#52 ネゴシエーション――絆
いまにも噴火しそうな怒りを抑えつけながら、エイミーは立っていた。
目に映じていたのは、眺望のいい国際宇宙機構本部ビルの最上階から見渡せる世界だった。
そのエイミーと向かいあってデスクに座っているディッキーの顔色は、とても優れているとはいえなかった。
「噂は本当なんですか?」
口火を切ったのはエイミーだった。
「噂?」
「本部長を辞任するって。もうみんな知ってますよ」
「事実だ」
ディッキーはこともなげにいった。
「辞めるにしても、やりかたがあると思います」
エイミーは憤懣の炎を必死に抑え込んでいるようだった。
「やりかた? そんなものはないだろう。どうであろうが、辞めるのは変わらないだろう」
「いいえ、おかしいです。この一か月半以上、内密の調査だの、極秘だの機密だの、あげくは隠密行動までして大切なものを守ろうとしてきましたよね? なのになんでですか? 自分はなにもかも大っぴらにして、『辞めるからあとは好きにしろ』みたいなやりかたをするなんて、本部長らしくないです。――理由を聞かせてください。でないとわたし、一生ここに立ってますよ」
ディッキーは笑いだしそうになるのを堪え、困り顔を作りだして宥めるようにいった。
「エイミー、人にはそれぞれ事情がある。ことが急変してこれまでと正反対の立場になることもあるんだ。わかってくれないか?」
「わかりません! ディッキーだって知ってるはずです。わたしがルフトさんのことでどれだけ傷ついて苦しんだかは。もっとも勝手に傷ついたことは今ではわかってます。でも、それとこれとは違うんです。ディッキーだって必死になって守ってきたんじゃないですか? ルフトさんを。だったら、ディッキーが辞めたあとわたしたちが困らないようにしてください。でないと、わたしもう宇宙機構にいられません。――噂が流れてからこっち、北と結びついてるだろう人たちや、先代を利用してるヴァルト派の人たちも勢いづいてるんです。ディッキーは我慢できるんですか? 影武者時代にあんなに苦労したのに。リッキーにもあんなに心労をかけてきたのに。それでやっと築いたいまじゃないんですか? そのことは忘れてませんよね?」
「……」
「ディッキー、話してください。わたし絶対に口外しませんから。ルフトさんのときの失敗も、お婆ちゃんとのこともちゃんと心の整理をしました。わたし、自分でいうのもなんですが、この半月で人が変わったように大人になれた気がしてるんです。――ねえ、ディッキー理由を教えて。――もしかして……リッキーのことが原因?」
エイミーは執務室にくるまでに何度も、聞くか聞くまいか苦悩した質問をぶつけた。
「リッキーは関係ない。戦略の問題なんだ」
ディッキーはしばらく口籠ったあと、きっぱりといった。
「戦略? なんですかそれ? 仰々しい言葉を使えば話さないで済ませられるというポーズですか?」
「いや、事実をいったまでだ。そして、君に話してもわからんというのもまた事実だ」
エイミーの導火線に火がついた。
「ふざけないでください! わたしディッキーが辞めるって噂を耳にしてから、覚悟を決めたんです。場合によってはわたしも辞めるって。だからなにも怖くないんです。ディッキーにどんなに怒鳴られようが怖くないです」
そのものいいを売り言葉と受けとったのか、ディッキーが激昂した。
「だったら今すぐ辞めればいい !! こんなところへ来て自分を売り込んでなんになる。売り込むなら次期本部長のところへでも行くがいい。出てってくれ!」
「本部長。怖くないですよ。ルフトさんにお説教されて、ディッキーは言葉遣いが柔らかくなったって、秘書課のみんなは喜んでますが、わたしはどっちのディッキーも慕ってきましたから。その剣幕でもいいです。理由を教えてください。わたし知りたいんです。だって、だって……」
エイミーは必死に涙を堪えながらつづけた。
「なんにも知らないまま判断なんてできないんですもの……」
ディッキーはそれで納得したのか静かに話しはじめた。
「戦略というのは、君も知っているように、いま地球圏は危機的状況にある。戦争だな。北は鵜の目鷹の目で戦機を窺っている。だからだよ、わたしがこれまでやってきた南寄りのやりかたのままだと、宇宙機構は北から恨みを買いすぎる。だからこの辺で少し北に恩を売っておくのさ。もちろん南にも恩は売る。ただね、売り方が違うんだ。というよりもう随分売ったんだ。だからこそわたしは辞めるんだ。そしてそのために辞任することをあえて漏洩させた。北を抑えるためだ。――これで納得してもらえるかね?」
「その件はわかりました。――でも、リッキーのことはどうするんです?」
「君が口を挟むことじゃない」
ディッキーはぴしゃりといった。
「そんな冷たいこといわないでください。わたしがどんなにリッキーを慕ってきたかは、ディッキーが一番知ってるじゃないですか?」
エイミーの懇願する声と瞳には、まごうことなき純真さがあった。
「答えはかわらんよ。――ただし、ヒントは出そう。わたしはね、この一か月半でルフトさんに教えられたことがいくつもある。それが答えだ」
「そんなんじゃわかりませんよ……ねえ、ディッキー。すべてなんていいません。納得できるようにしてください。わたし、ディッキーやリッキーがここを去っても、出来たら変わらない間柄でいたいんです」
「残念ながら、わたしはそうは思ってないよ。君にはすまないが。辞めたあとくらいそっとしておいて欲しいのが正直なところだ」
「そんな……」
エイミーは、もう一秒たりとも涙を堪えられないような表情をしていた。
「そこから見える風景をよく憶えておいてくれ。エイミー、それが君の世界であり宇宙だ」
ディッキーの声は、諭すとも鎮めるとも慰めるでもない調子だった。
「その宇宙を君の思うようなものにしてくれ。わたしたちがやってきたのはそういう仕事だったはずだからね。ここに残るのも去るのも自由だ。でも、それだけは忘れないでくれ。わたしからの遺言だと思ってもらっていい」
「遺言だなんて……そんないいかたやめてください」
「君のその左耳のピアス。それはルフトさんがわたしたちに謝礼として置いていったものだね。LEDは寿命が長いはずだけど、どういうわけかいま君がしているそれは光が陰りはじめてる。――だから、これを渡しておく」
そういうとディッキーは抽斗から取り出した、LEDの箱をデスクに積みあげた。
エイミーは足を震えさせながら、一歩もその場を動かなかった。
それに気づいたのか、ディッキーは席を立って、彼女の両手にLEDの箱を持たせた。
「その光を絶やさないでくれ。頼んだよエイミー。――すまんがもう下がってくれないか。いままでよく尽くしてくれた。心から礼をいう、ありがとう」
エイミーは無言で小さく頷くと、ふらふらしながら部屋を出ていった。
太陽はとうに沈み、最上階から見えるのは闇ばかりだった。
ディッキーは積み上げてきた様々な思い出に目礼を済ませると、部屋を出て扉を厳重にロックした。
夜半過ぎ、ハンツビルの郊外を抜けたところに一台の超電導車が止まっていた。
車から降りた人影は迷うことなく、目立たない建物の一角にある扉の向こうへ消えていった。
ディッキーだった。
扉の上にある看板には、「タージ・マハル――永遠の愛」と書かれていた。
翌日、エイミーは次期本部長に辞表を提出して、あっけなく受理された。




