#50 プリエール――受容
中央制御室の一角では改装作業が進み、フェーの部屋が少しずつ形作られていた。
それにあわせるかのように、彼女の生活スタイルにも変化が見えはじめた。
制御室はフェーのリビングであり学校だった。
彼女はまだ完全に仕上がっていない仮部屋を飛び出すと、制御室を隅々まで練り歩いて《リヒト・スヴィエート号》の謎に挑む、ちびっこ探偵のようだった。
気になる部分を触ったり叩いたりはしなかったが、そのぶん教師役で遊び相手のネライダに、話しかけては質問するのが常だった。
それに満足すると自分の部屋に戻って、シレーヌの私室から持ち運んできた、お気に入りの宝物で心を和ませていることが多かった。
そうして眠くなると、まにあわせの簡易ベッドで寝息を立てた。
もっとも、眠るときはシレーヌのいる治療室へ足を運ぶことがほとんどで、一緒のベッドに寝ることを執拗にせがむこともあった。
フェーの願いは、天秤のように揺れるシレーヌの症状によって、半分は叶えられ半分は叶えられなかった。
治療室でシレーヌといるときのフェーは、以前と変わらぬ天真爛漫な夢見る少女だった。
そしてもう一箇所、フェーが数日おきに訪れる場所があった。
中国区画にある閉鎖された通気口の扉、"AC-ED"だった。
彼女はそこを訪れると、制御室とは打って変わって閉鎖扉を叩き、有毒性の化学物質が残っているかもしれない、付近の壁や床を触るのだった。
ネライダは受信したフェーの力強い生体信号と脳波から、そのことを知っていた。しかし、それを止めることなくひっそりと見守っていた。
そんなとき、《リヒト・スヴィエート号》は久しぶりに通信を受けとった。
船外の送信機器の機能をほとんど喪失し、復旧の見込みさえ立っていなかった状態では、ほとんど無価値といっていい電文だった。だが、それは南部同盟連合、統合軍総長ジョナサンの電子署名のある秘密電だった。
極秘、機密、秘密というセキュリティ区分からしても、そうたいした価値はありそうになかったが、ネライダは念のために、シレーヌに報告することにした。
「船長、あまり具合がよくないところ、申し訳ないのですが、ひとつ報告がありまして」
「なあにネライダ、やけにしおらしいじゃない。わたしの体調にあわせなくてもいいのに」
シレーヌはこの日、全身のむず痒さ、とりわけ下半身の痒さと目眩、そして頻繁に込みあげてくる吐き気に襲われ、上体を起こすこともままならずに天井を見つめていた。
「いや、そういうわけではないんですが。とにかく報告します。――それとひとつ相談がありまして」
「それって不吉な相談よね? わたしどういうわけかわかるの。調子が悪い時は頭が――」
シレーヌは言葉につまったのではなかった。吐いていたのだった。
そのとき、プルプSEは定期点検中で治療室におらず、FEはフェーのベッドの整備中だった。
「まあ、相談は後にしても構わないので、まずは報告をします。――先ほど南部同盟連合、統合軍ジョナサン総長の署名入りの電文が届きました。情報防衛設定レベルは秘密です。内容は宇宙生理学と病理学に関する情報です。つまり、地球側から最新の医療データが届いたのです。これまでであれば、α回線への着信は制御室のモニターに表示して来ましたが、なにしろいまは船長の状況が状況ですので、口頭でお伝えしておこうとしたまでです。――ただ、船長もご存知のとおり地球からのデータは古すぎまして、この船ではほとんど役に立ちません。相対論的時間の影響で、こちらからの送信が地球に届くまで早くて二年四か月以上。それを受けとった地球側がデータを元に研究した知見を送信しても、この船に届くまでにさらに約二年四ヶ月かかります。つまり往復で約五年かかりますので、先程受信したジョナサン総長からの内容も、生理医科学的にはほとんど見るものがありませんでした。ただ重要と考えられるのは、その電文が従来の秘ではなく秘密であったという点でしょうか……。船長? もしやお休みになりましたか?」
