Lost Drifter ν 挿絵付
クリスはアラヘシ市から真東に向かって飛んでいた。
そう、「真東に」だ。
クリスは房総沖の海上にあった、積乱雲に向かっていたのである。風龍イルヴェントゲートが巻き起こしている台風に拠って、不安定になった気象条件下で「ただ発生していた」だけの積乱雲に向かって邁進していたのだ。
しかも、そのまま空を飛び空路で千葉国の中に越境していた。
更に付け加えると、クリスは未だにデバイスの操作が不得手な所がある為、少女のように防寒対策用のASPのインストールなんかもしていない。
要するに少女の屋敷に行った時の「着の身着の儘」の格好だった。この寒い冬の空をそんな格好で飛び、積乱雲に飛び込んでいったのである。
当然の事ながら、びしょびしょの濡れネズミならぬ濡れ龍人族になったのだが、モチのロンでそこに風龍はいない。
いるワケも無い。
「これは何かおかしい」と思い、クリスがバイザーで確認した時に初めて、風龍イルヴェントゲートの所在を知らない事に気付いたのだ。だが、クリスは挫けなかった。
サラに対して必ず連れ帰ると約束したからだ。
それ故にあろう事かそのまま東に向かって飛び続けていった。東に向かって飛び続ければ必ず見付かるだろうと安直に考えたからである。
そこは海しかない陸地も何も無い太平洋上。視界に映るのは雲の白と海の青、そしてキラキラと輝く陽光だけだ。
最初に突入した積乱雲以外の雨雲には幸か不幸かぶつからなかったものの、陸地も何も見えずただただ広大な海の上を飛び続けたクリスは、無理が祟り限界を迎えようとしていた。
海を渡る鳥でさえ、そんな無茶なルートは取らないだろう……。
幾日も昼夜を問わず飛び続けた結果、クリスは既に限界を迎えていた。睡眠不足に加えて、途轍もない疲労感と空腹に襲われた結果、方向感覚が徐々に狂っていった。
しかし、これがクリスの唯一の僥倖とも言える、幸運の類だった事に変わりは無い。
「あそこに島が見える。水が飲みたい。食べ物が欲しい。そして、眠い。意識が朦朧とする。早く、早く降りて……」
「あぁ、いかんいかん、しっかり気を保たねば」
クリスは当初の目的をすっかり忘れ、生存本能のままにその島へと降りる事を決めたのだった。
ばさッばさッ
「ふむ、久し振りの陸地だッ。あぁ、地に足が付くというのはこんなにも幸せなコトだったのだな!さて、眠気も疲労も空腹も……この島でなんとかなるだろうか?」
ざっざっ
「ところどころで木が倒れているな。それに人が住んでいる気配は感じられない。無人島なのか?だが、それでは困る。せめて水だけは確保したい!仕方ない……歩くよりは空から探した方が的確やもしれん」
ばさッばさッ
クリスは一度島に降り立ったものの、上空から見た時よりもこの島は荒んでいる様子だった。
あちらこちらで木々が倒れている。更には倒れた木が、折れた根本の辺りから遥か彼方に転がっている。それを見ただけでも、ここで何かが起きたのは明白だった。
然しながら、見知らぬ土地で何かあっては困る。それが魔獣だったりすれば尚更だ。現状で戦闘に耐えられる程に、クリスの身体の調子は宜しくなどないのだから……。
拠ってクリスは再び空から探索する方針に切り替えていった。
比較的低空で空を飛び探索していくが、周囲に建物や住居は見当たらない。しかし、そこまで大きな島ではない様子だったので、数時間も念入りに調べれば何かしら見付かるだろうと安直に考えていた。
最悪の場合は睡眠だけ取って、他の場所に動くコトも視野に入れながら。
だが、クリスは島の北側の探索の途中で、煌めく物が一瞬だけ見えたような気がした。その煌めく物が何だったのかはサッパリ分かっていなかったが、クリスは単純にそれが水だと思った。
よって翼をはためかせると方向転換し、そっちに向けて羽ばたいていったのである。
「さっき何かが見えたのはこの辺りだったか?もう少し高度を下げてみるか……鬱蒼と茂っている木々の上からじゃ、何か見落としているかもしれん」
ばさッばさッ、しゃー
「ここら辺はあっちより大地が泥濘んでいるようだ……。いくら喉が渇いていても流石にアレは飲めないな」
きらッ
「ん?さっき光っていたのはアレか?よし、行ってみよう」
