#49 ヴォカリーズ――部屋
シレーヌがフェーを連れて凱旋してからも、彼女の病気らしき症状は一進一退のままだった。
もしも、《リヒト・スヴィエート号》の内部を外から眺められる者がいたなら、
「それはそうだよね」
と答えただろう。
ほとんど光速といえる0.989cという速度で、宇宙の海を疾走しているシレーヌやフェーが船内を全速力で走ろうと、外にいる人からすればほとんど止まって見えるはずだった。
だから、一進一退なのが普通といえる面があった。
しかし、シレーヌやフェーにとっては違った。
自分の中を流れる時間は、いつもと変わらないと感じていたのだ。
彼女たちはよい方向への変化を求めていた。
「ねえネライダ、ちょっと相談したいことがあるんだけど」
上体を起こしたシレーヌは、ベッドの脇にいるプルプSEのカメラを見つめながらいった。
「なんでしょうか?」
「あのね、フェーの部屋、作れないかしら?」
「それは不可能ではないですが、工業ドロイドの数が不足していまして。それにドロイド工場の復旧率も10%を超えた程度です。それから、5%ほどとはいえ中国区画にはいまだ有毒物質があります。なので、あそこを閉鎖したまま大規模な船内の改修は困難でして。それに判明していない3%の化学組成の解析で大忙しなんです」
「あなた、前にウルトラマルチタスクだっていってなかった?」
「それは思考能力についてです。物理的なことは当然制約がありまして」
シレーヌはネライダの反論を面白がるように頬を緩ませた。
「そこをなんとかするのがあなたでしょ?」
「そういわれると、このネライダやる気が漲ってきますが、無理なものは無理なんです」
「ねえ、ほんの少しでいいの。力を貸してよ。――あの子もうすぐ六歳よ。この船が家だっていえばそうかもだけど、普通の感覚ではそうとはいえないじゃない。わたしの部屋は物だらけだし、こんな身体じゃ整理もできない。わたしとか六歳のころは、家と学校を行き来して、知ってるところで遊んで。知らないところを探検したりしたのよ。あの子にあるのは船内の探検だけじゃない。最近あの子を見ててつくづく可哀想に思えてきてね……」
「ご本人は一向に気にしてないようですがね。――最近は中央制御室がお気に入りのようです。船を身体とするなら、腕や足、腹や背中、首や手がどうなってるかは大体わかった。だからつぎは頭とそのなかにある脳の研究に励んでいるようです。もっとも、内蔵とでもいうべき中国区画にもまだ未練も興味もあるみたいですが。つまり、探検はいったんおあずけにして探索をしているんじゃないですか?」
シレーヌはなかば納得し、なかば納得しかねる表情を浮かべた。
「はじめはこの治療室に小部屋を増設できないかなって考えたの。あなたが設計して工業ドロイドが作ってくれた、医療用兼私用ベッドは気に入ったみたいで、あの子自分のだって思ってるわ。だけど、ここだとあなたの目が届かないじゃない。――プルプはいつも三体いるけど、SEとFEは拒否したり受け入れたりで安定しないし。REは相変わらず意固地なままだし。わたしもまだ一日中起きてて目を光らせてられるわけじゃないし……。となるとネライダ、あなただけが頼りなのよ。あなたがフェーの生体信号を捉えられるようになったのは心強いんだけど……」
シレーヌは懇願するような声色で、プルプSEのカメラを見つめ、語りかけるようにいった。
「しかし船長、さほど心配はいらないかと。それに、彼女の場合は生体信号もそうですが脳波が強いんです。つまり、身体的に見ても脳神経学的に見ても、彼女は非常に生命力が旺盛なんです」
「だからって放っておけないでしょ? それにそれって、フェーが手のつけられないやんちゃだとか、特異だといってるのとあんまり変わらないわ。いまは静かに寝てて天使そのものみたいだけど」
そういってシレーヌは、フェーのために新設された、少し離れたところにあるベッドで寝返りをうった愛娘を見つめた。
そのフェーは、古ぼけた立体音像ブックを胸に抱きかかえたまま、むにゃむにゃと寝言をいっていた。
「あの子、よほどあれが気に入ったみたいなんだけど、ちょっとむず痒いのよね」
「どうされました? また痒みが増しましたか? 我慢できないようなら、プルプに痒みどめの処方を出しますが?」
ネライダは軽快にそういったが、その奥にどこか心配事を秘めているようだった。
「そうじゃないわ、ネライダ。あなたときどき人の話を聞いてないのよね。あの歌の題名のことよ」
「といいますと?」
「あれタイトルがわたしの名前でしょ。だからね、あの子に『ねえねえシレーヌ、シレーヌ歌って』ってせがまれると、一瞬頭が混乱するのよ」
「ははは、それはまた面白い」
ネライダは笑いの壺に入ったように楽しげだった。
「それにあの子、縫いぐるみとか人形とか、おままごとグッズとか、そういうのにまったく好奇心を示さないのよね……」
「わたしの設計が悪かったのかもしれませんね。――それより船長。例の船籍不明の宇宙船らしきものの記録映像は見ましたか。あの奇跡のような加速の場面です」
「見たわ」
