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Nichts――無  作者: イプシロン
Ⅳ それぞれの道
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55/55

#55 リュミエール――光

 《リヒト・スヴィエート号》は、星の海を0.998cの速度で突き進んでいた。

 留まることなく加速しつづけ、地球を目指して突き進んでいた。

 シレーヌの体調はしだいに悪化しているのか、ほとんどの時間を眠って過ごしていた。

 ネライダは彼女を慮り、眠りにあわせて船内時間の基準になっている照明の周期(サイクル)を変えた。

 それは、かつてシレーヌが船内の区画を歩きまわって灯した明かりが、しだいしだいに音もなく掻き消えていくようだった。

 フェーは無口になり、気に入っていた自分のベッドを拒み、シレーヌに身体を貼りつけて眠ることが増えた。

 起き出すとすぐに、寝ぼけ眼のまま古ぼけた立体音像ブックのボタンを押し、"祈りの詩"――prière(プリエール)――を歌ったあと、中国区画に向かった。

 そうして、汚れて帰ってくるとまたボタンを押し、歌を聞きおえるとすぐに眠ってしまう。

 そんなフェーを見てネライダはありもしない心を痛めた。

 今度こそはと工夫に工夫を重ねて、気に入ってもらおうと改装していたフェーの部屋の作業も取りやめてしまった。

 わずかな音に異様に神経質になったフェーを刺激したくなかったのだ。

 それでも、彼女の脳波や生体信号は強さを失うことはなかった。

 だが、ネライダからすれば、口を閉じたまま、まるで操り人形のように同じことだけを繰り返すフェーの行動と脳波や信号の落差に、ありもしない心をなおさら痛めた。

 そのネライダはいまではほとんど声を発しなくなった。その機会が失われつつあったからだ。

 《リヒト・スヴィエート号》の船内には、循環する機械的で不気味な空調音だけが反響していた。

 まるで、生身の心臓や肺が立てる音など無用といわんばかりに。


 シレーヌは夢を見ていた。

「ルフト……ルフト……どこにいるの? ルフト……」

「シレーヌ、僕はここにいるよ」

「ああ、ルフト。呼んだらすぐに来てくれたのね。もう逢えないかと思ってた……」

「君が呼べば、僕はいつだってすぐに応えるよ」

「ねえ、でもこれは夢でしょ?」

「そうさ、これは夢だ。僕もいまはぐっすり眠っているからね」

「でも不思議ね、夢のなかの夢で話ができるなんて」

「いいや、不思議でもなんでもない。夢のまた夢っていうじゃないか」

「それもそうね。――ねえルフト、あなたが胸で大切そうに抱えてるの。それはなあに?」

「ああ、これかい? これはアルゴスの目だよ」

「孔雀の羽にある模様みたいのが、浮きあがったり消えたりして、とても綺麗ね」

「これはね、あらゆる人を守ろうと目を光らせてるんだ」

「なんだかネライダみたい。あの子は決して眠らないのよ」

「ネライダか。懐かしいな。――あれは僕の三番目の子どもなんだ」

「あらそうなの? じゃあ最初と二番目は?」

「最初の子はこれさ。いま、僕の胸にあるこの水晶玉だよ」

「じゃあ二番目は?」

「それはね、テライダっていうんだ」

「そう、それはよかった。――わたし、ネライダとずっと一緒にいたけど、もうすぐお別れしないとならないみたいだから。あの子、友達もいなくて、可愛そうだなって……」

「それなら心配はいらない。ネライダにはちゃんと兄弟、いや姉妹かな? がいるから」

「そっか、安心した。じゃあルフトはネライダをずっと守ってたのね」

「いや、ネライダがずっと守ってたのは君だよ」

「じゃあ、テライダは誰を守ってたの?」

「難しい質問だね。――特定の誰かってわけではないんだ。それに、この水晶だって似たようなものだからね」

「じゃあ、その水晶は誰を守ってるの?」

「これ? これは僕自身かな。自信をもっていえないけど……」

「水晶があることを知らなくても、みんなそれぞれ誰かに守られてるって、素敵なことね」