ばさッばさッ
「これは……家か?木の中に作ったツリーハウスと言うヤツか?そう言えば、此の身の村にもいくつかあったな」
ばさッ
「ん?装備が干してある。さっき光っていたのはコレか?この様子だとこの装備は捨てられたモノではないだろう。あの家の中にコレの持ち主がいるかもしれんな。よし、行ってみよう!人がいるなら、水と食料を分けてもらえるやもしれん!」
それは大きな木の中腹辺りに作られた小屋みたいな家だった。だが、ツリーハウスと呼ぶには非常に質素かもしれない。
家の外には誰かの装備品と思われる防具一式が木の枝に掛けて吊るされている。恐らく濡れた装備を干しているのだろう。
「ここに住んでいるのはハンターだろうか?」「それとも魔獣を狩る事を生業とする狩人だろうか?」そんな事を心の中で呟きながらクリスは小屋に近寄って行く。
干されている装備品は太陽の光を浴びて、淡い緑色を醸した銀色に光っている。
その装備品のあちらこちらからは、ぽたりぽたりと水滴が垂れていた。
「誰か、おられるかぁ?家主は留守だろうか?流石にインターホンは無い……な。ならばこの梯子を登って上まで行ってみるしかない……のか?不法侵入にならない事を祈るばかりだ」
ぎしっぎしっ
「結構丈夫な梯子のようだ。さっきの装備のサイズからしてもアルレ殿のような小柄な者ではないのだろう。しかし、油断はしないでおこう。いつでも羽ばたける準備はしておいた方がいいかもしれん」
ぎしっぎしっ
「誰か、おられるか?ん?返事がない……家主は留守か?しかしそれでは流石に、見ず知らずの者の家に上がり込んで、家主の帰りを待つワケにはいくまいな」
かたッ
「ん?物音?誰かおられるのか?此の身は怪しい者ではない。れっきとしたハンターだ。この近くの依頼に来たのだが迷子になって困っている。もしよければ、飲み物と食べ物を少しでいい、分けてもらえないだろうか?」
灯りも無くとても暗い為に中の様子は、入り口付近からでは何一つとして分からない。
拠って小屋の中がどうなっているのかはサッパリ分からない。
然しながらこの小屋は、木の虚を利用して作っているのだろうという事だけは分かった。外観は質素だが、中は思った以上に広そうな感じがしていた。
拠って奥の方までは陽の光も届いていない様子で暗く、ひっそりと静まり返っていたのだった。
だがクリスは奥から聞こえた物音で、誰かがいると、勝手に確信していた。ネズミやリスなどの小動物の可能性を考えなかった事から、それがクリスを天然足らしめる証拠かもしれない。
よって、弁解混じりの独り言を話しつつ、勝手に小屋の中へと入っていく事を選択したのである。
小屋の中はやっぱり暗かった。デバイスを光源代わりにしようと考えたが、デバイスの機能に疎いクリスはどうすればいいか分からない。
そこでクリスは暗い小屋の中で四つん這いになり、手探りだけを頼りに進んでいった。その姿は、明かりが灯っていれば言い逃れが絶対に出来ない不審者である。
流石に小さな落とし物を探してるといった言い訳も、しようがない状況だろう。
こうして物音の聞こえた方へ、手探りで向かう不審者の指先に温かい何かが触れたのだった。
「ひっ?!あ、いや、すまない。思わず悲鳴を上げてしまった。これはだな、此の身は……」
「……」
「ん?反応がない。えっと、デバイスが少しだけ明るいから、これで照らしてみるとするか……ん?これは、足か?人が寝ているのか?」
「アナタ、そこで何してる?」
「ひやあぁッ!?あわわわ、こ、此の身は、ハ、ハンターをしている者だ。勝手に上がり込んでしまって申し訳無い。近くの依頼に来たのだが、その、道に迷ってしまってな、それに水と食料も無くて、正直困っている。だ、だから、決してやましいモノではないし、あやしいコトなどしてないぞッ!」
「ハンター?アナタ、その人の知り合いか?」
「ん?この人は家主ではないのか?」
「やぬし?この家、リュウカだけ住んでる。その人、海で拾った。生きてたから連れて来た。見た目、ハンターだった。だから知り合いかと聞いた」
「知り合いか?と言われても、暗くてよく見えない。すまないが灯りは無いだろうか?」
「分かった、火を点ける。アナタ、そこで待つ」
たったったっ