突然話題を変えたネライダにすこし腹を立てたのか、シレーヌはぶっきらぼうに答えた。
「船長、そうふてくされないでください。あの奇跡のような加速こそ、フェーとあの歌に関係があるのではと考えているので、ちょっとお話しただけです」
「あらそう、じゃあつづけて」
「わたしがフェーの生体信号と脳波を捉えられるようになったのは、あのときなんです。もっとも、歌の二番がはじまってからなんですがね。前に報告しましたが、あの加速はこの船の動力設計上ありえない猛烈さでした。そのおかげで船長はもちろんわたしもこの船も救われたといって過言はないかと。したがって、加速の原因はフェーの歌だったと推測したのです。しかし、なぜそうなったのかについてはなにもわからないのです。――もしや、ルフトさんが関係しているのではと考え、アーカイブにあるデータも確認したのですが、皆目見当がつかないのです」
シレーヌは頭を振り向けて三体のプルプを眺めてから、フェーに視線を戻し、胸に抱かれている古ぼけた立体音像ブックに目を凝らした。
「ネライダ、こうは考えられない? あの子ね、本当にわたしになにかを求めるとき、わたしのこと『ママン』て呼ぶの。シレーヌもフランス語だけど、それはきっとネライダが呼ぶのと同じ意味なの。あと、『ボンジュール』とかいろいろあるんだけど、機嫌のいいときはフランス語を使うの。――あの子、船内の誰かをずっと探し歩いてるわよね? あれ、やっぱりルフトなんじゃないかって思うの。もちろんここにはいないはず。とりあえずそういっておくのは、気が狂ったと思われたくないからだけど。――だからね、フェーがルフトの存在をなんらか感じとったなら、ドイツ語を使うんじゃないかしら?」
「フェーは普段、英語ですけどね」
「じゃあネライダ、あなたはどう思うの?」
「そうですね。――船長はフランス人、ルフトさんはドイツ人、だとすると船長たちのあいだに生まれたフェーは、その混血になります。とはいえ、普通は両親が話している言語を憶えるので、その場合、船長とルフトさんが使ってきた英語が中心になるのでは?」
「ネライダ、あなたロマンがなさすぎるわ。――例えばこうは考えられない? フェーは三か国語を耳にしてそれを混ぜあわせて、自分独自の言語を作りだそうとしている。あなたにはじめに話しかけた『ねんねん』とかあの独特な言葉づかいは、いってみればフェー語だったかもしれないじゃない?」
「なかなか奇抜な発想ですね。では、言語学的な名前をつけるとしたら、フランツ語とか、ドインス語になりますね。ですが、これに英語を加えるともはや名前がつけられない。となると、フェー語はなかなか真実味がありますね」
「でもありえないことではないわ。――あの加速を起こさせたのがその言語だって可能性がないとはいえないじゃない?」
「それはそうですね。そもそも歌というのは言語を超越しているとはいえますから」
「きっとそうよ、あの子、ルフトを探し歩きながらなにか感じとったのよ。それで、心のどこかにルフトを感じたんじゃないかしら? だってほら、わたしだってそういうことあるもの。もっとも、あの子はルフトに会ったことはないけど、無意識とか遺伝子とかでは繋がってるでしょ」
「それはそうですが、その辺は検証のしようがないかと……」
そのとき、話題の焦点になっていたフェーが目を覚ました。
ベッドからずり落ちそうになりながら床へ裸足の蹠をつくと、フェーは靴を履いてシレーヌに走り寄った。
「ママン! ねえねえシレーヌ、いっちょに、シレーヌ歌おう」
フェーは小さな両手で古ぼけた立体音像ブックを差しだした。
「ねえフェー。その歌の題名、ママン変えたいんだけど駄目?」
「ん? ママンにしゅる?」
フェーはまだ起き抜けの表情を漂わせたまま、小首を傾げた。
「それも困るわね……」
「じゃ、ファーティ!」
「フェー! いまあなたなんていったの? もういっかいってみて」
「ねえねえ、ネライダ、ねえねえ、シレーヌ、ねえねえ、ファーティ、もひとつおまけは、ありましぇん、あるのはあたち、フェーでしゅよ」
シレーヌは愛娘を抱き上げてベッドに乗せると、フェーが両手で持っている立体音像ブックのボタンを押した。
もうすっかり歌詞を憶えていた母娘とネライダは、一緒になって"Sirène"を歌った。
途中ですっかり目を覚ましたフェーは最後のサビの前にある歌詞のないところにくると、胸を張って命を楽しみきるように歌った。
「しゃららん らら らららら らんらら らーららー あー」
翌日、シレーヌはその歌のタイトルをフェーと相談して、"祈りの詩"――prière――に改めた。
時を同じくして、ネライダはその祈りに答えるように、シレーヌにせがまれたフェーの部屋を中央制御室に造るために、工業ドロイドに指令を下した。
しかし、そのネライダは、プルプSEとFEをはじめとする全ドロイドによってもたらされた、シレーヌの病気に関するデータを受けとっていた。
作中挿入歌"祈りの詩"――prière
https://suno.com/song/75479f00-068a-4133-81a8-3a0030e4e853




