イシヲモツチカラノモトニ ν
永い長い悠久の時を思わせる程に、長い時間を掛けて階段を登り続け、少女はその先に光り輝く扉を見た。
「ここは?」
「なんだろう?凄く穏やかな世界……。「神界」とはまた別の場所みたい」
そこはとても穏やかだった。他にいくらでもある表現の全てが適切でないくらいの穏やかさだ。
暖かい春の陽気を思わせる陽射しがあり、優しい「そよ風」が草の香りを運んでくれている。
木々は青々と茂り、その木には眩いばかりに輝きを放つ黄金の果実が実っていた。少女はその空間を一人歩いて行く。
「貴女が……、母様?」
「あら?よく来たわね。大変だったでしょう?」
少女は木陰で佇む一人の女性を発見し、声を掛けた。声を掛けられた女性は振り返っていく。
ダークブラウンの髪。腰までかかる長くツヤのあるその髪を、三つ編みにして後ろに垂らしている。
頭には白いベールを被り、そのベールに負けないくらい肌の色は白かった。
Aライン型で清潔感のある純白のドレスをその身に纏い、碧く輝く瞳には慈愛が湛えられている。
「貴女が、ホントに母様……なの?」
「えぇ、そうよ。どうしたの?そんな顔をして。今にも泣き出しそうじゃない?何か辛い事や悲しい事でもあったの?」
「母様、母様ッ、アタシ、アタシはッ」
少女のその瞳からは今にも大粒の泪が溢れ出そうとしていた。少女の視界は歪んでいく。そして母親に向かって歩を進めた。
母親はそんな少女を優しく抱き締めると、既に溢れ始めた泪で顔をぐしゃぐしゃにして泣きじゃくる少女の頭を、ゆっくりと優しく撫でるのであった。
「落ち着いた?」
「うん」
ぽんぽん
「偉いわね」
ぐずっ
それは初めて感じた母親の温もりだった。今まで知らずに生きてきた母親の温もりだった。
少女は今まで母親を知らずに生きてきたから、特に何の感情も抱いていないハズだった。
だからこそ、何を話すべきか階段を登りながら必死に考えていた。
だからこそ、初めて会う母親にどんな顔をして会おうか必死に考えていた。
なのに、感情は母親に会った瞬間に爆発してしまった。抑えきれない想いが溢れてしまった。
「そう、ヘラが。そんな事を……。まったく姉さんったら」
「母様は、やっぱり「神界」には戻らないの?」
「私は自分が結んだ宣誓を自ら破ってしまったの。だから、自分の名を捨て、その「名」が持つ権能すらも捨てたのよ。だからもう、「神界」に戻る事は出来ないの」
「でもね、私は貴女と言う娘を、とても誇りに思っています。だから、決して貴女を産んだ事を後悔しないわ。だって、貴女は私の「宝物」なんですもの」
「母様……」
母親は少女に向けて優しく言の葉を紡いでいた。そして、屈託の無い笑顔を少女に贈った。
その笑顔は少女の笑顔と「瓜ふたつ」だった。
それから母と娘は色々な話しをした。人間界での出来事。「魔界」で見てきた事。父親の事。爺の事。
少女の口から語られる様々な言葉を母親は相槌をもって聞き、表情豊かに少女に返していた。
少女の口から発せられる様々な物語を、母親は大事に大事にその胸の中にしまっていった。
「そう言えば、母様の名前って何なの?神話に準えるなら、「ヘスティア」だと思ってたんだけど、アテナに「間違いは無いけど違う」って言われてしまって」
「あら?まぁ、アテナったら。うふふ。私の名前は「ウェスタ」よ。ウェスタ・アシヌス・ファーネスよ」
「ウェスタ!?それって……」
「どうしたのかしら?姓が気になったの?」
「う、うん……」
「そうね。私達夫婦は元々ヒト種じゃないですからね。名前も偽名ですしね。かと言って本来の姓を使うワケにはいかないから、父様が考えて下さったのよ」
「それに「ヘスティア」の名は人間界に降りた時に捨てなければならなかったのよ。だから、その「名」はもう名乗れないの、もう死んでしまった「名」だから」
その昔「ヘスティア」と言う名の女神がオリュンポスにいた。その女神はクロノスの長女として産まれ、紆余曲折を経て末妹になった。
「ヘスティア」はその類稀なその美しさ故に幾度と求婚されていた。だが下心丸出しで形ばかりの求婚を行う男性に対して嫌気が指し、その申し出を断り続けた結果、最終的に「処女神」となる事を選んだのだった。
そして、家に於ける祭壇の守護者として、外に出る事を自ら絶つ誓約を設けたのである。
「ヘスティア」にとって、それは求婚から逃げる為の口実であったが、自分が望んだ「宣誓」でもあった。だからそれを破るつもりは毛頭無かった。
だがある時、運命に転機が訪れる。
「ヘスティア」は人間界の様子を自身の権能を使って覗く事が好きだった。否、むしろ「趣味」と言ってもいいだろう。