「声からして女の幼子のようだったが、どこかに行ってしまったな?——火を点けるとか言ってたようだが、帰ってくるまで待つとしようか」
たったったっ
「今、灯りを点ける」
カチッカチッ
「火打ち石か?薪がそこにあるのだな?」
「そう」
「ならば、此の身が火を点けよう。石を貸してもらえるか?」
本来であればクリスは不法侵入であり、挙動不審な不審者だ。だが家主はクリスを警戒する事なくクリスの言われるがままに火を点けようとしていた。
どこか覚束ない話し方のリュウカだが、クリスはそれを気にする事なく火打ち石を預かるとリズムよく石を打ち鳴らしていく。
暫くして、火花は小さな火種となり、その火種は薪を燃やすだけの炎となっていった。
ぱちぱちぱち
「これ、灯り。使って。その人知り合い、調べて」
「フライパン?燭台の代わりか?うむ、ありがとう」
火の灯りに拠って、暗がりは暇を申し付けられていった。こうして、小屋の中の様子が覗い知れるようになったのだった。
この小屋の主は女の子だった。名をリュウカと名乗っていた。年齢は10代半ばくらいに見える。髪の毛は長い金髪だが整えられておらずボサボサで、着ている服はボロボロだった。
そして、この虚の小屋は思ったよりも広かった。案外太くて大きな木に作られているのかもしれない。外から見た時はそこまで気にしてはいなかったので、小屋の大きさにクリスは驚いていた。
小屋自体は縦に長い作りになっており、奥の方に1人の男が寝かせられていた。先程、クリスの指先に触れたのは、この男の足で間違いはないだろう。
「先程、名前はリュウカ殿と言っていたか?リュウカ殿は1人でここに?親御殿はいないのか?」
「そう。リュウカはリュウカ。ここで1人、暮らしている。おやごどの?ああ、父さん少し前に死んだ。母さん知らない」
「そうか、それじゃあ、近くに身寄りはいないのか?他に村人とかは?」
「みより?村人?そんなのいない。この島にリュウカ1人。今、リュウカの他にその人とアナタいる」
「この島で1人で生活しているのか。何という事だ。こんな幼子が1人で生活など、あってはならないじゃないか」
「この島、誰もいなくなった。それいけない事?リュウカ1人で暮らしてるのいけない事?それにリュウカ13歳、幼くない」
「い、いや、そうではなくてだな、もしも何かあった時にリュウカ殿を誰も助けられないではないか?それは流石にいけないというかだな」
「それより、その人、知り合い?」
「あぁ、そうだったな。すまない。ところで、この人はさっき海で拾ったと言っていたように聞こえたが?」
奥で寝かせられている男は、数日前の嵐があった翌日に、ここから更に北にある浜辺に打ち上げられていたらしい。
日々生きる為の獲物を取りに行った際に発見し、ここまで連れて来たとリュウカは話していた。
現在、この島で生存している人間は3名。人口で表すならば2名。戸籍で示すならば1名となる。
まぁ、実際に戸籍があればの話しだが。
元々、この島にはリュウカとその父親が暮らしていた。更に時を遡ればこの島には村があり、数十人からの村人がいた。
この島には魔獣が存在しておらず、人々は海に出て漁をし、危険の少ない山の中で、野生の獣を捕り生活していたのだ。
海洋性の魔獣も島の付近には存在しておらず、海も平和だったと言えば平和だった。
しかし少数の牧畜はしていたが農耕をするだけの水資源はなかった。
野生の獣を狩り尽くさないように調整し、数が減ったと気付けば漁や山の恵みだけで飢えを凌いでいた。水は雨を蓄え煮沸して飲むような生活だった。
何故ならばこの島は北太平洋上にあり、1番近い大陸までは数千kmもある。
故に融合後に、どこの国からも見放されてしまった島だった。
だがそんな中、不漁に見舞われた年に村の中で争いが起きた。その年は山の恵みはほとんど実らず、獣も何かに怯えている様子で自分達の巣から出て来ようとしなかった。
更には漁に出ても魚は1匹も網に掛からなかったのだ。
そして飢餓は人々の心を狂わせた。ある者は近くの大きな島に移ると言って自力で舟を漕ぎ、島から出て行った。
ある者は少ない食べ物を人から奪い、集団で袋叩きに合って息を引き取った。またある者は、飢餓に苦しみながら静かに息を引き取った。
