#4 パトロール――母国
通路を歩くシレーヌの船内服ポケットにはいつも数本のマジックがあった。
その目的はシンプルだった。統括人工知能のネライダが不寝番として目を光らせていても、彼女は彼女なりに船のことを把握しておきたかったからだ。
その痕跡は船内の各所に見える。数年前になぐり書きされ薄くなった青い文字。そのうえに書き重ねられた黒い文字。書いては消してが繰返された痕跡。そして四角で囲まれたなかに赤い太字で書かれた"注意!"と、その周辺の箇条書きなどである。
重要区画はとくに念入りで、手の届かない場所や天井にすら書きこみがあった。
《リヒト・スヴィエート号》が1Gの定常加速に達してから、船内には常に擬似重力が作用していた。
だが、彼女は船内靴の磁気機能を十二分に利用して、アクロバティックな書きこみをしてきた。
そんなシレーヌではあったが、重力の発生機構がどのようなものかまでは知らなかった。
だから、作業がやりにくい場合、ネライダに連絡をいれ、その区画を一時的に無重力にすることもあった。
彼女は船内の全区画の巡回を、3、4時間かけるのが常だった。その折り、シレーヌは退屈しのぎに、壁面をカンバスにして悪戯書きに興じることもあった。
「英国区画は問題なし。まったく変わり映えしない保守性には呆れるけど、頼もしくもあるのよね」
「米国区画も問題なし。なんというか楽天的なエリアよね、ここは。そのくせどこか意地っ張り」
「仏国区画、やはりここが一番落ち着くわね。装備の配置に美的なこだわりがあって、我が国民の気質を感じるわ。ある意味では我儘ともいえるかな」
「日本区画。侘び寂びの世界ね。ちょっとよくわからないのよね、ここは」
シレーヌにとってそれは点検だった。だが、ネライダにとっては行動と生体情報の監視であり、安全維持のためのデータ収集であった。
「さて、中国区画はどうかしら?」
彼女は胸ポケットから電磁波防護ゴーグル取り出して装着すると、区画内に入っていった。
「ネライダ、ドロイド工場はいつも通り、いや、いつもより生産性があがってるみたいだけど、どうなの?」
「はい、船外通信機器の修理でドロイドはかなり消耗していますので、現在できるかぎりの増産体制にあります」
「しかし、出発以来、その点だけ改善がみられないのはどういうわけ?」
「こればかりは致し方ありません。なにしろ宇宙空間は、様々な星間物質が猛スピードで飛び交っていますので、船外装備やドロイドは物理的に限界がありますので」
「そう、わかったわ。ただね、船内で何年も過ごしても、こればかりは実感が湧かないのよね」
そのとき、リストコムに赤い警告ランプが灯るのと同時に、ネライダが早口になった。
「船長、緊急報告です。Θ係数が±1.5を超え、急速に2.0へと近づいています!」
「それで、どうなるわけ? 落ち着いて報告して」
「はい、航行自体にはなんの支障もないのですが、通信の遅延というより断絶の可能性があります」
「断絶した場合、復旧にはどれくらいかかりそうなの?」
「わかりません。データ不足です」
「で、どうするつもりよ」
「さてどうしますか」
「どうするのよ?」
「わたしには決めかねます」
「わかったわ。通信が途絶したなら、計画も任務も無意味になるわ。ここはいったんΘ係数が落ちついて原因が掴めるまで、反転して通信を確保するしかないわね。即時180度回頭よ。――それから、Ω級の中性子星からの影響を、計算に入れるのを忘れないで」
「しかし、船長がその区画にいる状態での急速回頭と減速は非常に危険です。制御室に戻ってもらうのがいいのですが――」
「その時間はないということね。ネライダ、ここから一番近い安全区画はどこ?」
「LS-A01-J38です」
「それじゃわからないわ。どこよ、国名でいって」
「露国区画です」
「ルイシー? ネライダ、あなたのフランス語、いい発音してるわ。はじめて聞いたけど。それは気遣いなの? ――ということは、本当に緊急なのね。それで、わたしはエアロックに行き、そこに固定された宇宙服に潜り込めばいいのね?」
「そのとおりです」
「わかったわ。わたしの生体信号は感知できてる?」
「もちろんです」
「なら、回頭と減速のタイミングはあなたに任せるわ、ネライダ」
「わかりました。しかし――」
「しかしじゃないの! 時間がないの。あとのことは露国区画についてから話しあいよ、いいわね?」
「かしこまりました」
シレーヌが駆け出した中国区画には、電磁波防護ゴーグルがぽつんと残されていた。