外界の様子を探る事だけが、唯一「ヘスティア」に許された外界と関わる手段だったのだから。
それでも自身が望んで行った「宣誓」があるので、外界に行く事など考えもしていなかった。
「ヘスティア」は外界をいつものように覗いていた際に、1人の男性に目を奪われ、その男性の事を次第に追い掛けるようになっていった。寝ても覚めてもその男性の事ばかり考える日々を送り、外界の様子を見る時はその男性の姿ばかりを追い掛けていた。
「ヘスティア」の乙女心は名前も知らない男性の一挙手一投足に、揺さぶられまくっていたのだ。
だからストー……ではなく、「推し活」と称して外界の様子をしょっちゅう探っていたのだった。
ある時、「ヘスティア」は追い掛けていた男性が挫折し心を打ち砕かれ、打ち拉がれていく姿を目撃してしまった。だから、いても立ってもいられなくなってしまい、やらなければならない事にも手を付けられず、その男性のコトを救いたいと考えてしまったのだ。
「ヘスティア」はそれをきっかけに外界に降りる事を、自らの「宣誓」を破る事を決めた。
「ヘスティア」の名を捨て、その権能すらも捨て誰にも気付かれる事無く「神界」から姿を消した。
「ヘスティア」は人間界に降りると必死にその男性を探し、その男性を立ち直らせる為の手段を講じた。だが、心を凍り付かせていた男性は何をしても立ち上がろうとせず、頑なに、意固地なまでに言葉を受け取る事をしようとしなかったのだった。
「ヘスティア」は神界でその男性の勇姿を見ていた。そして、それ程までに強く、勇ましかった男性の変わり果てた姿に泪を流した。
男性は何故、自分の為に泪を流しているのか理解出来なかった。だが、その泪は少しずつ男性の心に張った氷を溶かし、凍った心に春の温もりを与えていった。
「ヘスティア」は男性の心が晴れていくのを感じ取り、1つの村へとその男性を誘ったのだ。
紆余曲折を経て「ヘスティア」はその男性と結ばれる事になった。2人の事を知る数少ない友人達から祝福され、2人は幸せな時を過ごしていた。
お互いがお互いに自身の内情を秘密にしていたものの、2人が結ばれてから少しの時間が経った頃、その男性からカミングアウトは始まった。
そして、「ヘスティア」はその男性のカミングアウトに衝撃を受けるのと同時に、自身の事もカミングアウトしたのである。
お互いがお互いのカミングアウトに衝撃を受けたが、でも2人の愛は冷める事無く更に燃え上がっていった。
そして遂に「ヘスティア」の持つ「処女性」は失われる事になったのだった。
2人の間に無事に子供が産まれたが、その子供の特異性に対して力を使った事で「神界」に気付かれる事になってしまう。
「神界」へと連れ戻されるその時まで、2人はお互いがお互いを想い、愛し合っていた。だから、その家庭は幸せだったと言えるだろう。
それは離れ離れになってからも互いに想い合っていたのだから尚更のことだ。
「それが、父様との馴れ初めなの?」
「えぇ、そうよ。父様は凄くカッコよかったの!もうね、女神が一目惚れしちゃうなんて、おかしいでしょ?」
「それに、真っ直ぐな瞳をキラキラ輝かせて「愛してる」なんて言われたら、もう、キャーキャーキャー」
「母様のコトを知らずに生きてきたけど、なんか凄っっっごく人間くさいのね……」
「神族だって聞いた時、もっと怖い感じなのかなって思ったけど、なんか普通の人間よりも人間みたい」
「うふふ。だって、私は人間観察が唯一の楽しみだったから、いっぱい人間のコトを勉強したのよ。えっへん」
「ねぇ、母様……寂しくないの?こんな所でずっと1人で、本当は父様にだって会…んッ!?」
「それ以上は言わないで、それ以上言われたら私は後悔してしまうわ」
「母様……」
「愛し合う歓びを知る事を拒絶した私が、一時であれ「愛し合う」事の尊さを知る事が出来たのは、偏に父様のお陰なの」
「寂しくないと言ってしまえば、嘘になるけど……、それに「甘えて」しまう事はもう許されないの。神界に連れ戻され、私はタルタロスから奈落に堕とされるハズだったわ。自ら勧んで宣誓を破ったんですもの、そうなっても恨みはなかったわ」
きゅっ
「でもそれを救ってくれたのは、私の姉さん達だった。姉さん達は私が奈落に堕とされるのを善しとせず、ここに幽閉させる事をも善しとせず「いつか必ずここから出してくれる」って息巻いてくれたけど、でも、私は貴女に会えただけで充分」
「母様……」
「私にはもう、やり残した事なんて無いのよ。仮にここから出られて父様の所に行ってしまったら、それこそ姉さん達に申し訳ないでしょ?」
「だから、いいのよ。ありがとう……」
