#8 ネライダ――信頼
「これは酷いわ……復旧は絶望的かもね……」
まだ漂っている二酸化炭素による白い靄のせいで、シレーヌに見えていたのは区画の一部だったが、彼女はすぐにそう判斷した。
状況はそれぐらい壊滅的だったのだ。
「ネライダ、重力をもとに戻して。ゆっくりね」
宇宙服の胸部あたりを操作し、磁気靴の効果を切ったシレーヌは、体勢を整えて床に着地した。つぎの瞬間、恐怖を感じたのか扉から十数歩後退した。二体のドロイドも彼女に倣った。
「ネライダ、もうわかってると思うけど、区画の温度が尋常じゃないわ」
「ええ、むしろ火災より蓄積された熱のほうが致命的とさえいえます」
「そうよね……とにかくやれることをやりましょう。今すぐ三番扉を閉めて。残りの扉の閉鎖状況を確認。それから、中国区画への大気の出入りをできる限りシャットアウト。それから、それから……どうすればよかったんだっけ――」
シレーヌが言い終わらぬうちに、"No.3"とかかれた扉が閉まりはじめた。
「毒性をもった大気は――。駄目だ、頭が朦朧として何も浮かんでこない」
「船長」
ネライダの声には、彼女の疲弊と焦燥の入り混じったような混沌はなかった。
「これより、船の航行および乗員・統括人工知能の安全確保に必要なぶんを除く冷却水を、循環システムで帯熱部へ流し込みます。その熱を船外のラジエーターに移動させ、赤外線放射させます。時間はかかりますが、これでなんとかなるかと」
「ああ、そうね、訓練中に死ぬほど繰り返して憶えたのに……どうして――」
「しかし、それより問題なのは毒性の大気です。なにしろドロイド工場にはありとあらゆる化学薬品や電磁波を発生させる機器がありましたから。それらがどのように反応し、どのような危険因子を作り出すかは未知数です。非常に危険です。船長はいますぐそこを離れなければなりません。ですが、大変申し訳ないのですが――」
「検疫ね。わかったわ、わたしは露国区画に戻ればいいのね」
「はい、そうです。安全さえ確認できればそれでいいのです。しばしのご辛抱を」
「でもね、ネライダ。わたしそこまで歩ける気がしないのよ」
「それはわかっています。さきほど投与した吐き気止めと強壮剤の効果もそろそろ切れる頃です。搬送と検疫、救急処置はドロイドにやらせますので、安心してください」
「そのようね。また頭痛と吐き気がするわ。ああ……ネライダ、なんだか変よ。世界が白く見えるわ」
「わかっています。それはヘルメットのバイザーに入った微細な亀裂のせいです。ドロイドのカメラで確認できています。心配ありません」
それまで張り詰めていた気力が抜け落ちたように、シレーヌは壁を背にして座り込んでしまった。
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「ネライダ、あなた頼れるのね。出発からこっち、わたし、あなたのことを話し相手くらいにしか思ってなかったわ。なんだかね……」
シレーヌは何かをいおうとしたが、がっくり首を垂れて気を失った。
白く微細な亀裂の入ったバイザー越しに、医療ドロイドが近づいてくるのが見えた。
「シレーヌ、どこだい? どこにいる?」
ルフトの声。どうしたのかしら? あんなに慌てて。
「ここよ、ここにいるわ。どこにも隠れたりしないわ」
懐かしい研究室。資料に埋もれて悪戯したこともあったっけ。
「いた! 酷い顔色だ。また徹夜かい?」
「ルフト、あなたも人のこといえないわ。目の下に隈ができてるじゃない」
「そんなことよりシレーヌ、決裁が下りたよ。もちろん承認だ!」
「おめでとう! おめでとう、ルフト!」
頼もしい胸板。温かくて安心できて。決して失いたくない。
「でもさ、時間が足りないんじゃなくて? 二年で完成なんてとてもじゃないけど、無理なんじゃ? その……なんでしたっけ、えっとー」
「ネライダ。いまは計画名称だけど、ネライダだ」
「そうそれよ! 徹夜のせいかな、頭がぼおっとしてすぐに出てこなかったわ。でも、それだけじゃなくて、船の建造計画もあるでしょ?」
「それなら心配いらない。国際宇宙機構I S Oの宇宙船建造技術は頂点に達しているからね。だから、あとは僕らしだいだね」
「でも、あなたの身体が心配よ。だってほら、こんなに無精髭が伸びて――」
ルフトの張りのある頬。チクチクする髭。
「それは君も同じだ、そのボサボサの髪はなんだい?」
天使のような笑顔。珈琲と煙草の匂いのするキッス。
皺だらけのワイシャツ。胸元にケチャップの染み。
「それじゃ、僕はもう行くね。また夜にでも。――そうだシレーヌ、宇宙船の名前、候補をいくつか考えておいてよ。ぼくも考えるけど」
揺れる右手。開け放たれた窓。夏の陽射し。――純白の閃光。