気付くと島にはリュウカ父娘しか残っていなかった。リュウカの父親はリュウカを餓えさせ無い為に、必死に海に出て漁をした。そして、山には至る所にワナを張り獲物が掛かるの待った。リュウカも父親のその姿をよく見ていた。
だから、リュウカ自身も父親の漁をよく手伝い、ワナの仕掛けも手伝った。
大きな獲物がワナに掛かると、重たい獲物を荷車に乗せ2人で小屋に運んだ。小屋に取り付けてある滑車で小屋の中まで運び、よく獲物の血抜き解体をした。
平和な父娘2人だけの生活だったが、リュウカは楽しく幸せだった。だが、その父親も昨年亡くなった。
病だった。
2人ぼっちのこの島に薬は無い。診てくれる医者はいない。助けてくれる人もいない。
病に罹れば自力で打ち勝ち、治すしか手段は残されていない。だが、父親は勝てなかった。
リュウカは1人ぼっちになった。でも、1人ぼっちでも生きていかなければならない。自分の為に漁をしてくれた父親はもういない。自分の為にワナを仕掛けてくれた父親はもういない。
だから、リュウカは父親が生前言っていたコトをよく思い出して、実践していった。
「嵐が去った後はよく浜辺に魚が打ち上げられている。だからこんな時はラッキーだ。早く行って新鮮なうちに拾っておくんだ」
「嵐が来て漁に出れない不運を嘆かなくていい。嵐のおかげで荒れた海に出なくていいんだ。だから、ラッキーなんだ」
「多少お腹は空くが、嵐が過ぎれば魚が落ちてるから、たらふく食べられる。それでトントンだ」
父親がよくリュウカに話していた。だからその事を覚えていたリュウカは、嵐が去った後に浜辺に行った。
そして、この男を拾った。
リュウカは最初、浜辺に倒れている男を発見すると死体だと思った。そこで小屋まで荷車を取りに行き、倒れている男を荷車の上に乗せ、小屋まで運んだ後で埋葬しようと考えていった。
父親が死んだ時にその亡き骸はリュウカが1人で穴を掘って埋めた。その墓には父親が1人だけで眠っている。
だから浜辺に打ち上げられていた男を父親の横に、父親が寂しくない様に埋葬しようと考えたのだ。
リュウカは苦労しながらも荷車の上に倒れていた男を乗せたのだが、ここで状況は少し変わった。男が呻き声を上げたからだ。
リュウカは倒れていた男が生きている事を知り、埋葬ではなく助ける事を選択したのである。
荷車を押して小屋まで辿り着くと滑車を使って男を小屋まで上げた。
その際に男が身に着けている装備は外し、近くの木に引っ掛けておいた。
小屋に男を引き入れると、男を引き摺って奥に寝かせ、火を焚いて暖を取らせたのだった。
その後、いつになっても男は意識を取り戻さなかったが、起きた時に腹を空かせていると考えたリュウカは、甲斐甲斐しく漁をして毎日獲物を獲って来ていたのである。
クリスはフライパンの火を男に近付けていく。だが顔は見た覚えが無い。瞳の色こそ分からないがフライパンの火に照らされる髪の毛は短く、赤毛混じりのようだった。
それ以外に身体に目立った特徴はないから、獣人種ではなくヒト種に思えた……とまぁ、その程度しかクリスには分からなかった。
だがそれで諦めるクリスではない。
男の胸にはロケットがあり、ロケットの蓋は開いていた。その中には写真が入っているようだったから、クリスは火を近付けその写真を見る事にしたのだった。
写真には4人の男女が写っていた。顎髭を蓄えた壮年男性の前に2人の子供が写っている。子供のうちの1人はこの男だと思われた。どことなく面影があるからだ。
あとのもう1人は着ている服からして女の子だろう。そして男の子よりも小さいから妹かもしれない。髪はそこまで長くない様子で、髪の毛は薄っすらとした茶色だった。
「どこかで見たような気がするが、誰かに似ているだけか?ぬぬぬ……他人の空似にしては、似過ぎのような気しかしないが、誰に似ておるのだ?」
「そんなの知らない」
「そ、それはそうだな。リュウカ殿は会った事はないハズだからな。ところで、最後の1人は……んッ!?これは、まさかッ!」
「これは知ってる?」
「こ、これは、執事殿だ!」
「ひつじどの?それうまそうだ」
ちょうどその時、クリスのデバイスに着信が入った。