ウェスタは表情から無理矢理「昏さ」を追い払っていた。そして目を潤ませている少女の頭を撫でながら、優しく、とても優しく言の葉を紡いでいった。
「そうだッ!母様、父様に手紙を書きなよ。アタシは自力で「魔界」に行く事が出来るから、その手紙を持って父様に渡して来てあげる。もし、父様から手紙を預かったら、アタシがここに手紙を届けに来るよ!そうなれば、もう、「寂しくない」でしょ?」
「ありがとう。本当に…いい子に育ってくれて、私は、私はッ……うっ、うっ」
少女は潤ませていた目の泪を拭いウェスタに言の葉を紡いでいく。その紡がれた言の葉はウェスタに響いていった。
そして泣かないように決めていたウェスタの目からは大粒の泪が…、その意思に反して一雫落ちて純白のドレスを濡らしていった。
ウェスタは自分の娘を力一杯抱き締め、その頭に頬を押し付け今度は少女の髪を濡らしていく。
少女もウェスタの背に手を回し、ここに来るまで知らなかった母の温もりを感じていた。
こうして少女はウェスタから手紙を預かり、それを大事にデバイスの中に収めた。
「あと、これを渡しておくわね」
「これは、魔石?まさかッ!」
「そうこれは「ヘスティア」の魔石よ。私が「ヘスティア」を捨てた時、私の中の「ヘスティア」は死んだの。だからそれは「ヘスティア」の魔石。以前、貴女は「ロキ」達の魔石を渡されているでしょ?それと共に持っていなさい」
「えっ?!何で、母様が「ロキ」の事を知っているの?それに、何でアタシがその魔石を持ってる事まで?」
少女は背筋に一気に悪寒が奔っていった。何故、この場所に幽閉されているウェスタがその事を知っているのか疑問に思ったからだ。
「「ロキ」が人間界で行った事、「ロキ」達が「魔界」で行った事、その全てを私は知っているわ。「ウェスタ」の概念は「炎」そのものだから……。私は「炎」を通して世界を視る事が出来るし、識る事が出来るの」
「それが、母様の概念……」
「だからこそ、同じ「神族」の一柱として、「ロキ」達が行った行為は決して赦される事では無いわ。「魔界」でロキ達の魂が眠りについた時、私は貴女の身体を借りて、父様にロキ達の魂を探して渡すように伝えたの」
「そう言えば、父様がそんなコトを言ってたわね……あんまり覚えてないけど」
「だから、貴女は「ロキ」達の魔石を貰ったでしょう?あ、でも、貴女の身体を借りる為にここを抜け出したワケでは無いのよ?だけれど、そのお陰で短い時間だったけど、父様にも会えたわ。父様の姿形はまるで違っていたけどね。うふふ、でも迫力があって、凄くカッコよかったわぁ、もう惚れ直しちゃう!キャーキャーキャー」
ウェスタの言の葉は少女が多少なりとも感じた「悪寒」を余韻も残さずに消し去っていた。
そしてどこか「ホッ」とした少女だった。
「神族の魔石は持っている間中ずっと「加護」が与えられ続け、体内のオドも飛躍的に跳ね上がるわ。「魔界」で貰った魔石と新たに「ヘスティア」の魔石を貴女が持てば、容易に世界を渡る事が出来る。だから、それは貴女にとっての力になるわ」
「えっ?それじゃあ、フェンリルやスルトの加護もあるのかしら?」
「えぇ、あるわよ?あの人達もちゃんとれっきとした神族だもの。ちょっと考え方が違うだけで……。でもまぁ、どんな加護を持っているかは知らないけど……」
「でも、この魔石を危険な事に使って欲しくないのは分かっていてね?ちゃんと手紙を渡して貰いたいけど、世界を渡る危険を少しでも少なくしたいって気持ちがあるから託すのよ?手紙と一緒にね!」
「うん、母様、分かってる。大丈夫よ、心配しないで」
「それに、その魔石があれば、ここにも自由に入って来れるようになるから何かあれば、気兼ねなく顔を見せてね」
ウェスタは言の葉を結んだ。その表情は少しだけ寂しそうでもあり、心配そうでもあった。
いつまで経っても娘の事を想う母親の顔と言われれば、その通りかもしれない。
「それじゃあ、母様、また来ます。それまで、お元気で」
「えぇ。なるべく危険なコトはしたらダメよ?それと、悪い人にも付いていったら……」
「アタシはそんなに子供じゃないわ、母様」
「うふふ。そうだったわね、ごめんなさいね。そして気をつけて、いってらっしゃい」
少女は母親の温もりを知り、母親の姿形を知った。母親の声を匂いを、そして名前を知り、母親の元を去っていったのだった。
母親の元を去った少女はアテナの神殿に戻って来ていた。そして少女が神殿に戻って来た時、空の陽の光は大分傾いていた。
結構な時間をウェスタの元で過ごしていたようだ。
少女はそのまま神殿の中に入ると自身が使っている部屋に向かった。しかしながら少女が部屋に入ると、床に倒れているアテナの姿が視界に飛び込んで来たのだった。