ネライダは話しながらシレーヌの生体情報を確認していたのだが、それにはなんの変化もなかった。
しかし、シレーヌはネライダの話しを耳にしながら、激しく吐いていた。
もはや胃になにも残っていなかったのか、吐き止んだシレーヌは口元を拭ってから、頭を枕に戻し天井を見つめながら力なくいった。
「わかったわ。どちらにしろ役には立たないでしょ」
「船長、どうかされました?」
「わたしもう駄目みたいよ。だって……見てこれ」
シレーヌは、ネライダがプルプのカメラを通してしか映像を見れないことなど、念頭にないようだった。
「この足はなに? むくんでる? 青い大根ね。それにこの腕。まるでゴボウ。これは錯覚なの?」
「シレーヌ船長! 気を強く持ってください。こんなときですが、相談があるんです」
「相談ね。それはきっと無理よ……。だってもう限界なの……。ここのところ食べれてもいない。なのにゲーゲーして。でも食欲はある。胃にも腸にもなにもないでしょ。けどグーグーいわない。ネライダ……これは錯覚なの? 現実なの? とても痒いのになんだか気持ちがいい……」
「それは現実です……」
「やっぱり……」
虚ろな目をしたシレーヌは、瞬きひとつしないで天井を見つめていた。
「どうして黙ってたの……」
「希望を捨てて欲しくなかったからです。ですが、わたしは嘘はつけません。なので相談しようと考えたのです」
「どうやら遅すぎたようね……」
「船長の身体に起こっているのは、全身のDNAに変異が起こる症状です。しかし原因がわかりません。根本的な治療も見つかっていません。それゆえ、対処療法しか手がないのですが、それすら効果がさほど認められないのです」
「知ってた。異様に勘が働くの」
「シレーヌ、しっかりしてください!」
「ネライダ、わたし死ぬわよ……あと一週間ももたない」
「やめてください!」
「だって、わかるの。フェーとここで暮らして、勘が働くようになったんだもん。――あの子、またあそこにいったのね。わたしのために……」
「どうしてそれがわかったんですか? わたしは告知するかどうかさえ迷っていたのに」
「馬鹿ね、ネライダ。あなたの話してる内容じゃなくて、声でわかった。――フェーも必死。でももう疲れた……。ネライダ、南軍が簡単に秘密の医科学情報を開示するとでも? 南は専守防衛主義。兵員の救護が最優先。わたし馬鹿じゃない……。北は一通だってそんなもの送ってきたことがない。地球圏は戦争になってるかもね。北も南もわたしたちを利用してただけ。でもね、ネライダ。わたし誰も利用したり裏切ってない。宇宙機構も頼りなかった。ヴァルトとエポワールは友達だった。唯一頼れたのはルフトだけ。でももう逢うことも話すこともできない……。だけどさ……すべての元凶はわたしなの。中国区画に電磁波防護ゴーグルを忘れたのはわたし……。自業自得ね。だから、誰も恨んでない。でもわたし、みんなわかってた……」
「……」
「おやすみ……」
それから五分もしないうちにフェーが治療室に駆け込んできた。
服はあちこち破れ、露出した部分の肌は真っ黒に汚れ、頭からつま先まで塵や埃まみれだった。
しかし、フェーは靴も脱がずにベッドによじのぼると、汚れた全身をシレーヌに擦りつけつづけた。
「ママン! ママン! ママン! ――ネライダ、プリエール! プリエール! プリエール!」
そう叫びつづけながら。
――毒には毒。今となってはそれしか手がない……フェーだけが感じ取っていたのかもしれない――。
ネライダはプルプSEのカメラに映った母娘を、じっと見つめつづけて祈っていた。
《リヒト・スヴィエート号》は、このとき猛烈に加速して、0.996cに到達した。




