#54 イグジスタンス――悪戦苦闘
エイミーは国際宇宙機構を離れてみて、様々な事柄を改めて強く実感しはじめていた。
秘書としての仕事、ルフトとのこと、ディッキーとリッキーとのこと、祖母エポラールとのこと。
もちろん、それ以外も脳裏に浮かんでは消えていったが、やはり、強く実感したのはディッキーとリッキーの存在だった。
エイミーは、祖母との和解の場で見かけた、カルハリアス老人を心のどこかで侮っていた自分を恥じた。ルフトがいなければ生きていけないと嘆いた老人を冷笑した自分が、嫌でたまらなかった。
「わたし、なにをしてきたの? なにがしたかったの? なにがしたいの? なにを大切だと思ってきたの?」
問い詰めれば問い詰めるほど、答えが指の隙間から零れ落ちていくのを、エイミーは感じていた。
もう泣かない。そう決めて挑んだディッキーへの直訴の意味は? と考えてみても、藪の中にいる気分になるばかりだった。だがそれでも、数日間ベッドに寝転んではその意味を考えつづけた。
ふと気づくと、部屋はぷりぷりしながら片付けた、三、四週間ほど前に見たディッキーの執務室のようになっていた。それが三週間前なのか四週間前なのか、エイミーは自信をもっていえなかった。
そうして無為に時間を過ごしていたとき、ふいに閃くように気づきが訪れた。
「わたし、誰のこともなにひとつ知らなかった。ディッキーのこともリッキーのことも、ルフトさんのことも……。結局、お婆ちゃんのいってたことが正しかったのね」
エイミーは芯から悔しがった。
彼らの中核に触れられるものがないかと考えた。しかし、見つからなかった。
そのとき、ハンツ川でのルフトとのやりとりが、突然想起された。
――見るも自由、見ないもルフトさんの自由です。わたしは見ちゃいましたが、1インチも内容がわかりませんでした――。
――ルフトさん……あなたは目を輝かせて喜ぶと思ったんです。だから引き受けた面もあったんです。でも違った――。
「わたし、なんて嫌な奴だったの……平気な顔で嘘をついて笑ってたなんて、最低すぎる……。本当は中身なんて1インチも見てなかった。そもそも、わたしに見る権利も資格もなかったけど、特別な配達役だと得意になってた……いい気になってた。知りもしないこと知っているふりをした……。――そのうえ恥知らずにも、見ることや知ることの重さなんてちっともわかってなかった。なのに、ルフトさんにあんな酷いことをいった。それに輪をかけて自分の感情を押しつけて、同情の涙なんか流してルフトさんの前で泣いた。――そんなことをしてきたから、ディッキーにも愛想を尽かされて当然なのよ。そうされて当たり前だったのに、まだわからないで本部長室に乗り込んで『理由を教えろ!』って、しつこく迫った。本当にわたしって最低……」
そう気づいたエイミーは、むっくり起き上がると倉庫の扉をあけて、必要になりそうなものを無造作に超電導車に積むと、運転席に乗り込んでハンツ川を目指した。
昇ったばかりの太陽をかすめて、鳥たちが飛びかい囀る声が聞こえた。
「あの鳥たちは、守りたいものがわかってるのかしら? それを伝えようと囀るのかしら?」
超電導車のトランクから出した大きな荷物を背負うと、エイミーは川にそって歩いた。
「確かこの辺だったはず。こっちの岸に大きな杉の木があって、右手の奥にはハンツビル27のドームが見えた……その左にアラジンの天文台、尖塔のような実験用発射台があっちに霞んでみえて……超電導高速道の橋は確かあのへん……。そうだ、ここだ、ここに間違いない」
エイミーはそこが、ルフトと一緒にタブレットにある情報を破棄したあと、それを川面に投げ込んだ場所だと確信した。
人目も気にせずに服を脱いだあとにウエットスーツが現れた。
荷物を引っ掻きまわし、足ヒレを出して装着すると、ゴーグルとシュノーケルをして、躊躇することなく川のなかへと身体を運んだ。
