当にそうなったら、私が『スカボロー・フェア』を聴いていて発狂したのだと思って下さい。発狂、いやそんなもの、疾うの昔に私に来っているのかも知れません。既に私は人形の様に、自己の使命だけを自己暗示か催眠術的に自分に無理強いして、それで生きているだけなのかも知れません。
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毎日何も無いというのが私には信じられません。新しい出来事は無くても心を用いる対象はあるでしょう。その事を深く或いは具体的に想ってみる、考えてみるという事があるでしょう。自分の大切なものを守る為に再度計画を点検し確認するという作業は今日も必要なのではありませんか。
自分の人生にとって重大なものは不意に来るのです。正確には不意にではないのですが、油断し切っている人間にはそれは全く不意に来るとしか考えられないのです。だから準備が要ります。この『準備』という事も考慮すれば人は一日中時間が幾らあっても足りないのではないかと思います。何かを忘れていませんか。いや、ちゃんと憶えているのに故意にそれを等閑視していませんか。運命が視ているのはそこですよ。そこに楔を打ち込んで来るのです。打たれてしまえば最早最後、その後に出来る事はありません。忘れていないで、顔を背けていないで、しっかり戦って下さい。今それが必要なのです。
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昔、苦しくて苦しくて堪らなかった時、両親より先に私が死んではならない、何が何でも、如何な事をしても、それだけは果たすと思って暮らしていた事がありました。本当にそれだけが私を死から遠ざける動機だった時期があります。その時の事は一生忘れません。いや、今も私の隣に居続ける意識です。
生きて何事かを果たす。それが出来るならばそれは勿論立派な事です。自らを許し納得出来るからです。それは人がこの世で得られる最大の慰めだと謂っても間違いではないでしょう。しかしそれが果たせるか否か保証の限りではない、否寧ろ果たす事が出来ない可能性の方が圧倒的に高い、そんな中で嘘を吐かず自身を見詰め続け暮らすのは至難の業です。椅子に座っているだけでも、身体を横たえて寝ている時ですら心休まる事がなく苦痛ですから。でも、それでも果たさなければなりません。それしか自己の存在を許容する根拠が見付からないからです。
人生は苦しいものです。有難く尊い慰めが与えられてもそれでもやっぱり苦しいものです。そこを通っていきましょう。それをしなければ本当に気が狂うしか残された道は無い様に思えますから。
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