「でもね、この水晶はまだ未完成なんだ。ネライダやテライダとは少し違う」

「どこが違うの?」

「この水晶は、名前がないんだ。だから……この子が誰かを守ろうと願ったり、誰かが守られたいと願っても、通じあえないんだ……」

「あら、だったら名前をつけてあげればいいじゃない?」

「だけど、守られたいと願う人がその名前を知らなければ、繋がれないんじゃないかな?……」

「そんなことないわ。――ルフト、あなたわたしたちの子どものことは憶えてて?」

「ああ、もちろんだ。でも、僕はその子の名前はもちろん、性別だって知らないよ」

「そっか、そういえばわたし話してなかったものね。わたしが考えていた名前。男の子でも女の子でも、フェーにしようって決めてたの」

「フェーか。可愛らしくて素敵な名前だね」

「ねえルフト、そのフェー、随分大きくなったわよ。もうすぐ六歳になるの。悪戯ばっかりして、手を焼かされてるわ。――でも、可愛くって仕方ない。ああ、この子のためなら命も投げ出せるんだって実感したこと、何度もあるわ」

「フェーか、会ってみたいな。抱きあげられるうちに抱きあげてみたい」

「ふふふ、ルフトったら。――フェーはもうあなたを見つけだして、思いきり抱きついたのに、気づかなかったの? 鈍感なパパね。いや、鈍感なファーティかな?」

「それは本当かい?」

「もちろん本当よ。――あの子、あなたの名前は知らないけど、必死に、それこそ必死になって探して見つけ出して、あなたのことファーティって呼んだのよ。――だから、水晶に名前がないのは未完成じゃないわ。――でも、できたら名前をつけてあげたほうがいいわね」

「そうだな……僕の二番目の子どもがテライダで、三番目がネライダだから……そうだ! プネウダがいいかな」

「プネウダ。素敵な名前じゃない。早く、プネウダが守ったり、守られたりする人たちが見つかるといいわね。わたしとネライダみたいに」

「きっと大丈夫だと思う。誰だって祈りたくなるような気持ちになることはあるからね」

「ねえ、ルフト」

「なんだい、シレーヌ」

「フェー、いい子よ」

「どうしたんだい、急に」

「あの子ね、わたしを助けたいって必死に祈ってる。わたしがこうやって夢のなかの夢であなたと話してるあいだも、ずっと祈ってるの」

「シレーヌ、君は悪いお母さんだね。フェーにそんなことさせて」

「あの子ね、わたしを元気づけようとしてるみたいなんだけど、とても危ないところに行くの。そうして帰ってきては、錆びた金属や油、饐えた空気、それに腐った食物やら科学物質のまじりあった身体を擦りつけてくるの。我慢ならない酷い臭いと気持ち悪さなんだけど、しばらくすると不思議なことに、節々の痛みや痒さが治まって、とてもいい気分になって夢さえ見ないで眠れるの」


 《リヒト・スヴィエート号》の速度が0.999cに到達した。


「ルフト? ルフト、どうしたの? ルフト、いるなら応えて……」

「シレーヌ、いるよ。僕はここだ。シレーヌ、ここにいるよ。――なんだか急にノイズが入ってね、すこし途切れたみたいだ」

「わたしが、自分のことばかり話したからかな? ねえルフト、今度はあなたのことを聞かせて。そっちはどう?」

「すべて順調、なんてとてもいえないけど、新しい友だちが三人もできたよ」

「まあ、それは素晴らしいわ。――どんな人たちなの?」

「みんな宇宙機構の人たちなんだけどね、ディッキー、リッキー、エイミーっていうんだ。ディッキーはヴァルトの息子さん。なかなか二枚目のいい男だよ。リッキーは彼の奥さんで、とても気さくで飾らない人。エイミーは彼らを守りたいっていう秘書で、ちょっと変わった子なんだ。はじめて会ったときから驚かされっぱなしだった。でも、とても素直で真面目な子なんだ。――それと、君は知らないだろうけど、長いこと仕えてくれた使用人がいてね。カルハリアスっていうんだけど、僕と同い年でね。彼さ、ずっと孤独を抱えていたらしい。うっかりしてて、僕はそれに気づけなくてさ……。僕はいつでも君に夢中だったからね。でも、彼にエポラールを紹介した。二人は友だちになって、仲良くやってるみたい。とても気があうみたいだよ」