そうして、エイミーは水中に潜ってタブレットを探しはじめた。
川底を攫い息がつづかなくなって浮き上がり、胸いっぱいに空気を吸ってまた潜った。そして浮きあがりまた潜り、浮きあがってまた潜った。
水中に届く揺らめく太陽の光に照らされても、深くてよく見えない場所は川底を手探りして攫った。ところどころにはヘドロが堆積していて、吐き気をもよおす水を飲んだ。それでもエイミーは潜っては浮きあがった。
「ルフトさんのことをちゃんと知らなきゃ……。それにもしかすると、リッキーの検査結果に繋がるなにかが、あのなかにあるかもしれない……。ディッキーが本部長に戻ってこられる情報だって、あるかもしれない……」
折れそうになる心と体に鞭を打ち、自分を奮い立たせては潜っては浮きあがり、潜っては浮きあがった。
疲労で目眩がしはじめる。波打つような頭痛に襲われる。秋が近づきつつあった川の水は彼女の体温を奪っていった。
エイミーは纏わりついた倦怠と徒労を一旦ふり払おうと、川岸へと這いあがった。
目をあげれば、空を覆い尽くすかのような黒雲が迫り、ぽつぽつと雨が降りはじめた。
「あのときと同じね。俄雨よきっと。すぐに止むわ」
青紫になった唇で囁いた。
「でもこれじゃ川底が見えなくなる」
突き刺してくるような雨粒の音は、耳についたごぼごぼという音に掻き消されて聞こえない。それでも彼女は、荷物からダイビングライトを掴みだして、
「行かなきゃ」
と自分を励まして川へと足を向けた。
そうして、潜っては浮きあがるのを繰り返しつづけた。
夕闇が追いすがってきたころ、エイミーは思い切って捜索の範囲を広げることにした。
「ハンツ川はそう流れが速いわけじゃない。だけど、これだけ探して見つからないってことは、きっとどこかに流されたのよ……」
この場所は探せるだけ探した。彼女はそう自分にいい聞かせたかったのかもしれない。あるいはまた、ここではないどこかで見つかるのだと、希望を絶やしたくなかったのかもしれない。しかし、それで見つかるかは誰にもわからなかった。
寒さと積み重なった疲労から、何度か足が攣って溺れそうになり、大量の水を飲んで川岸に縋りついた。雨雲を恨めしそうに見つめて、悪態が口を突いて出た。
辺りがいよいよ夕闇に飲まれはじめたころ、エイミーはとっくに限界を超えていた体力を消耗しきって、心身を引きずるようにして岸にあがるなり、仰向けになって寝転んだ。
暗くなってゆく空に星が瞬きはじめた。
「あなたたちみたいに、『ここよ、ここにいるよ』って教えてくれたなら、どんなにかいいのに……」
気を抜くと眠ってしまいそうだったエイミーは、瞼が鉛のようだと感じていた。
「時間がない。もうすこしだけ……頑張らなきゃ」
声にならない声でそういって起きあがったとき、エイミーはそれまでどろどろになって溶けていた時間が結晶化するのを感じていた。
痺れるような直感にしたがい、微かに残った力を振りしぼって、「ここだ」と思える場所へ潜っていった。
もはや、潜っているのか浮きあがっているのかの感覚すら失いかけたとき、ダイビングライトを浴びて、煙るように揺らめいている川底になにかが光った。
エイミーはそこに手を突っ込んで川底を攫った。なにかが手に触れた。
手指はふやけて感覚もなくなりかけていたが、その無にも等しい指先でそれを掴み取った。
また誰かが捨てた無意味な塵だろうという湧きあがる空虚感とともに、エイミーは浮上した。
ゴーグルを外しながら川岸へと向かう。じりじりと痛む目が霞んで、手に持っているものに焦点があわない。
ようやくの思いで川岸に辿り着いたエイミーは、それにダイビングライトの光を当てた。
二つで一組のアクセスキーの一本だった。
「やっと見つけた!」
エイミーは口を衝いて出た喜びの声を耳にしたあと、絶望と空虚さを目の当たりにした気がしていた。
