#51 ピュア・ラブ――二人
自らの存在を否定し、すべては無だと考える人たちがいた。
彼らは、自分たちの呼び名はもちろん、施設や設備、構成員の素性も無としていた。
世間ではそれらを指して秘密結社と呼び慣わしている。
非常に限られた一部の人たちだけが、自分はε、あるいは"果樹園"だと自覚しているといわれている。
その自覚のある一人、エポラールは親しくなったカルハリアスと自邸で、夕食後の団欒にふけっていた。
「それじゃあポーラ、あの方に恐怖映画をお勧めしたのと変わらないんじゃ?」
白髪の老人の顔に、ずっとこびり付いていた使用人の仮面はもうなかった。
「いや、それはちょっと違うね。ああいうのは楽しみかたひとつだわさ。例をあげれば、異星人とか謎の物体Xとか、まあ一番有名なのは屍食人だけどさ。あんなのを観て恐がるのは愚か者じゃよ。ああいうのはスリルを味わうもんだわさ」
エポラールの口吻は隠語で塗り固められていたが、カルハリアスはそれがなにを指すのかすべてわかっていた。
「だけど、世の中ポーラのように見れる人はそういないよ。また湿っぽい話になるけど――」
「カール、よしてくれやい。明日洗濯するタオルを一枚増やすつもりかい? 懲りない爺さんだねえ。まあいい、おやんなさい」
エポラールはけらけら笑いながら先を促した。
「ほらあれですよ、ディケンズのに幽霊が出てくるのがあったでしょ?」
「ああ、『クリスマス・キャロル』だね」
「そうそれ。わたしはあれだった。過去の幽霊をずっと自分だと思ってたんだ。みっともない話、それに気づいたのは、ポーラ、あなたに会って物語を取り戻してからだよ」
エポラールはどういうわけか、淋しげな顔をして開いた窓から吹きこんできた風を見つめながらいった。
「そう考えるとさ、あの人はずっと未来の幽霊を追いかけてたのかもしれんねえ……」
カルハリアスはあの人が、ルフトを指していることにすぐ気づいた。
「どうなんだろうね……いいや、こうはいえないかな? いまあの人は現在の幽霊と話しあっていると……。いや、もしかすると幽霊じゃなくて、精霊かもしれない……」
カール老人は自信がないのか、終わりのほうは小声になった。
「それは誰にもわからんじゃろ……。まあ、少なくとももはや過去や未来の幽霊を相手にはしてないじゃろう。だけど、あたしらだって似たようなもんじゃないかえ? この目で見てこの耳で聞いてるのだって、夢なんだか現実なんだか知れたもんじゃない。だったら、同じ幽霊でも今の幽霊と仲良くするのがせいぜいってとこじゃないかねえ……。さあて、あたしらも現在の幽霊のご相伴にあずかるために、そろそろ寝るかね」
「そうですね。寝ましょう、寝ましょう」
二人は二階の寝室に向かいながら話しつづけた。
「そうだカール、あんたもさ、ディケンズやルイス・キャロルとはいかないまでもさ、『カール爺さんの童話集』なんてのを出すのを夢にしてみたらどうだね?」
「どうもね……老眼が酷くて……」
「それであんたは『不思議』と『鏡』どっちが好きなんだい?」
「どっちもです」
「そういう優柔不断だと、死ぬまで童話のひとつも書けなそうだね」
「あたしは『鏡』だね。なんてったってあたしは生まれながらの美人だろ。だからほら『鏡よ、鏡、この世で一番美しいのは誰?』とでもいってないと――ちょっとあんた、もう寝ぼけてるのかい? トイレはあっち、そっちじゃないよ」
しばらく二階の廊下を歩く足音や、扉を開けしめする音がしたあと、ぱったりと静かになった。
その夜、夏の終りを告げる風が、閉めわすれた窓の木扉をずっと揺らしつづけていた。
雲のない夜空では、太陽の光をうけた満月が密かに熱を送り、その風を生みだしていた。
自らの両腕といえるエイミーとリッキーと離れて過ごした二週間ほどは、ディッキーにとって百年つづく夕闇のようだった。
そのあいだ、ディッキーは国際宇宙機構の最上階にある本部長室に寝泊まりした。
ある夜、エポラールからの外線電話が鳴った。
電話で伝えられた内容にディッキーは打ちのめされた。
リッキーの妊娠しづらい体質は不妊症が原因ではなく、全身のDNAが変異する原因不明の進行性の"なんらか"であると知ったのだ。
エポラールは、リッキーの検査結果の詳細を記録したメモリーカードを、エイミーに持たせとも告げた。
しかし、ディッキーはそのカードを待つあいだ、焦慮と苛立ちを相手に薄闇のなかで格闘しなければならなかった。
生活は乱れ、間にあわせに置かれた組み立て式デスクの上には、食べ残しが乗った汚れた皿、飲みかけのグラス、渋痕の残ったマグカップなどが山となっていた。
コロラドから帰ったエイミーとリッキーはその凄まじさに驚いた。
「ディッキーらしくないわ! あとはぜんぶ任せろっていってたのに……」