爺は戻って来たシソーラスを引き取ると乗り込み、そのまま南に向かってシソーラスを走らせていった。屋敷のサラとレミには前もって「暫く戻れないかもしれない」と話し、屋敷の事は全て任せると伝えた。
薄情な感じがしなくもなかったが、それだけ切羽詰まっていたとも言い換えられる。
爺は暫く走ると1軒の家の前にシソーラスを停めた。そしてその家の中へと入っていく。
「あぁ、時間通りに来たな。頼まれていたモンは用意しておいた。代金は嬢ちゃんにツケとくから、依頼の報酬から回収させて貰うとするが……それでいいかい?」
「手持ちで良ければお支払い致しますが、いかほどで御座いますか?」
「急だったんでな割り増し料金になっちまう。4枚で5万ゼンだな」
「かしこまりました、ツケでお願い致します」
「あははっ、りょーかい。じゃあ、これが頼まれモンだ。ほらよッ」
ぱしっ
「有り難う御座います」
その声は迫力のある低い声だが、聞き取りやすく通る声だった。
ここの外観は普通の一軒家の様相だが、中はバーのような造りに改装されている。そのバーのカウンターの中にその男はいた。
歳の頃は30代半ばといったところで、髪はシルバーメッシュが入っているが全体的に燃えるような赤髪で短い。更に右の眉尻から頬に向かって細長い傷が見える。
この男が通称「スカーフェイス」と呼ばれる神奈川国ギルドの、ギルドマスターである。
そして、何の変哲も無いこの一軒家風のバーが神奈川国ギルドの本部であり、武力組織という肩書きに於いては公安と比肩する存在と言える。
「だが、旅券なんて一体何に使うんだ?嬢ちゃんは星持ちだろ?旅券無しであっちこっち行けんだろ?……ま、聞くだけ野暮ってモンだわな。わりぃ」
「お気遣い有り難う御座います。それでは、当方はこれにて」
「おう、嬢ちゃんに宜しくな。たまには公安だけじゃなくて、こっちの依頼も頼むって言っといてくれや」
「お嬢様に伝えておきます」
爺はスカーフェイスから受け取った「旅券」を手に握り、そのままシソーラスを海岸線沿いに走り抜けていく。
この世界に於いて、旅行は一般的とは言えない。
ハンターはブーツで空を駆ける事が出来るが、翼や羽を持つ獣人種や精霊種以外の一般的な人々は空を飛ぶ事が出来無い。また、空を翔ぶ魔術はあまり知られていない。
魔術を得意とする亜人種のエルフ族や、翼や羽を持たない精霊種なんかもそれらの魔術は使えるようだが、やはり広く知られている魔術とは言えなかった。
然しながら空路で勝手に越境すればそれは当然、密入国になるので推奨は絶対にされていない。
だからもしも旅行をしたいのであれば陸路がメインになる。だがその場合は、各国境間にある高い壁を越える必要がある。
一部高い壁がない国境線もあるがその場合は大抵高い山や深い渓谷、大きな河などが存在している。拠って自由気ままに、国境を跨ぐ往来は基本的には出来ない。
だからこそ、国境を越える為に必要な物が「旅券」なのである。
「旅券」は公安やギルドのみが発行出来るシロモノで、それが無ければ陸路で国境を越える事は基本的に出来ないとされる。その結果、人々にとって旅行は一般的ではないと言える。
付け加えるならば、その「旅券」は決して安い物ではないので「旅行」が一般的でない結論に繋がる。
大体、普通の一般的な家庭に於いて1ヶ月あたりの生活費は統合通貨で1000ゼンあれば足りる。
そして旅券は入国時に1枚使う。謂わば片道切符なのだ。だから帰ってくるには必ずもう1枚必要になる。
拠って、隣国に行くのだけでも2年分くらいの生活費を求められる事になる。それだけでも、旅行は一般的ではないと断言出来る。
それ以外にも魔獣の問題や野盗の問題などもあるが、それは言わずもがなだろう。だからそこまでして、旅行に行きたい人がいるワケもなかった。
爺はシソーラスを走らせ、国境を2つ越えた。神奈川国と東京国の国境と、東京国と千葉国の国境である。
爺はハンターでは無いが、ハンターの関係者である事に違いは無い。その為にシソーラスの積載品などは細かい検閲を受けずに済んだが、それでも「旅券」は必要だった。
こうして2回国境を越えたシソーラスは、ひたすら東に向かって走り続けていった。
向かった先は最東端の「犬吠埼」と呼ばれる場所である。