「ヴァルトはどうしたの? エポラールと結婚したんでしょ? わたし、二人が恋人同士だったときしか知らないけど……」

「なんだか、すべてが懐かしいね。北部宇宙暦から標準宇宙暦に変わって、五年後に君は《リヒト・スヴィエート号》に乗って地球を出発したんだったね」

「ねえルフト、ヴァルトとエポラールはどうしたの? 今でも仲良くやってるんでしょ?」

「……」

「ルフト? どうしたの? 急に黙ったりして。ルフト、ねえルフトったら。――あらあら、眠ってしまったのね……。でもまた夢のなかの夢で逢える。だってこの夢はずっと醒めないんですもの。――それにしても、ヴァルトとエポラールはどうしたのかな? 幸せになっていればいいけど……。でもきっと平気ね。わたしが地球を旅立ったのは標準宇宙暦の五年。ということはヴァルトが二十七歳、エポラールは二十五歳のときね。――ずっといがみあってきた南北両軍が協調路線を選んで導入されたのが標準宇宙暦だったわね。宇宙機構はそのために仲介役を買って出て、ヴァルトもエポラールも随分苦労してたっけ。それで、標準暦の五年にようやく南北の関係が安定してきた。――そうだ、そういえばルフトが送ってくれた立体映像記録で見たはずだったのに忘れてたわ……。ヴァルトとエポラールの二人が、宇宙機構本部で南北両軍と共同宣言したのよね。二人とも高い志を胸にして、きらきらと目を輝かせながら、宣言文を読み上げてたっけ。あれは感動的だったなあ。――だから、きっと大丈夫。二人はいまでも仲良し。そうよ、そうに決まってる。だって、さっきルフトがいってたじゃない。ヴァルトの息子さんと仲良くなったって。そうよ、二人は結婚して子どもを生んだのよ。ああ、なんて素敵なんだろう。――でも、少しだけ妬けちゃうな。わたしたちも、遺伝子操作で子どもを作ったけど、お腹を痛めて生んだとはいえないから……。でも、フェーはわたしたちの子。間違いなくわたしとルフトの子よ。――ああ……なんだかまた眠くなってきたわ。フェーまだ戻らないのかしら? 今度はとっても深い眠りに落ちるみたいですこし寂しい……。しばらくは夢も見ない予感がする……。でも、睡魔には勝てないのよね……」


 そのとき、《リヒト・スヴィエート号》の速度が1.000cに到達した。

 ルフトが微笑む顔。フェーが"祈りの詩"を歌う声。ネライダとプルプが治療してくれている感覚。そして――純白の閃光。

 つづいて、光の閃光がすべてを飲み込んだ。


 《リヒト・スヴィエート号》は大きくは三つの区画に分かれている。

 北米区画、中米区画、南米区画は完全に隔離され、行き来することは出来ない。

 だが、三つの人工知能だけが、その隔離制限を受けずに繋がりあっていた。

 プネウダ、テライダ、ネライダがそれだった。

 そして、各区画にはそれぞれの理由から乗り組んだ人たちがいた。

 彼らは、地球を出発してからずっと、冷凍睡眠(コールドスリープ)室にある密閉容器(カプセル)で眠り続けている。

 そのあいだも、乗員たちはそれぞれに夢を見て、夢の世界を生きていた。

 北米区画で眠っているのは、プネウダと医療ドロイドに守られた北部条約機構、情報省長官のシャッテンと、南部同盟連合のオンブル諜報総長。

 中米区画で眠っていたのは、テライダと医療ドロイドに守られた国際宇宙機構、統括本部長のディッキーとその妻リッキー、そして本部長特級秘書のエイミー。

 南米区画では、ネライダと医療ドロイドに守られた国際宇宙機構、宇宙(スペース)生理学(・フィジオロジー)博士のシレーヌと計算機(コンピューター)科学(・サイエンス)博士のルフトと、体外遺伝子操作から生まれた彼らの子ども。