エイミーはぷんぷんしながら片付けをした。
「仕方のない人。わたしがいないとなんにも出来ないんだから」
リッキーは、やつれて目の下に薄い隈をつくった夫の面倒を、かいがいしくも嬉しそうにみていた。
ようやくディッキーが平静を取り戻した頃、今度は南部同盟連合と繋がっている外線電話がけたたましく鳴った。
受話器から聞こえてくる統合軍総長ジョナサンの声を、ディッキーは細大漏らさず聞き逃すまいと耳を傾けた。
そして、その場で取引きに応じることを了承し、事後の秘密面談の時間と場所も決めてしまった。
電話を切ったあと、ディッキーは言い訳するかのように呟いた。
「もはや、リッキーだけの問題ではない。宇宙機構はおろか地球規模、これは太陽系規模の重大な危機なんだ。迷っている暇などないはずだ……」
しかし、幾分冷静さを失っていたように見えても、ディッキーは自分のとった行動が引き起こしかねない、きな臭さも敏感に感じ取っていた。
「北軍が傍観するはずはない……だとすると……」
ルフトとはじめて対面したとき、リッキーが冗談半分に口にした言葉が彼の脳裏を駆け巡った。
「戦争でもはじめるおつもり?」
その日の夕暮れ――。
アラバマに戻ってから、夫の居所を頻繁に訪れるようになったリッキーの姿が執務室にあった。
彼女は来客用に出したティーカップの片付けをしていた。
「ねえあなた? 体調は随分いいみたいだけど、最近、無精髭なのはどうしてなの? なにか理由があって?」
ディッキーは自分の顎を擦りながらいった。
「ああ、これか。いやほら、君らがいないあいだ、剃るのが面倒になって伸び放題になったんだけど、鏡で顔を見てたら、こっちの方がいいかと思ってね」
「どういいのかしら?」
「最近、『君は親父さん以上にやり手だね』なんていってくれる古参の人もいてね。だから少しは貫禄をつけてもいいかと思ってね。もっとも君が――」
そういいながらディッキーがリッキーに目を向けたとき、銀のトレーが床に落ち陶器が砕けちる音がした。
「リッキー!」
ディッキーはすぐに席を立って、床に身体を投げ出している妻のもとに駆け寄った。
「なんでもない。躓いただけよ。そんなに怖い顔しないで。なんだか最近、あなた妙に神経質になってるみたいだけど、なにかあったの? わたしがコロラドで不倫した証拠でも掴みました?」
そういいながら、リッキーは投げ出されている足をぽりぽりと掻き、それから華奢な腕を掻いた。
「不倫なんてありえない。そもそも君は僕にぞっこんだし、僕も君にぞっこんだ。きっと生まれ変わってもまた一緒になるよ。神経質に見えるのは……きっと、コロラドに居たとき君がなにをやってたのか知りたいからじゃないかな? 君にスパイみたいなことをやらせたのは不本意だった。本当は、僕が君を見張っていたかったくらいだよ。悪さをしないようにね」
ディッキーは床に落ちた銀のトレーを手に取って、割れたティーカップの破片をひとつひとつ拾いあげていた。
「わたしが悪さをするのはあなたにだけ。――それ、お気に入りだったのに、割れちゃったわね」
「また買えばいいじゃないか」
「買えないのよ……」
「どうしてだい?」
「それ、たまたま立ち寄った骨董屋さんで見つけたの。あなた手作りっぽいの好きだから」
リッキーは椅子を支えに立ち上がろうとしながら話しつづけた。
「お店の人が親切に説明してくれたの。有名な作家の品じゃないけど、手作りの一点物だよって。ほらここ見てって」
そういって彼女は欠片に残ったサインをディッキーに見せようとして、またよろけた。
「リッキー?」
「わたしどうしたのかしらね? なんだか身体がふわふわしてる」
リッキーの両腕を掴んでしゃがんでいたディッキーは掌に熱を感じていた。
「少し熱があるんじゃないか?」
手が額にすいつくように素早く動いた。
「随分熱がある感じだけど……」
「ディッキー……」
リッキーは床に座ったまま夫の顎を撫でながら悲しそうにいった。
「あなた、それ無精髭じゃないでしょ?」
「……」
「そんなことで願掛けしないで、わたしなら大丈夫だから。どこにもいったりしない」
ディッキーはそういう妻の目から力が抜けていくのに気づいた。
「リッキーしっかりしろ! リッキー!」
「大きな声を出さないで。しばらくこうしていれば、良くなるわ……。ディッキー、あなたもどこにもいかないでね」
「ああ、大丈夫。ずっと君の傍にいるから。約束する」
夜が深まったころ、リッキーは望みどおり、人目につかぬようにして病院に入院した。
ディッキーは明かりの消えた待合室で、妻のためだけに生きようと心を決めた。
彼が辞任するらしいという噂は、またたくまに宇宙機構内に広まった。