「こんなもの、こんなもの見つけたからってなんになるのよ。鍵があっても、その鍵を刺して入る家がなければ、なんの意味もないじゃない。こんな惨いことってないわ。こんな惨いことって……」
彼女はすっかり暮れてしまった夜のハンツ川の岸辺で、誰憚ることなく泣いた。
錆びた金属や油、饐えた水藻、それに薬品やらヘドロのまじりあった味に、エイミーは顔を歪めながら慟哭した。
泣き疲れたあと、この一日の無意味さに打ちのめされたのか、彼女は死ぬ思いをしてまで探しだしたアクセスキーを川に投げ込んだ。
「もう死にそう……」
エイミーはそう呟き、動く気力を失ったまま仰向けになって、雨上がりの夜空を眺めていた。
どこからか小夜啼鳥の鳴き声がした。
「どこ? どこから?」
エイミーは組んだ腕枕から頭をあげると、鳴き声を探して、首と視線をあちこちへと振り向けた。
「どこよ? わたしをからかってるの? 馬鹿な女だ、馬鹿な人間だって?」
それでも声の主をしばらくは探しつづけたが、疲れきった心身がそれを許さなかった。
エイミーは組んだ腕枕に頭を戻した。
「聞こえるのにどこにいるのか知れないなんて、無様ね。ねえ待って……。わたしが探してたのはそれだったんじゃないの? わたしが知ろうとしてたのは、それだったんじゃないの? もともと知れもしないし見えもしない。それをあるんだって思い込んできたんじゃないの? ――小夜啼鳥は姿が見えなくても、声が聞こえなくてもいる。一番大切で知りたいものは知れないんじゃないの? だったらわたしは誰のなにが知れるの?」
冬になると見えなくなる、夏の大三角形が夜空の低いところに浮かんでいた。
「こと座のベガは、デネブとアルタイルが川を挟んでずっと会えないでいても、琴を鳴らしつづけてる。そんな無意味なことにも意味がある。――わかったわ、もともと知れることなんてなかったのよ。なのに、わたしそれを知れると思い込んできた。でも、知れるものもある……」
そういってエイミーは胸に手をおいて、掌に伝わる心臓の鼓動を感じとった。
それだけでなく、全身を支配するかのような、倦怠と痛み、寒さに震える唇を感じとった。
「守るべきものはこれだったんだ。――わたし、それを外側に探し求めてた。大切なものを守らなきゃって。でも、そんなことしても守れなかった。一度だって守れなかった。そもそも、守れるものなんてなにも無かったのよ……」
ようやく納得できる答えに辿り着けたと思えたエイミーは、節々にある怠さや痛みや寒さを大事そうに抱きかかえながら、超電導車を駐めた場所に戻ると、ヒーターのスイッチを入れ、シートに身を投げ出した。
「あったかい……」
そう囁くと、そのまま眠ってしまった。
午前零時を過ぎたころ、携帯電話が鳴った。
「もしもし」
――あたしよ、あたし。パンタミーマよ。
それは、かつての宇宙機構の同僚だった。
――ごめんね、こんな時間に電話して。
「それはいいけど、なにかあった?」
――あたしも辞めちゃった。
「え! だってあなたは先代のヴァルト派だったでしょ?」
――そうだったけど、それはやめたの。
「どうして?」
――あんまり調子にのってるからさ、嫌気が差しちゃった。それに、これは確実な情報なんだけど、いよいよはじまるみたいよ。――戦争が。だからさ、どこかに避難したいんだけど、目処がなくってね。
「それで電話を?」
――うん、そう。あんたとは散々やりあった仲だけど、なんだかね、一番先に伝えたかったんだ。
「そっか、ありがとう。――あ、ごめん。わたし今日ジムで汗流しすぎてさ、身体じゅうが痛いのよ。だから悪いけど、これで切るね。でも連絡ありがとう。またね」
エイミーはまだ全身から立ちのぼってくる疲労とも充実ともいえない感覚に痺れながら呟いた。
「嘘だけど嘘じゃない。だって本当のことだもの。――やっとわかったよ、ディッキー。あなたの伝えたかったことが」
数日後、アラバマの部屋を引き払ったエイミーは、超電導高速道を使って祖母エポラールの自邸に姿を見せた。