 そして、シレーヌが夢のなかで名づけた、フェーという子どもが六歳に成長すると同時に、《リヒト・スヴィエート号》は光速に到達する計画だった。

 計画は成功したといっていい。

 中米区画で眠る三人は、リッキーが罹患した原因不明の病気を乗り越えるために、冷凍睡眠を選んだ。

 同じように、南米区画で眠る三人は、シレーヌの不治性難病に効果のある治療法を宇宙に求め、それが確立される日を待って、冷凍睡眠容器に入った。

 そして、北米区画で眠っている二人は、南北両軍の協調路線をもっとも忌み嫌ったことが原因となり、ジョナサンとスナップの意向により、永遠の眠りという引導を渡された二人だった。

 プネウダ、テライダ、ネライダで繋がれた乗員たちは、夢のなかの夢で関わりあった。それは見える形であったり、そうでなかったりしたが、関係を持たなかった者はいなかった。

 

 ヴァルトとエポラールは共同宣言の檜舞台に立っていた。

「本日、この日この時を迎えられたことを、わたくしども心より感謝して、この宣言を高らかに掲げさせていだだきます。長く懸案された南北両軍と我々宇宙機構が、一丸となって未来を切り開こうとする協調路線。その懸案を乗り越えてゆく第一歩が記されたこの覚書が、皆さま見えますでしょうか !? これがそれです! ――今日、ここにお集まりいただいた皆さま、いえ、いまご家庭でこの中継をご覧になっておられる皆さま方。この歴史的に意義のある、今日この日、掲げられるこの宣言文を、どうぞ胸の奥深くに刻み込んでいただき、共々に前進してまいりましょう。――もちろん、我々宇宙機構もこれより読み上げます覚書を遵守して、死力を尽くしてまいります。ですが、万が一、万が一、この覚書に反する方向へと、我々宇宙機構が舵をきったと見えたなら、叱咤激励やお叱りの声を遠慮なくあげてください。――それでは、これより共同宣言の声明文を読みあげます」

 ヴァルトの挨拶のあと、若干二十五歳のエポラールが壇上にあがって、堂々と声明文が読みあげられた。

 0005.09.23――標準宇宙暦五年九月二十三日のことだった。

 会場にどよめく観衆の声。世界に同時中継されていたその様子を見ていた家庭や職場、街頭ヴィジョンの人だかりからも歓声があがった。

 標準宇宙暦五年。地球圏世界は新たな一歩を踏み出したのだった。

 シレーヌやルフト、ディッキーやリッキーの見た夢とは異なる夢がそこにあった。

 しかし、それが現実であるのか夢であるのかを知る者はいない。

 すべては現実であり、すべては夢なのかもしれない。すべては繋がりあったモザイクなのかもしれない。どれもこれもが夢であり、どれもこれもが現実なのかもしれない。

 ルフトやシレーヌはそれについてなんというだろうか?

 きっとこういうだろう――。

「世間ではそれらを指して、平行世界(パラレルワールド)ないしは多元宇宙(マルチバース)と呼び慣わしている」と。


 《リヒト・スヴィエート号》は光速に達したあと、シレーヌが名づけた"龍宮"宙域の先へ先へと向かったといわれている。

 もしも、"祈りの詩(プリエール)"が聞こえたなら、その人はきっと気づかないまま《リヒト・スヴィエート号》に乗って光とともに旅をしているのだろう……。


                ――完――

作中挿入歌"祈りの詩"――prière(プリエール)

https://suno.com/song/75479f00-068a-4133-81a8-3a0030e4e853

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